「あんたがこれを演ってくれればいいだけの話だ」
「何度も言わせるな。フュージョンなど私は演らん」
「だが、すでにパブは打ってある。あんたにその賠償が出来るのかね?」
「……貴様……」
 そして流れる沈黙。

 5分経過。
「……よかろう」
「そうか? いやあ、悪いな」
「ただし、1度きりだ。私の沽券にかかわる」
「それで十分さ。最初のパブさえ上手く打ってしまえば、どうにでもなる」


 かくして、『その曲』は生まれた。
 そして、メインのサックスを演った人間の意図とは裏腹に大ヒットとなる。
 それに耐えきれなかったのだろう。
 その男はそれっきりで音楽の世界から身を引く事になってしまう。
 だが、世の中の大多数の人間にとってはもはやそんな事などどうでも良かった。彼らの耳に聞こえる音が『それ』であればさえ。

 昭和63年、初夏。
 まだまだ、世の中は我が世の春を謳歌していた。
 理由がよくわからないのに、ただひたすら誰もが浮かれていた。

 そんな時代の話だ。






THE GAMBLI'N MAN
ACT・2:"TRUTH"




「やれやれ……メシだメシ」
 その言葉の主は、東京郊外の某3流私立大学1年生、青葉シゲル。
 彼が、授業の中身より雑談に力が入っている退屈な法学の授業を終えて背伸びをした時に出た言葉である。
「おう! いたいた! シゲル〜! メシ行こうぜ」
 彼の姿を見て、そう声をかけて来たのは、日向マコト。
 都内の付属上がりで、流行りの服を着こなした遊び人風情のある男だ。
 このコマの法学を受けている同じクラスの人間では、シゲルが一番親しい男である。
「マコト……お前、また遅刻して来たな」
「まあ、いいって事! どうせ出席取らないんだし!」
「後で泣いても知らねえぞ」
「ノートのコピー、頼りにしてますよ〜! 青葉センセイ!」
 厚かましい内容をさらりと言ってのける、お調子者の見本のような口調でのマコトのその言葉に、青葉は半ば自棄になったような声で応える。
「……駄目だこりゃ」
 ともあれ、こうして学食に向かった彼らは、席を確保するために知り合いの姿を必死に探す。法学の授業が定刻より10分早く終わるのが通例とはいえ、お昼どきとあってはなかなか席が確保出来るものではないからだ。
 ところがそのうち。
 マコトが引きつった表情とともに、何かを指さす。
「!?」
「何だよ、マコト……って、えええ!?」
 そう言ったっきり、シゲルもその場で表情をひきつらせ、固まってしまった。
 そこにあったのは、ある人物が、
「う〜ん……」
 と唸りながら、机の上に山ほど法律書を積み重ねて考え事をしているという珍妙な光景。
 その人物の悩み事といえば、せいぜい次のご飯に何を食べようかという事くらいだという事を嫌と言う程知っている彼らは、それだけで恐れおののき、固まってしまったのだ。
「ど、どうするよ」
「でもさ、あそこで結果的にあと2席確保している訳だし、他に空いてるとこも無さそうだし……」
「行くか?」
「そだね。ま、大丈夫でしょ!」
 かくして、その人物……ショートカットで童顔、どう見ても大学生には見えない、下手をすれば中学生でも通るかもしれない同級生の少女に近づいていく2人。
「お〜い、伊吹」
「ここ空いてるよね? マヤちゃん?」
「う〜ん……」
 聞いちゃいねえ。
 それを悟って、もう一度声をかける2人。
「おい!」
「マヤちゃん!」
「う〜ん……」
 やっぱり聞いちゃいねえ。
 そう。
 彼女……伊吹マヤの特徴には、何かに集中するとそれ以外の事が見えなくなり、他人の話を一切聞かないという困ったものがあるのだ。
 もっとも、それだけならまだいい。
 その結果として、とてつもなくズレた行動を行って、周囲をドリフ的世界に引きずり込んでしまうという事になるのが日常茶飯事なのだ。しかも、役どころで言えば彼女本人は被害ゼロの加トちゃんで、他の人間が最大の被害者であるいかりや。
 どう考えてもそのパターンにはまる状態なので、シゲルとマコトはその場を立ち去ろうとしたのだが。
「お〜い、伊吹。コロッケチーズカレー大盛り、買って来たぞ」
 それを知ってか知らずか、やはり彼らの共通の友人である衣笠エイジが、カレーの皿を手に出現する。
「わ〜い! 本当!? エイジ君!」
「な、シゲル、マコト。こいつの注意を引くにはこれしかねえンだよ」
 無意味に筋肉が付いた身体をのけぞらせ、エイジはそう威張り散らす。
 余計な事すんな。
 シゲルがそう言い返そうとした瞬間だった。
「あれ? いたの? シゲルくん、マコトくん」
「あのなあ……」
「あのさ! だったら聞きたいことあるんだ! エイジくんにもね!」
「あん?」
「あのね……」
「?」





















ゼンダライオンって、どういう種別の車なの?























「…………」
 もはや返す言葉も無いくらい呆れ返っているシゲル。
 それを見てマヤがかわいそうだと思ったのか、マコトが何とかこう絞り出す。
「多分……動物だから軽車両なんじゃないか?」
 それを受けて、エイジがこう返す。
「いや、ナンバープレートがあるだろ、『4416』って」
「そうよ! エイジくん! わたしが悩んでるのはまさにそのせいなのよ!」
 対してマコト曰く。
「でもさ、上の『多摩77さ』とかが無いし、飾りだろ?」
 それへのマヤの返答。
「自衛隊ナンバーなんじゃない?」
「違うよ。やっぱ飾り!」
 そこに再びエイジが割って入る。
「いや、ほら、確かクランク棒でエンジンかけてたし」
「じゃあ『多摩77さ』は?」
「アニメだから省略してンだろ」
 そんな事を大声で話していたら。
「軽車両じゃあ無いとすれば8ナンバーの筈だから、『多摩88さ』とかになってるんじゃない?」
「そもそもビックリドッキリメカも道路に出てると思うんだけど、あれは車両扱いされる訳?」
「いや、だんごとかあるし……」
「そうなると冷蔵庫でも付いてなければ4ナンバーとか1ナンバーの可能性も」
「待て! 確かクランク棒でかけてたのはヤッターワンの方……」
 いつの間にかこんな調子で学食中に飛び火。
 こうして数百人が同時に『ゼンダライオンは軽車両か大型特種車両か』という千日戦争を続けている中で、シゲルたち4人に歩み寄る者がいた。持ち前の、とにかく有無を言わさず他人に言う事を聞かせる事が出来そうな雰囲気をいつもにも増して激しく発散させながら。
「……あんたらね。この間抜け時空の元は」
「あ」
「チトセちゃん」
「なんでわかったんだ?」
「あのねえ。こんなバカな悩みを持ってる人間なんてこの子以外にいる?」
 淀みの無い動作で長い髪をかきあげながらそう言ったチトセに、シゲルは反射的にこう口答えしてしまう。
「いや、見ての通り数百人が……」
 直後。
 シゲルの胸元を強烈に捻り上げるチトセ。
 もちろんチトセの額には見事な青筋が浮かんでいる。
 学校全体を通して見ても間違い無くトップクラスに入るであろう端整な顔立ちが台無しであるが……残念ながら1度怒り出すと彼女には『歯止め』という概念が微塵も無くなるのである。
「シゲル君。あなたとは1度じっくり話をする必要がありそうね? ん〜?」
 その『いつもの』『ヤバイ』光景を見ながら、エイジは冷や汗を吹き出してこう呟いた。
「あ〜あ……これだから『姉貴』っていう生物の恐ろしさを知らない奴は……」
「あん!? 何か言った!? エイジ君!」
「いえいえいえ滅相もございませんチトセ様」
 視線を逸らし、変に無表情な早口でそうまくしたてたエイジに、チトセは呆れたと顔に書いてこう返答する。
「その『様』って言うのが胡散臭いのよねえ……」
「…………」
 まあ、実の所これも『いつもの』光景である。驚くべきことに。
 恐い者知らずのシゲルとエイジが唯一恐れる存在、それがこの千代田チトセという人物なのだ。


