その部屋に一人の老人がいた。
薄く簡素なマットにその痩せた体躯を横たえていた。
年を経た証の如き表情が部屋の一箇所に向けられていた。
一輪の花だった。
何の変哲もない・・・雑草と呼ぶに相応しい花だった。
薄汚れた床の僅かな割れ目に根付いた、まさしく雑草だった。
その花を老人は見ていた。
生気はあるが力のある視線では無かった。
しかしそれは・・・穏やかと言う言葉が相応しい視線だった。
一人の老人がその部屋にいた。
中からは決して開かない扉の向こうに老人はいた。
そして、刑務所と呼ばれる建物の一室に・・・一輪の花があった。
仮説雑貨商1,000ヒット記念短編
Tiny Ripening
ある日のことだった。
老人の前にガラスの敷居があった。
そのガラス敷居の前に一人の男がいた。
年齢は20代後半程度、幾分くたびれ気味の背広を着た男だった。
それは老人が数年前から見知った・・・自分の弁護を担当している弁護士だった。
そして・・・いつもと同じように、お互い外部の出来事や内部の出来事を話し始めた。
弁護士はそうではなかったが、老人は弁護士以外の他人と話すことは殆ど無かった。
人嫌いというわけではない。また逆に嫌われているからでもない。
何故なら、
たった1人だけの独房、足音だけの看守、無言で配られる食事。
定期検診の時の僅かな医師の質問を除けば、老人が声を聞くのはこの時以外無かった。
そう、老人はその架せられた罪により幽閉という名の特別扱いとなっていたからである。
やがて、弁護士はある重要な事項について語り始めた。
それは、40年以上も前に起きた重大事件・・・老人にこの境遇をもたらした事件の目撃
者らしい人物が発見され、近日中に会いに行く予定となっているということであった。
もしもこれで有益な情報が得られ、更にその人物に証言台に立ってもらえれば老人をここ
から解放出来る・・・弁護士はその「朗報」を小声ながら熱っぽい口調で語り続けた。
そのいつもながらの熱心さに苦笑しつつ、老人はいつもながらの親しみを感じていた。
やがて、近日中にその人物と会ってくるという言葉と同時に看守が時間を告げた。
そして男は謁見室より立ち去り、老人はまた部屋へと戻っていった。
長く単調な廊下を老人は看守に連れられて戻った後、
いつものように薄く簡素なマットにその痩せた体躯を横たえた。
そしていつものように床の上に生えた小さな一輪の花を見ていた。
最初は老人も気付かなかった。
それどころか幾分茎を伸ばし始めた時に引き抜こうとしたが、結局はそのままにした。
さほど重要でなかったからかも知れない。
何かの暇つぶしにでもと考えたのかも知れない。
何処にでも行けたのにここに来てしまった花に、何処か親近感を感じたからかも知れない。
そして、ここで過ごした年月が老人にある種のゆとりを与えていたからかも知れない。
それ故・・・もはや生きてここを出られないであろうということも自然に受け入れていた。
今日も老人はその花を見ていた。
何となく・・・ただ何となく。
そして・・・
先日と同様、老人は謁見室にて弁護士と向き合っていた。
だが今日はいつものような雑談は無かった。
老人の眼の前にあるその沈んだ表情から証人と目される人物が既に痴呆症により会話すら
成立しなくなっていたという<現実>が発せられた。
短い沈黙が包んだ。
やがて、絶望と失望の入り交じった表情を続ける弁護士を労うように、老人は朴訥な口調
で今まで出来る限りのことをしてくれたことに素直に感謝の言葉を述べた。
やがて、看守が時間を告げ、老人はいつものように部屋に戻っていった。
更なる決意の言葉を話した弁護士の言葉を耳に残しながら・・・
時が過ぎた。
老人は部屋の隅に立っていた。
その足下には一本の枯れた雑草があった。
それは、その先端に綿毛の付いた種子を残して散ったあの花の成れの果てであった。
ほんの僅かの間、老人はその枯れ草を見ていた。
そして手を伸ばすとそれを床から引き抜き、口元に寄せるとそのまま窓を見上げた。
一瞬、まるで白が広がったようだった。
老人の強く吹き付けた息が全ての綿毛を飛ばした。
綿毛は窓から吸い出されるように青空へと消えていった。
その様子を満足した表情で見送ると、老人は改めて部屋を後にした。
既に覚悟し、先日確定した刑の執行を待つための部屋へと・・・
やがて・・・老人の死去の知らせがあの弁護士へと届いた。
それはある種当然のことだろうと弁護士は思った。
当然と言えば当然だろう。
何故なら・・・あの時から既に十数年が経過していたからだ。
あれは確かに驚くべきことだった。
最初は幼き頃の回想からゆっくりと始まった。
野山ではしゃいだときの記憶、友達とそれで遊んだ記憶・・・既に末期的痴呆症と思われ
ていた老婆が曾孫の差し出したそれにより、一縷の望みをかけて再訪した弁護士の目の前
でその記憶を回復したのだから。
感慨に耽る弁護士の脳裏にその時の光景が蘇っていた。
窓から飛び込んできたそれを拾い上げ、幼き笑顔で祖母に差し出した小さな女の子の顔、
そして、その指の先に軽く摘まれていた・・・綿毛のついた小さな種子・・・
後に老人の墓が設けられた。
生前の友人やあの弁護士も訪れた。
残った生涯を郊外の老人ホームで過ごし、幾人かの友人に見守られながら静かに閉じた、
その生涯に相応しい平凡な墓であった。
ただ、誰も気付かなかった。
その墓の傍らに咲いた・・・何の変哲もない、雑草と呼ぶに相応しい一輪の花に・・・