Tooki kuni ya
水面が輝いていた。
生まれたばかりの太陽が沸き上がる波を照らしていた。
柔らかな波音が僅かに響いていた。
靄に煙る海面を一望するかのような海辺に静かな調べを与えていた。
その波音に合わせるような歌声が一つ流れていた。
それは一人の老人の歌声だった。
その静かな湾に設けられた防波堤の上に一人で座っていた老人の歌だった。
野太く何処か調子外れの歌声だった。
お世辞にも上手とは言えない歌声だった。
だがその歌声は老人の歩んだ人生そのままを表すような歌声だった。
そして何処か聞く者に懐かしさを感じさせる歌声でもあった。
そんな歌が揺らぐ水面の光に溶けていた。
不意にその歌が止んだ。
そして少しの間をおいて歌詞の代わりに鼻歌に切り替わった。
しかしそれも止まり、やがて老人は一言を口にした。
「えっと・・・後はなんだったかな・・・」
その一言は誰に聞かせることもない水平線に向かって語られた。
・・・まあ・・・いいか・・・
そして老人は微かな微笑みを浮かべると緩やかに流れる波を見始めた。
「ん?」
その時不意に後ろから歌声が聞こえてきた。
それは老人が忘れてしまった歌の続きだった。
そして、怒るでもなく驚くでもなくごく自然に老人はその歌の方へ顔を向けた。
「なんじゃ・・・あんたか・・・」
振り向いた老人の眼に一人の女性の姿が写っていた。
そこには20代後半程の一人の女性が立っていた。
「誰と思ったんですか?」
「そうじゃな・・・仏さんでも迎えに来たんかと思ったよ。」
「あはは、仏様ですか?仏様がこんな恰好してます?」
黒っぽくやや地味な服装に身を包んだその女性は笑顔でそう答えた。
「それもそうじゃの・・・しかし覗き見とは以外に趣味が悪いの。」
「あら、私は今来た所なんですよ・・・あなたを探しに。」
「そうか・・・まあ確かに自由時間って訳じゃ無いからの。」
「でも・・・誰でも一人になりたい時ってありますからね。」
「・・・ふん。」
そう返事をすると老人は再び海の方を向いた。
そして女性はそんな老人に続けて声をかけた。
「やっぱりご家族と離れて暮らすって寂しいですか?」
「寂しいか・・・孤独とか寂しいってのは子供が友達に意地悪された時に言う言葉じゃよ。」
どこか投げやりな言葉で老人はそう答えた。
「・・・強いんですね。」
その言葉に何処か慈愛を含んだ声が返ってきた。
「今のは昔読んだ本に書いとった台詞じゃよ・・・一度言って見たくてな。」
「そうですか・・・でも恰好良かったですよ。」
「そうかの・・・ま、こういうのも悪くは無いとも思っとるよ。」
「私もそう思いましたよ。」
その声を最後に少しの沈黙の時が流れた。
波音だけが静かに響いていた。
そして老人は腰掛けた防波堤から静かに降りた。
「さてと・・・お迎えも来たことだし戻るとするかの。」
「すみません。何だかお邪魔しちゃったみたいでしたね。」
「なに、かまわんさ。一度あんた達ともゆっくり話してみたいとも思ってたんじゃがの。」
「ええ、私で良ければいつでも。」
「そうか・・・じゃ、まず手始めに聞きたいんじゃが。」
「何ですか?」
「さっきの歌・・・続きを聞かせてくれんかの?」
少しの照れの混じった老人の表情に女性は一層の微笑みで返事をした。
「いいですよ。じゃ、戻りながら一緒に歌いましょうか?」
「じゃ、そうしようかの。」
そして老人は防波堤を背に来た道を戻り始めた。
「じゃ、最初っから行きますよ・・・」
とおきくにや 海のはて
いずこに済む 民も見よ
「おとーさん、おかーさーん、なんかさっきおうたがきこえたよー」
「へえー、どんな歌だい?」
「あのねあのね・・・えとえと・・・とーきーくにやー・・・あとわかんない。」
「それは聖歌よ・・・ここ教会の中だからね。」
「ふーん、そー」
「それよりそんな泥だらけになって・・・おじいちゃんが生きてたら怒るわよー」
なぐさめもて変わらざる
主の十字架はかがやけり
「へいきだよー、だってさっきいっぱいいっぱいお花あげたんだもん。」
なぐさめもて 汝がために
なぐさめもて 我がために
「あの時お前を庇ってくれたんだからなあ・・・もうちょっと・・・」
そんな光景が天空一杯に広がっていた。
その天空を見上げながらこの上ない満足から来る笑みを老人は浮かべていた。
そして、眩いばかりの光に溢れた道を老人は再び歩き始めた。
頭に光輪を輝かせ、背中から純白の羽を広げた者とその歌を歌いながら・・・
揺れ動く地に立ちて
なお十字架はかがやけり
Remember:1995.1.17.05:46
and tribute to "real angel" S.Kume
※ この作品は「とおきくにや(聖歌397)」よりイメージを得て書きました。
なお、この歌詞は関東大震災の後に付けられたそうです。