「それじゃあ、私達はあと1コマあるから」
「お先〜!」
 そう言い残してチトセとマヤが立ち去ったのを十分に確認してから、シゲルたち3人は深くため息をつき、ようやく箸を活発に動かし始める。
「……そりゃあさ、最初は良かったよな」
「まあ、入れ物は素晴らしいからね」
「中身があれだけ駄目だとは思いもしねえよ、普通……」
 おまえらが言うな。
 学食中の声無き声がそう言っているのに気づかず、しみじみとそう愚痴る3人。
 彼らにチトセとマヤを加えた5人は、入学して数ヶ月にして、ちょっとした校内の有名人になっていた。
 常にギターを肌身離さず、気が向くと所かまわずいきなり弾き始めるシゲル。
 毎日のようにどこかで喧嘩沙汰を引き起こすエイジ。
 毎日学校に来ているのに、いつ授業を受けているのかわからないマコト。
 さらに彼らをドリフ界に引き込むマヤ。
 それらのカオスを全て収拾するはめになるチトセ。
 もはや彼らとの係わり合い……もとい、彼らからの『被害』を受けた事が無い人間の方が校内で珍しいというありさまだった。
 まあそれには、もう一つの理由がある。
 チトセとマヤの真の姿を知らないまま、彼女らにちょっかいを出そうとする男子生徒をシゲルたちが結果的に撃退してしまうので、あっと言う間に彼らは有名になってしまったのである。
 チトセとマヤの方もそれを狙って意識的にシゲルたちと行動を共にしていたという事情があったから、毎日のようにそれには尾ひれが付いて行く。
 もっとも……『スケジュールに隙を作りたくない』という理由で週に何度も居酒屋に誘われるシゲルたちにして見ればたまったものではない。
 何せ彼女ら2人の通り名は『鯨飲馬食ペア』。
 割り勘にしても、一人頭の払いが5000円を下った事が1度も無いのだ。
「こんな調子じゃあ、いくらバイトやっても追いつかねェよ」
「いくら景気のいいご時世と言ったって、おれら学生にゃあ関係ねえしな」
 シゲルとエイジは、目の前にある30円の冷奴と60円のご飯を前に、深くため息をついた。
「だったら、もっと割のいいバイトやりゃいいじゃん」
「マコト」
「アテがあって言ってンだろな?」
「もちろん!」
 それを聞いて、彼らはマコトの次の言葉を待つべく、箸を止めた。
「いやあ、実はさあ。ボクらの進級祝いって事でセンパイたちがパーティ企画してくれたんだよ」
「はあ」
「なるほどねえ」
 マコトの言葉に自慢や嫌味の成分がまったく含まれていないのは簡単にわかったのでシゲルたちはそう返答したが、同時にこうも思った。
 やはり、同じ学校にいても住む世界の違う人間というのは存在するのだと。
 だがその程度の事で、この日向マコトという人懐っこく底抜けに陽気な人間の魅力がスポイルされる事は無かった。彼の手にかかると、どんな言葉も相手から怒る気力を喪失させ、あっさり納得すらしてしまうような力を持ってしまうのだ。
「でさ、そこでバックバンドが欲しいんだって。やらない?」
「ほう……」
「で、日当は?」
「2万」
 あまりの話の『おいしさ』に、思わずシゲルは前のめりになって言う。
「羽振りがいいな、おい」
「ま、あのセンパイたちは自分のカネ使ってないから」
「なるほどなあ」
 エイジが納得しつつも呆れ返って、背もたれに体重を預ける。
 その様子を見て、マコトは最後のひと押しの必要性を感じ、こう口を開く。
「それはそれとして、だ」
「?」
「オプションとして女の娘が付くよ?」
「はあ!?」
「いや、だからさ、テキト〜に演ってそのうち中に紛れ込んじゃえばわかんないって! バーンとォ! 連れだしちゃえ!」
「いいのかよ……仮にもお前の先輩の企画だろ?」
 シゲルがそう言ったのにも、きちんと理由がある。『先輩企画の新歓』とは、要するに先輩という人種が新入生の女の子を確保するために行われるものだからだ。
 だが、マコトは表情に無駄な爽やかさを限界まで増殖させてから、こう返答する。
「いいかい、シゲル」
「あん?」
「世の中ににはね、やっていい事と……」
「やっていい事と?」



















やって面白い事があるんだからさ!

























「……お前、大物になるよ」
 最大限の皮肉を込めたシゲルのその言葉を受けて、マコトは彼の手を握り、激しく上下に揺さぶりながらこう叫ぶ。
「サンキュー!」
「……そうだよな、お前、そういう奴だよな……」
 その光景に、付き合ってられんとでも言いたげな調子でエイジが言葉をぶつける。
「で、どんなのを演ればいいんだ?」
「ああ、一応リクエストはあるよ。ほら」
 それを覗き込んで、エイジは露骨に不機嫌な顔になって言う。
「カシ=オへアにG−SQUARE!?……勘弁してくれよ……」
「ありゃ? お前、ジャズやるんだったらフュージョンだって出来るだろ?」
「あのなあ……まともに4ビート演ってる人間であんなのが好きな奴なんざいねえっつうの! マイルスだってあれでおかしくなり始めたんだからよ!」
「マイルス……マイルス・デイビスか。あのいかれたオッサンだな」
「シゲル。その認識は間違ってるぞ! 断固として間違ってるぞ! マイルスはそもそも……」
 エイジがこうしてジャズの事を語り始めると最低30分はかかる事をそれまでの経験から悟っていたマコトは、素早く話を遮りにかかる。
「はいはい、それはもういいから……ともあれ、やるの? やらないの?」
 もしマコトの頼みでは無かったら、エイジは即座に断っていたであろう。
 しかし、今回エイジは即答を避けた。
 後に言われる事だが……青葉シゲルという人間のギターに本当の意味で初めて注目したのは彼だった。だからこそエイジはシゲルのギターが孤立してひどい音を出すのは我慢ならなかったのだ。
 自分がいれば、多少はシゲルの手助けをしてやれるかもしれない。そして、彼のセンスなら、自分の望む方向に演奏の組み立てを向けてくれるかもしれないという思いもあって、彼はシゲルの言葉をじっと待った。
 そして。
「演るよ」
「そうか! さすがシゲルだ!」
「ただ、曲の組み立てを一任してもらえれば、だけどな。もちろんリクエストは最大限考慮する」
「OKOK! お前なら大丈夫だよ!」
 その言葉を聞いて、エイジも口を開く。
「おれも演るぜ」
「おう! ナイス、エイジ!」


「さて、どうする?」
 愛用のテナーのケースを抱えて、エイジがそう切り出す。
 それを受けて、シゲルは中学の時からのダチである質流れで5000円のレスポールをでたらめに掻き鳴らしながら呟く。
「うーん……あんまりハードなのは演れねえだろうなあ……」
「そういう意味もあるしよ、エレアコ使って何曲かジャズ入れたいんだが」
「ああ、それは問題ねえよ」
「で、だ。そこで押さえた分、これに賭けねえか?」
 その曲名を見て、シゲルは首をひねり、こう言う。
「おい、フュージョンの代表格じゃねえのか? これ」
「でもよ、この曲はまあいいと思うぜ。どことなくメインのサックスに4ビートの香りが残ってる」
「お前らしい言い方だよな」
「でよ。おれはこの曲、テーマのまとめに回るから、お前、好き勝手に演っちまえ」
「いいのか? サックスメインだろ、これ」
「お姉ちゃんにおれらがモテるのには、それが一番だと思ってよ」
「そういうモンか?」
「謙遜すんなよ。おれよっかお前の音の方がワンランク上なんだからよ」
 などと云っていた所に。
「こら! いい加減仕事せえ! このすっとこどっこいどもが!」
 という怒鳴り声とともに頭頂部への鉄拳制裁。
「あ痛っ!」
「特に衣笠! 職場放棄すんな!」
 という理由で、エイジにはさらにもう一度鉄拳制裁。
「あたた……分かりましたよ、若旦那」
「いいから行け!」
「へ〜い」
 その言葉とともに、エイジは地下に足を向ける。
 ここはシゲルとエイジのレギュラーのアルバイト先、御茶ノ水の『深山楽器』。
 実は、シゲルを心底驚かせたあの店頭デモ演を演っていた店である。
 シゲルは、自分の腕を磨く意味も兼ねてここでのバイトを入れたのである。
 もっとも、まだ新入りのペーペーである彼がデモ演を演るなどまだまだ先の話ではあるが。
 そして。
 エイジがここにバイトを入れた理由は、シゲルとはまた別にある。
「オヤジさ〜ん、衣笠、フロア入りま〜す」
 そう叫んでも、反応無し。
 オヤジさん、と呼ばれた老人が確かにそこにいるにも関わらず。
 もっとも、これはいつもの事だった。
 その老人は、ただただ無言で、トランペットのキーを交換している。
 その前日はアルトのオーバーホール。
 さらにその前日はトロンボーンのスライド調整。
 つまり、『オヤジさん』=創業者社長は金管・木管の修理技師。しかも、いまどき珍しい本物の職人気質。腕はいいが無愛想で接客という意識がゼロ。
 もっとも、エイジはそれに苦情を言う気など全く無かった。
 実は彼は中学・高校の時からサックスの修理をこの店に頼んでいたので、このオヤジさんは彼にとって間違い無く恩人だったのである。そしてこの態度は、エイジが送り返されてきたオーバーホール済のサックスから想像していたオヤジさんの人となりとぴったり重なっていたのだ。
 ずらりと並べられた商品が作り出している『繁盛している小売店』の活気と、オヤジさんの醸し出す一徹な空気の絶妙のブレンド。それが、シゲルのいるギターコーナーの熱気と活気の横溢する雰囲気とはまた違う空気を作り出している。
 もしも楽器なんか何も演らない人間がここにいても、しばらく退屈する事は無いはずだ。エイジはそう信じて疑わなかった。そして、その空気をぶち壊したくないという理由で身に付けた接客モードへスイッチを切り替える。
 現在の時刻が、だいたい3時過ぎ。
 そろそろ、授業を終えた学生たちがわんさと押しかけて来る時間帯である。


「すいません、初心者用のマウスピースはどういう……」
「はい、カップが大きめだから、これなんかいいんじゃない?」
「こういうデザインのストラップ、ありませんか?」
「カラー全部揃ってるよ。何色がいいかな?」
「ピカールどこですか〜?」
「はいお待たせ! 領収書をちゃんと顧問の先生に届けろよ〜!」
 といった調子で、中学生・高校生相手用のタメ口接客モードを駆使しつつフロアを動き回るエイジ。
 彼に限らずこのフロアの人間はオヤジさんが接客面で頼れないのを知っているので、客の迷っている姿を見つけると積極的に声をかけるのを基本フォーマットとして動いている。もちろん、客筋がギターコーナーと比べると比較的大人しいという事情もそこにはあるのだが。


 ……ごくごくまれな例外を除いては。


「タミさ〜ん!」
 という、年齢の割にはひどく落ち着きに欠け、お笑いの成分を妙に濃く噴出している声が階段付近から上がったのを聞いて、フロアの店員はエイジにこう声をかける。
「エイジ、行け」
 そして、エイジは顔に青汁を塗りたくった挙句その数倍の量を口に含んでいるような顔で答える。
「またおれっすか?」
「ご指名だろ! 行け!」
 かくして、エイジは自分を『タミさん』と呼んだ人物の所へ足を進める。
 毛先に軽くウエーブをかけた、彼と同年輩のセミロングの女性の所に。
「はいはい、今日は何ですか?」
「こらタミさん! お客様には公平に接しなさいよ! わざわざ4駅も先から来てるのに失礼じゃな〜い?」
「はいはい」
「『はい』は一回!」
「はいはい」
「あ、そう来る? じゃあタミさんを今日から『野菊』って呼ぶわよン?」
 顔に『おちょくってます』と書きながらセミロングの女性はそう言った。
 そしてそれを受けたエイジは、深く頭を下げて無表情な声で言う。
 それだけは勘弁してつかあさい、という思いを込めて。
「……申し訳ございませんでした」
 ちなみに彼女が言う『タミさん』とは、野菊の墓のヒロインの事では無く、『サラ・コナー』を求めてマッチョなサイボーグが殺戮を繰り返す当時大ブレイクしていた映画の事を指す。
「今日はさ、珍しく冷やかしじゃないのよ! ほらほら、喜べ!」
「はあ。そう、で、ございます、か」
「あ、信用してないわねン? その態度は」
 その抗議に対してあからさまに視線を逸らし、変に無表情な早口でエイジはまくしたてる。
「いえいえいえ滅相もございません葛城様」
「……ま、いいわ。もうすぐワタシの友達が来るんだけどぉ、その娘にジャズ用のリードを見繕ってくれないかしら?」
「クラリネット?」
「うンにゃ、彼女はテナー。だからタミさんにお願いするんだってばさ」
「なるほど、ね」
 そう言ったのを合図に、エイジは彼女から離れ、リードのコーナーを丁寧に探索する。
『これ以上この女と会話していると頭痛が痛くなる』
 と思ったためだ。
 ちょうどその時、階段からのひとりの女性が降りて来る。
 ほどけば腰まで悠々とどきそうなロングヘアを後ろで三つ編みにして一つにまとめ、いかにも度がきつそうな黒ぶちの眼鏡をかけて……周囲を何か落ち着きの無い風情で見回しながら。
 その姿を見て、エイジに葛城様と呼ばれた女性は必要以上の大声で叫ぶ。
「あっ! こっちよ〜! リツコ!」
 直後。
 リツコと呼ばれた女性にフロアの視線が集中し、その状況を受けて彼女は顔面を磨き込まれたリンゴの色に染めて友人の元に早足で進む。
 その行為の意味をまったく理解出来ないまま、葛城様と呼ばれた女性は首をひねってこう呟く。
「どしたの? リツコ」
 対して、リツコは蚊の泣くような小声でなんとかこう返答する。
「……はっ……恥ずかしいわよ……ミサト……」
「何が? こちとら客なんだから、もっと威張っていいのよン?」
「……そっ……そういう……意味じゃ無い……」
 鮮やかなまでに展開されるその言葉のデッドボールを見て、フロアの人間は新手のストリートパフォーマンスかとも思っていたが、もちろん本人たちにその自覚は無い。
 それを見て、エイジはリツコという女性がかわいそうだと思って、絞り込みを中断してかなり多めの種類のリードを持って歩み寄る。
「お待たせ致しました」
 その瞬間、リツコは瞬時に耳と尻尾を極限まで下げた仔犬の顔になって、
「!」
 という声にならない短い悲鳴を上げてミサトの背中に隠れる。
 エイジはそれを見て、
『なんですか? この新種の生物?』
 といいたげな微妙なツラを一瞬作ったものの、すぐに気を取り直して接客用の顔を作り、こう切り出す。
「すいませんね……とりあえずジャズ用のリードって事で、何種類か持って来ましたんで。まずこれが……」
 と言った調子で、4種類ばかりのリードの箱を手に説明を続けるエイジ。
 それが終わった瞬間、リツコは怯え切った声でこう呟く。
「あ、あの……ゴメンなさい……全部……もらいますから……許してください……」
 それを見て、ミサトはこう口を開く。
「ほらほらリツコ! タミさんはちゃんとカタギの人間だから大丈夫よぉ! 取って食われたりとかしないってば!」
「ほ……本当?」
 その会話を聞いて、
『お前らおれを一体何だと思っているんだ?』
 と思ったエイジだったが、仕事中と必死に自分に言い聞かせながら、引きつった声でこう絞り出す。
「まあ、一応学生ですから」
「え〜!? 嘘! てっきり正社員だと思ってたわン! あのオヤヂさんにタイマンで負けたのがきっかけで足を洗って、家では元ヤンの奥さんと6歳を頭に3人の子供が……」
「んな訳あるか! おれはまだ19だ!」


 5秒経過。


「タミさん、嘘っていうのはもっと上手くつく物よン?」
「巨大なお世話だ!」
 とか何とか漫才を繰り広げているミサトとエイジ。
 だがリツコはそれを漫才と感じず、本気で怯えている。そしてリツコはミサトの背後から飛び退き財布を手にして、恐怖に声を震わせながらこう叫ぶ。
「あ、あの! すいません! お金なら全部置いていきますから、その、許してください!」
 そしてエイジに財布を押し付けると、そのまま全力疾走で店を飛び出して行ってしまう。
 エイジは、
「あ、あの!? もしもし!? お客様!?」
 と冷や汗交じりで叫んで見たものの、もはやリツコはその言葉に耳を貸さなかった。
 その状況を受けて、ミサトは無表情な声で呟く。
「あ〜あ、泣〜かした」
「半分くらいはアンタのせいだけどな」
 その至極まっとうなエイジの皮肉を受けて、ミサトは苦笑しつつ事情を説明し始める。
「タミさんが脅かすからいけないのよぉ……あの娘女子校育ちの純粋培養だから、オトコに免疫が無いンだわぁ」
「はあ、そうザンスか……」
「そこに持って来て野獣みたいなタミさんが来たもんだから」
「ちょっと待て。野獣って何だ野獣って」
「あらン? ちったあ自覚してるかと思ったンだけどね〜?」
「…………」


 その頃シゲルは、
「おうよ! この弦は最高だぜ! 何と言ったってタフだ! 5センチ下に引っ張っても歯で1時間弾き続けても切れやしねえよ!」
「そう! じゃあロンゲの兄ちゃん、これ頂戴!」
「まいど!」
 と言った調子で、接客になっているのかいないのかわからない仕事ぶりを見せていた。もちろんそれがフロアの『味』になると認められているからこそ、そういう状態になるのだが。
 ともあれ、シゲルは弦を手にカウンターに向かおうとする。
 その時、ちょうど下から泣きべそをかきながらリツコが全力疾走して来た。
 さらに、それにシゲルが全然気付かなかったのでものの見事に正面衝突。
「どわっ!」
「きゃあっ!」
 リツコはその叫びとともにバランスを崩し、階段を転げ落ちそうになったのだが。
 咄嗟にシゲルが右手を伸ばし、それを受け止める。
 さらに……。
「ともあれ、財布だけは返しておいてくれよ」
「はいはい、わかったわよタミさん」
 などとミサトと言い合いながら階段を上がって来たエイジの足元に、シゲルが持っていた弦が滑り込む。
 結果。
「どばりゃああああ!!!」
 そのまま階段を豪快に転げ落ちるエイジ。
 まるでマヤが呪いでもかけていたかのように、見事なドリフぶりを見せたエイジはそのまま微動だにしなくなった。
 その光景を見ても、どうせエイジがその程度の事で怪我などする筈が無いとわかっているシゲルは、淡々とこう呟く。
「どうせなら縦回転の方がオイしかったのに……ツメが甘いな」
「あ、あの……」
 その、初対面の人間に接する仔犬のような声を聞いて、シゲルはドリフ界から帰還し、状況を改めて確認した。
 階段の下で爆笑しているセミロングの女。
 大往生のエイジ。
 そして自分が抱きかかえている眼鏡の女。
「あっ、と……悪ィ悪ィ。大丈夫だったか?」
 そう言いながらリツコを足元が安定している所に移動させ、手を離すとさらに言葉を続ける。
「気をつけるんだぞ。何せこの店、やたらと物がある癖に狭いからよ」
「は、はい……ありがとうございます」
 赤面しながらもリツコはなんとかそう呟き、シゲルに一つ頭を下げると、少々小走りになってその場を立ち去った。


 翌日、四ツ谷駅近くの某私大。
「リツコぉ〜」
「ミサト? な、何かしら?」
 後ろからいきなり脅かされた仔犬、といった調子の声でリツコは友人の呼びかけに応じる。
 それを受けて、ミサトは深いため息とともに頭をかいてこう切り出す。
「あんたさ、このままの調子で4年間過ごしていいと思ってるワケ?」
「でもウチはカリキュラム厳しいし、一生懸命やらないと……」
「それはいか〜ん! 何が悲しゅうてこの貴重な4年間を灰色にしなくちゃなんないのよっ!」
「……勉強して……いろんな物を身に付ければ決して灰色じゃないと……」
「ちょっぷ」
「あ痛っ!」
「そうじゃないでしょう! オトコよオトコ!」
 烈迫の気合いとともに、ミサトはそう叫んで机の上に両手を叩き付け、それに気圧されてたじろぐリツコにさらに追い討ちをかける。
「いい!? 人生のうちで顔や身長なんてモノでオトコを選んでもやり直しが効く期間なんてあっという間なのよ? 生活だのカネでオトコを選んだら、選り好みなんて効かないんだから! ましてやその両方を持ってる奴なんて、瞬時に手が付いちゃうんだから! だったら今やらずにいつやるのよっ!」
「…………」
 リツコが絶句しているのを見て、ミサトは表情を和らげ、彼女独特の妙に調子が良く無責任な声でリツコにこう告げる。
「という訳で、あんたの分も申し込みしといたからネ」
「は、はい!?」
「だからさ、今週の金曜にパーティあんのよ。社長のバカ息子、もとい御曹子ばっかりが集まるっていう」
「……一体どこからそういう……」
「東洋の神秘」
「…………」
「ま、とりあえずそういう訳だから、一度買い物付き合ったげるワ」
「???」
「まさかそんな格好でそういう席に行く訳にも行かないでしょ?」
 そう言いながら、ミサトはリツコを指さす。
 ちなみにリツコのこの日の服装は、何の飾り気も無いタンガリーシャツにジーンズ。
 その前日は、また別のタンガリーシャツにジーンズ。
 さらにその前日はネルシャツにジーンズ。
 もちろん化粧などという概念が因果地平の彼方に吹き飛んでいるのは言うまでもあるまい。
 つまり、ミサトで無くても多少は心配になるくらいリツコは普通の女の子が夢中になるような事に関心を示さないのだ。
 ミサトの推測する所では、リツコという人間は世の中にオトコという生物が存在すると頭ではわかっていても、現実に存在するそれをまだ認められないのでは無いか、という感がある。ならば、リツコが現実にオトコに興味を持つ機会を作ればいいのだ。
 まあ、もちろんそれ以上に彼女自身が気合いを入れているのであるが……。


 そんなこんなでパーティの当日。
 ダブルのソフトスーツを着込んだマコトは、駅前でシゲルとエイジの姿を見付けると、大声でこう叫ぶ。
「お〜い! こっちこっち!」
 その声を受けて、手にそれぞれの楽器のケースを持ったシゲルとエイジは、
「おお」
「これでいいんだよな?」
 と言いながら歩み寄る。
 マコトはそれに、いつもの調子で答えた。
「ばっちり! 問題なし、問題なし!」
 マコトは、当日になる前に彼らにこう指示を与えたのだ。
 こいつらならやりかねない、と考えて。
「当日は、ジーンズとかじゃなくて、きちんとスーツ来てこいよ」
 で、彼らの着ていたスーツはと言うと。
 まずエイジは真っ黒なシングルの、所謂『モヘア・スーツ』に黒のネクタイ。
50年代のジャズマンの正装と言っていい服であり、また、映画『ブルース・ブラザーズ』でジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが着ていたものでもある。
 そしてシゲルは、3つボタンで身体のラインにぴったりと合わせ、長めの丈の両サイドにプリーツが入った上着が特徴の『モッズ・スーツ』。これは60年代中期のイギリスのロック・バンドの正装と言っていいものだ。
 それを見て、思わずマコトはこう呟く。
「にしてもさ、お前らこういうスーツにしようとかいうの、ちったあ考えなかった?」
 2人は、それにまったく同時にこう返答する。
「スーツって言ったら、これ以外に何があるって言うんだよ」
「ははは……」
 マコトはこの頑固者たちに、苦笑してそう答える他無かった。
 マコトの言葉も、実のところ彼一流の思いやりから出た言葉である。
 シゲルとエイジの着ている何れも、この当時の流行とは相容れないスーツであったからだ。
 しかし彼らにとって、スーツという『責任』と『顔』を象徴する服は、自分なりの拘りに基づいて選ばれるべきものだったので、そのような『軽い』気持ちは湧いて来なかった。
 そのため、客観的に見ればスーツをある意味社交のための『ツール』としてチョイスしたマコトよりも彼らの方がよほどそれぞれのスーツを着こなしているという、普段とは逆の現象が起きていた。
 かくして会場になるホテルに向かう3人。
「ま、それはそれとして」
「どういう進行になるんだ? マコト」
「うん、とりあえず乾杯が終わったらそのまま演奏入ってくれるかな。30分くらい経った所で一回演奏休みの形にするから、そのまま紛れ込んじゃえ」
 軽い調子でそう言い放つマコト。
 しかし、シゲルもエイジも、あまりその予定が上手く行くとは思っていなかった。何せ場の雰囲気がいつもの『阿鼻叫喚』の飲み会とは違いすぎる。何より、彼ら自身がこういう場に出て来るような女と感覚が合わせられそうも無いと考えていたのだ。
 今日に限っては、素直にバイトをこなして帰るつもりでいよう。
 シゲルとエイジの考えは、それで一致していたのだ。


 かくして会場に入り、何度か音合わせをしたこの日のバンドメンバーと最終打ち合わせに入るシゲルとエイジ。
「ほんじゃあまあ、最初話した通り」
「ジャズは原曲に沿って、あまり無理にブローさせない」
「ポップスは元にあまりこだわらず、あくまで静かに」
「フュージョンのソロはギターのこいつ」
 その確認事項を改めてチェックした後、トランペットを持った不精ヒゲの男がチェシャ猫を連想させる掴み所の無い笑みとともにこう言う。
「OK! ほんじゃま、ぼちぼち行きますか」
 それとほぼ同時に乾杯が終了し、バンドメンバーは会場に入って行こうとする。
 その時、である。
 シゲルの背筋に、強烈な悪寒が走った。
 そしてそれに突き動かされるようにして彼が振り向いた時、そこにいたのは。
「あああああ! チトセちゃ〜ん! 早く早く〜! もう始まってるよ〜!」
「あなたがまた乗る電車を間違えた上お財布を忘れたせいでしょ!?」
「ううう……そんなあしざまに言わないでよ〜」
 その光景を確認した直後、シゲルは顔中に嫌な汗を噴出させながら、エイジの背中をこづく。
「あん? どしたよ」
「……ヤバイ」
「?」
「伊吹と千代田が来てる」
 その瞬間、エイジは瞬時に青汁をジョッキで飲み干した顔を作った。
 この状況は、つまりこのパーティがコーラを飲んだ時ゲップが出るくらいの確率でいつもの『阿鼻叫喚』に陥ってしまうという事を意味している。
 チトセはともかく、マヤの存在があるだけでどんな状況でも必要以上に混乱するという厳然たる事実を、彼らは嫌と言う程知り抜いていたのだ。
「とりあえず、変装でもしとこうぜ」
「?」
「あいつらに気付かれなければ、ひょっとしたらおれらが巻き込まれずに済むかもしれねえだろ」
「……かもな」
 あまりにも幼稚でいいかげんな発想ではあったが、彼らはもはやその程度の事に一縷の望みを託す以外に打つ手が無かった。


「あら、演奏始まったわね」
「『クール・ストラッティン』か……」
 化粧も身体のラインに合わせた派手な原色のスーツも、まさに気合満点のミサトと、無理矢理ミサトに買わされた同じような服を着てまだ半ば困惑しているリツコはそう言い合った。
「でもあれよね。テナーのグラサンの奴、なんかストレス溜まってるような吹き方してるわよね」
 それを受けて、同じテナー吹きとしての予測を、リツコは口にする。
「コルトレーンでも好きなんじゃ……?」
「にゃるほどね」
 ミサトがそう納得した直後、ピアノソロをギターソロに振り替えたシゲルのソロパートが始まる。
「あ……」
「上手いわねえ、あのグラサン侍。今日の連中ではぶっちぎりじゃない?」
 ミサトがそう言いながら傍らのリツコに尋ねると、リツコの視線は既に『グラサン侍』……長髪を後ろで一つにまとめ、グラサンをかけて変装したシゲルに完全にロックオンされていた。
「リツコ? リツコってば!」
「あの人……この間の楽器屋で、助けてくれた……」
「ちょっとリツコ!」
「あの人が……」
「ちよっとリツコってば! 落ち付きなさいよ! 今日のターゲットはあくまでこっち側のお金持ちの参加者なのよ! あっちの貧乏ミュージシャンなんかポイポイのポイなのよ! わかってンの?」
「……素敵……」
 聞いちゃいねえ。
 オトコにまったく免疫の無かったリツコは、既に『生涯最大のピンチを救ってくれた』『初めて優しくしてもらったオトコ』であるシゲルに視線をロックオンして、半ばあっちの世界に足を突っ込んでいたのである。


 そんな事とはつゆ知らず、2曲目……カシ=オヘアの『太陽風』のアレンジを演りながら、シゲルはマヤとチトセが何かしでかさないかという不安感にその身体を苛まれ、演奏そっちのけで彼女らの姿を探していた。
 そして。
 ほどなくして、マヤとチトセが料理のテーブルに近づいているのを発見する。
 ついでに、そこに自分より余裕で1ランク顔の作りがいいオトコが近寄って行くのも。


「ねえ君……」
 と、無駄に爽やかな笑顔とともにマヤに声をかけるオトコ。
 が。
「ごはんごはんごはん〜! ホテルの料理〜!」
 と、わけのわからない歌を歌いながら、マヤは料理をこれでもかと山盛りに皿に積み上げ、親のカタキのように食べまくっている。
 もちろんオトコの声など聞いちゃいない。
「…………」
「あら、ちょうどいいところに来たわね」
「あ、はい! なんでしょうか!」
 マヤと系統は違うものの、明らかに美形の範疇に入るチトセに声をかけられて、オトコは多少浮かれた調子でそう言った。
 のだが、そこに存在した期待感は次の瞬間無残に粉砕される。
「ワインが1000円ワインだけって言うのは、どういう了見? ドン・ペリも乾杯の一杯きりだったし……せめてシャブリくらいは無いのかしら? それにウイスキーも手抜きよね。いまどき山鳥なんて国産……」
 かくしてチトセは酒の不備に対してたらたらと不満をぶちまけ続ける。
 オトコは、ただただ冷や汗交じりに平身低頭する以外に術が無かった。


「駄目だ、アイツら……」
 シゲルは哀れなオトコへの同情2割、ダチどもに対する呆れ8割の成分でそう呟くと、とりあえずその光景を見なかった事にして演奏に専念しようと考えた。
 その後、1度エレアコに持ち替えてジャズを2曲、さらに元のレスポールに戻してポップスを2曲。
 そこで彼は一つ深呼吸をして指を改めてほぐし、本気モードにテンションを切り換えて行く。
 それを確認して、ドラムが今までに無い激しいリズムを刻み出す。
 さらにそれに負けない音量とスピードで、軽くエフェクトをかけながらメロディを紡ぎ出すシゲル。
 F1中継のテーマ曲として、ちょうどブレイクし始めたその曲の始まりを聞いて、会場の注目は彼らバンドメンバーに集まる。
 その曲名は、G−SQUAREの"TRUTH"。
 テナーをアルトに持ち替えたエイジが主旋律を取り、トランペットの不精ヒゲ男がサポートに回るセクションまでを原曲そのままになぞった後、いよいよシゲルは本当の本気になってロング・ソロを奏でる。
 さらに、本来それを受けてソロを繰り広げるはずのエイジが、4小節を吹いただけでシゲルにソロを返す。それを受けてシゲルはインスピレーションを掻き立て、やはり4小節でソロを返す。
 その繰り返しを数度行った後で、さらにシゲルのソロがもう一度。
 その時点に至ると、会場は完全に彼のギターが支配していた。


「……?」
「どうかしましたか? あなた」
 その現場から数階上のスイート・ルーム。
 G−SQUAREのサックス、碇ゲンドウは妻の質問にこう答える。
「『あの曲』を、私が演りたかったように演ってる。下の宴会場か」
「はあ……」
「演ってる奴ら……若いな。荒くて、激しくて、気負ってる」
「昔のあなたみたいに、かしらね」
「かもしれんな」
 ゲンドウは苦笑しつつ、つい先ほど彼の双子の弟から手渡された印税の小切手を指に挟むと、それを振りながらこう呟く。
「だが、今のままの業界ではそういう奴らは潰されるよ」
「そのために……あえてヒデちゃんの言う通りにしたのよね」
「ああ。残念ながら、世の中信念だけでは理想に近づけん」
「だから、そういう子たちの『家』として」
"FLYING HOME"。あそこを、私たちの家にするんだ」
「そうね。あそこが、私たちの始まりだったもの」
 ゲンドウの妻……ユイはそう呟くと、月の光を背負って静かに微笑んだ。


 ここに至り、事態はシゲルにとって意外と言える方向に進行していた。
「すご〜い!」
「ネェ! あなたプロでしょ? どこのライブハウスにいるの?」
「私にも教えて〜!」
 とまあ、一発目のステージを終わらせた彼を、こんな調子で何人かの女の子が取り囲んだのだ。
 当時は現在よりもバンドをやってる人間が多い時代だった。それは、音楽を演ると言う事がそのまま『ひと山当てる』という状況に直結すると思い込んでしまう人間の多さに繋がる。
 事実、この当時デビューした所謂『バンド』の数は極めて多く、しかもその『瞬発的』成功率も高かったと言っていい。メッキが剥がれるまでの時間……音楽の世界で『儲ける』のではなく『食って行ける』本当の意味での実力はともかくとして。
 徹底してフュージョンを嫌うエイジなどはその思いがとりわけ強かったので、その状況を冷静に観察していた。
『こいつら、今の景気と同じだ……水増しで意味もなくふやけて浮かれちまってら』
 そして、シゲルはその時思い出していた。
 高校の時の、反吐が出るような思いを。


 高校3年になって彼の成績が『当然の帰結』として上昇したのと同時に、彼が今まで『友人』だと思っていた人間のほとんど全てが彼を避けるようになった。
 それはどういう感情に起因するものか、彼は理解していたと信じている。
 『僻み』『妬み』『嫉み』。
 今、ここにいるからこそ……自分が田舎では勉強の出来る人間だったとしても、ここでは凡人に過ぎないと自覚したからこそ、その思いはますます強固なものになっていた。
 そして。
 それと平行して……彼はもう一つの人間の感情の動きを垣間見た。
 彼がそうして孤立してから数週間。
 ひとりの女の子が、彼に
「ねえ、この問題、どうやって解くの?」
 と尋ねて来た。
 彼女の事を彼はそれまでまったく覚えていなかったし、別に親しいという訳でも無かったが……とりあえずその時は無難に解き方を教えてあげた。
 それ以来、彼女と、彼女のいるグループの女の子が彼によく話しかけるようになって行った。
 その中でも、最初に彼に声をかけて来た女の子は特に積極的だった。
 バスケ部のキャプテンで、細身ですらりとした身体にショートヘアがよく似合い、そして何より身体も表情もくるくるとよく動く女の子だった。
 彼女と次第に話をするようになって、彼は少しだけ救われたような気分になって行った。
 そこにいて、少しばかり勉強を教えて……くだらない話をして。
 それだけで十分だったのだ。彼の心は既にこの時点で東京にあったのだから。
 ところが……ある日の放課後。
 彼は『友人』でも何でも無くなった同級生のひとりから、すれ違いざまにこんな台詞を吐かれる。
「お前、自分が何やってんのかわかってるのか?」
 ……シゲルはそれを聞いて、慌てて状況を把握しようと試みた。
 その結果、わかった事実があった。
 彼女がサッカー部のキャプテンともう2年も付き合っているという事。
 自分がそれを奪い取ろうとしているというのがもっぱらの噂になっているという事。
 そして、サッカー部のキャプテンには実業団に行くような実力は無く、成績も優秀とは言えないという事。
 その状況から総合して、シゲルはある推測を立てた。
 そして……ある日。
「ねえ、青葉くんはどこの大学行くの?」
「ああ……東京のどこかに。東京にありさえすればどこでもいい」
「そっか。青葉くんだったら、どこでも行けるわよね」
 その後、彼女は言った。
 顔に媚びの成分を入れて。
「いいなあ……」
 その瞬間、シゲルは自分の推測が正解であったと断定した。
 こいつは、男の価値を『 看板』で値踏みして『自分との釣り合い』を考える馬鹿だと。


 翌日。
「ね、青葉君、この問題……」
「てめえで解け」
 絶対零度の響きを持ったその一言は、故郷から友人と呼べる人間を一人残らず消し去る意味を持っていた。
 それを最後に、シゲルは東京に来るまで1度も笑わなかった。


「悪い、どいてくんねえか? 2ステージ目までの間にまだ打ち合わせがある」
「え〜!?」
 その会話を聞いて、エイジはシゲルが『水増し女』を見破ったのだと判断した。実際にシゲルの内にあった鬱屈した感情を、東京でのシゲルしか知らない彼は知る由も無い。
 ともあれ、エイジはそこに向けて淡々とこう言い放つ。
「そ。悪いけどよ、少しメシ食ってすぐ打ち合わせなんだよ。さ、行くぜ、シゲル」
「おう」
 それを合図にバンドメンバーの一同はその場を立ち去る。


「あ……」
「ほらリツコ! だから言ったじゃないの〜! こういうとこじゃ、ビビッてないで先に前出た奴が勝ちなんだから!」
「でも……」
「でももへったくれも無いのっ! とにかく、次のステージ終わったらワタシがついてってあげるから、ちゃんと前出るのよ!」
「う、うん……」


「ふう……参るよな」
「ま、仕事だ仕事。我慢我慢!」
 内心の微妙な食い違いにお互い気付かないままそう言い合うシゲルとエイジ。
 彼らの食事は、コンビ二のおにぎりである。
 場が荒れるから、という主催者のお達しでそうなってしまったのである。
 マコトがそれに何とか抵抗を試みたのだが、先の"TRUTH"の演奏とそれを受けての状況から、それが覆る可能性が無くなってしまったのだった。
「にしても、ケツの穴が小さいやっちゃ」
 エイジのその言葉に、トランペットのチェシャ猫男がこう答える。
「ま、あれだけやる気まんまんならケツの穴も小さくなるよ」
 それから5秒ほど、何とも形容しようの無い沈黙が流れる。
 それを言葉にしたのは、シゲルだった。
「なんだかなあ……差を感じるよな、やっぱり。あっちの人間とオレらじゃ、同じ大学生っていう生物だと思えねえ」
 それにエイジは彼なりの思いやりと、信念をこういう表現で口にする事で応じる。
「気にするなよ。学生ってのは清く貧しいもんだろ? 最後に逆転すりゃおれらの勝ちじゃねえか。まだまだ人生、先は長いぜ」
「……お前に言われても嬉しくねえがな」
「ありがとよ」


 一方のマコトは、彼にしては珍しく相当に腹を立てていた。
 大学に上がって友人になったシゲルを初めとする強烈な個性と自我の持ち主たちに比べると余りにも貧相な『先輩』たちの人間性に。
 こんな事になるのであれば、マヤやチトセをタダ飯やタダ酒で釣って無理に来させない方が良かったと彼は考えた。彼女らなら、こんなふやけたオトコどもにはひたすら腹が立つだけだろうと。
 彼はその時、一つの決断をしつつあった。
 それを実行に移すためのもうひと押しを加えてもらうため、彼はわざとトラブルの起きていそうな所を探した。
 ほどなくして、それは見つかる。
 泣きボクロと長い髪を編み込んだ『しっぽ』が特徴的な女の子が、先輩のひとりに捕まって、泣きそうな顔をしながら逃げ腰で話をしている現場が。
「よし」
 彼はそう呟くと、足を現場に進めて行く。
 ところが、それより先にそこに到着した者がいた。
「よしなさいよ。嫌がっているでしょ?」
 そう。
 マコト同様、露骨に腹を立てているチトセだ。
 その状況の危険さを悟っていない『先輩』は、瞬時にこんな事を考える。
『気は強そうだけど、こっちの娘の方がランクが上か』
 そして、完璧な営業スマイルとともにチトセにこう言う。
「ああ、いや、君の気を引きたくてね」
 それを聞いて、チトセはさらに態度と表情を硬化させ、心持ち声を震わせながらこう呟く。
「……最低」
「そう言わないでくれよ」
「じゃあ、バカ」
「ははは……手厳しいな。どう? 今度ボクのBMW乗せてあげるから、機嫌直してくれないかな」
「……はあ。成り金に付けるクスリって無いのかしら……あんたねえ。洒落でも私を口説く気があるんだったら、自分の力だけで口説いてみなさい? 札束で横っ面をひっぱたくような口説きなんか、私には通じないわよ」
 あくまでも静かで冷静な口調で、チトセがそう告げると彼はぐうの音も出なくなってしまった。
 そして、それを見ていたマコトは、チトセという人物をもう一つ理解したような気になった。
 きっと彼女は、今目の前にいるような水増しオトコには死んでもひっかかるまいと。そして……彼女に人間性を認めてもらえるようになれれば、自分はこの『先輩』たちより確実に先に行ける。
 そのためには、こんな事をしていてはいけない。
 マコトは、この先のゲームで使う筈だったある物を手に、状況にとどめを刺す決意を固めた。
 その時、2ステージ目を演るためにシゲルたちが戻って来る。
 それを見て、また水増し女たちが群がって来たが、シゲルはそれに全く興味を示さず、一直線に楽器の元に向かう。
 それに金魚の糞のように水増し女たちがついてくる。
 そして、楽器の元に辿り着いた彼らの目に入ったのは……。
 ドラムセットをでたらめに叩いて遊んでいるマヤ。
「……伊吹」
「ありゃ? もう帰って来たの?」
「あのなあ、一応仕事道具なんだから、勝手に使うなよな」
「まあ、そう固いこと言わないでよぉ!」
「……はあ」
 シゲルは思った。
 こいつは、田舎の『あの娘』によく似ていると。
 表情が豊かで、よく動いて、底抜けに明るい。
 だが……こいつも女なら、その裏にあの薄汚い打算を隠しているのだろうか。
 そんなシゲルの歪んだ思いをよそに、マヤはいつもの無邪気で無垢な声でこう言う。
「まったく友達がいが無いんだからあ、シゲルくんったら!」
 その言葉を聞いて、シゲルは唖然とした。
「はあ、友達、ねえ」
「でしょ?」
「くくく……」
「?」
「いや、参った参った! 確かにそうだよな、そうだそうだ!」
 シゲルはその時思った。
 この無邪気な少女の打算の無い明るさは、自分にとっての東京そのものだと。故郷で抱えた負の感情を綺麗に洗い流してくれる、一生ものの仲間だと。
 もっとも、事実としてはそんな気持ちを持って余裕をかましていられない状況だったのだが。
「おい、シゲル」
「あん? なんだよエイジ」
「おれら、変装してんだろが」

 5秒経過。

「……あ」
「アホ……」
 そして。
「えええ〜!?」
「このお子様ムスメ、何なのよ〜!」
「ちょっと、早くどきなさいよ!」
「説明してよォ!」
 さらに。
「はいはい、そこまで。君たちの出番は終わりだよ」
 と言いながら、チトセに撃墜されたオトコが苛立った声を上げて乱入。
 そして彼らは悟った。
 これは、どう考えても間違い無く『阿鼻叫喚』が始まるのだと。
 さらに、彼らの頭にひとつの言葉が同時に浮かんでいた。
 もっとも、それを言う前にちょっとはこのバカオトコをおちょくっておきたいと考えたので、彼らは契約をたてにこう言う。
「待てよ」
「あと1ステージあんだろ? 勝手に終わらせるなよ」
「とにかく! 帰ってくれ! ギャラは今すぐ払うから!」
 シゲルはそこに至っても、もう一言二言おちょくろうと思っていたのだが。
 エイジがその瞬間、爆発した。
 彼はやにわに煙草に火を点けると、わざとバカオトコの顔めがけて煙を吐き掛け、獰猛な肉食獣の顔つきでこう呟いたのだ。
「冗談じゃねえぞコラ。 筋ぐらい通せや」
「てめえ! こっちは金握ってんだぞ! ざけんな!」
「それがどうした」
 と言いながらエイジが固く握り締めた右拳を振りかざした瞬間。
 それを、現場に到着したマコトが押しとどめる。
「離せマコト!」
「ま、落ち付けよエイジ」
「るせえ!」
 その恫喝をさらりと受け流して、マコトは言う。
「あのさ、世の中にはさ。やっていい事と……」
 そして、そこでいきなり隠し持っていたゲーム用のクリームパイをバカオトコの顔面めがけて振りかぶり、言葉の続きを絶叫する。
やって面白い事があるってさ!
 それが、試合開始のゴングになった。
 それを見たマコトの先輩たちが、口々にこう叫びながら突進して来る。
「日向テメエ!」
「この恩知らず!」
 だが、彼らには誤算があった。
 マコトが彼らを裏切ったということはつまり、エイジのリミッターが完全に除されたという事なのだ。
 エイジは、こうなると何をしでかすかわからない。
 彼は手近のテーブルを蹴飛ばしてひっくり返し、突撃して来た連中の足を止めると、こう絶叫しながら嬉々として殴りかかって行く。
「オラァ! 坊やどもはおねむの時間だぜェ!」
 それに続いた右のショートレンジラリアートで先頭の男を床から30センチは浮かし、その後ろにいた3人ばかりの人間もまとめて巻き込んで1メートルほど吹き飛ばす。
 その瞬間、打ち合わせもしていないのに絶妙のタイミングでチェシャ猫男が部屋の照明を全て消し去った。
 そしてエイジは、
「文句ある奴ァかかって来やがれ!」
 と吠えながら手近にいた人間の背中を蹴飛ばして、彼に逆襲しようとしている連中の身代わりにした。
 かくして同士討ちともしらず、
「この筋肉バカが!」
「ざけんじゃねえ!」
 などと叫びながら派手に殴り合うマコトの先輩『だった』人間たち。
 それを尻目に、エイジはまんまとそこから立ち去り、『元を取る』ための行動に移る。


 そして。
「この! 日向!」
「待ちやがれ!」
 と言う叫びとともに、マコトは過酷な追撃を食らっていた。
 上着には何度となく手がかかり、投げつけられるコップが度々顔をかすめる。
 そうこうしているうちに。
「ヤバイな、出口どっちだっけ……?」
 完全に方向を見失ったマコトは、そう呟くはめになる。
 そして。
「しまっ……行き止まり!?」
 彼は部屋の隅、出口からもっとも遠い壁ぎわに追い詰められてしまった。
「ヒュウガあああ!」
「やっちまうぞ、コラ!」
 その叫びを聞いて、マコトは
『こりゃ駄目だ……』
 と思い、殴り飛ばされる覚悟を固めた。
 のだが。
 いつまで経っても、それは彼に振りかかって来ない。
 その代わりに……どこかで嗅いだ香水の匂いがした。
「?」
 直後、彼の耳元に聞き慣れた人物の囁き声が聞こえる。
「ほら、日向くん! なにボケてるのよ! 次が来ないうちにさっさと逃げるわよ!」
「チトセちゃん? サンキュー! 助かったよ!」
 その素直で無邪気な感謝の言葉に、しかしチトセはしかめっ面でこう応じる。
「……あのね」
「?」
「ちゃん付けは辞めなさい。馴れ馴れしい」 


 一方。
「なめんなよ、ロンゲ!」
 の叫びとともに、シゲルの方にも災厄がふりかかる。
 だが、彼は致命的なミスを犯した。
 彼は、シゲルの近くにあったエレアコを武器に使ったのである。
 その攻撃は確かに命中したのだが、その行為はシゲルのリミッターを解除するのには十分だった。
「てめえ……楽器を粗末に扱うんじゃねえ!」
 シゲルはその言葉とともに、相手の後頭部に手をかけてロックし、顔面めがけて容赦の無い膝蹴りを叩き付ける。
 彼にとって、ギターとはこの街に来るまで唯一自分を裏切らなかった本物の友人である。それを粗末にされたとあっては、もはや彼に手加減しろと言う方が無理というものだ。
 もっとも、既に彼の身体の一部と言っていい質流れのレスポールが無事だっただけ、まだ状況はましだった。万が一レスポールの方で相手が殴りかかっていたら、シゲルは相手が気絶してもまだ殴っていた事だろう。
 そして、その僅かな幸運が、彼に冷静さをほんの少し取り戻させた。
「これ以上ここにいたら、マジでこっちのギターもやべえな」
 そう呟くと、なんとか隙を見てレスポールを回収しようと考えたのだ。
 その時である。
「シゲル」
「エイジか?」
 それでお互いの存在を確認した直後、エイジは丁寧にケースにしまいこまれたレスポールをシゲルに手渡し、こう囁く。
「あっちで場ァ作っといたから、こっちは当分安全だ。そこらに伊吹がいる筈だから、早く合流して逃げ出せ」
「お前は?」
「元取ってから行く」
「セコっ」
「がめついと言え」
 そのやりとりで、彼らは完全に冷静さを取り戻した。
「ほんじゃま、そうさせてもらうぜ、エイジ」
「おう、まかせとけ!」
 シゲルはその言葉を残してギターを背負い、マヤの姿を探す。
「さっきまでドラムんとこに座ってたから、多分その辺に……」
 そう呟きつつ動いていたら、何者かに顔からぶつかってしまった。
 柔らかい感触。
 香水の匂い。
 そして、
「きゃっ!」
 という短い叫び声。
「伊吹?」
 彼はそう言うなり、そこにいた人物の肩に手をかけ、振り向かせる。
 そこにいたのは……。
 この混乱でミサトとはぐれてしまい、途方に暮れていたリツコ。
 その状況を受けて、リツコの頭の中は瞬時にショートしてしまった。
 目の前に……文字通り目の前に『あの人』がいるのだから、免疫の無い彼女にとっては十分過ぎる過負荷だ。
 それでも彼女は、この機会を無駄にしまいと考え、とにかく喋ろうと試みたのだが。
「あっ……あの……その……」
「っと。悪い。人違いだ」
「そ、その……」
 と絞り出すのが手一杯。
 これではいかん、と彼女は思い直し、シゲルの上着を掴もうと考えたのだが。
 シゲルがその時呟いた。
 本人の思う分には、しょうがないな、という風に。
 そして……リツコの耳には、もっと大事な意味を持っている風に。
「そうだよな。あいつが香水なんかつけてるの、今まで見たことねえもんな」
 その瞬間、リツコは自分の身体の芯に冷たい氷の棒を突き刺されたような気分になり……次に何をすべきかを完璧に見失った。
 それに気付く由もないシゲルは、
「気ィ付けろよ、とにかく早く逃げるんだ」
 と言い残して、その場を立ち去った。
 リツコは、そのままその場から動く事が出来なかった。


 その頃ミサトが何をしていたかと言うと。
「なんとか巻いたかな」
 と呟く男……あのチェシャ猫男の手引きで、いち早くあの混乱を抜け出していた。
「『なんとか巻いたかな』じゃないわよ! ちょんまげ君! 服は酒でびしゃびしゃだわ、いいオトコには全然会えないわ、挙句の果てにこれじゃあ大損もいいとこよ!」
「まあ、そう言うなよ、葛城」
「葛城、って……馴れ馴れしいわねホント!」
「当たり前だろ? 同じサークルなんだから」
「はい?」
 呆然とするミサトを尻目に、チェシャ猫男はさらに続ける。
「『ザ・グッドマン』所属、クラリネット、経済1年、葛城ミサト。違う?」
「……その通りよ」
「幽霊部員してるのを棚に上げて、感謝も無しっていうのはどうかと思うよ?」
「だってさあ……グッドマンの名前を使ってるのに全然スイング演らないじゃないの。看板に偽りありよ」
「"IT DON'T MEAN A SWING"……ね。確かにそうだけど、だったらもうちょっと我慢しようや。俺もサッチモ演らせてもらえないの我慢してるんだから」
「……気が長いのね」
「ま、あと1年ちょいの辛抱さ。俺らが運営するようになったら、俺らの好きなように出来る。そのためには真面目に出といて発言権を大きくしといた方が得だと思うけどね」
 ミサトはその言葉を聞いて、目の前にいるオトコの考え方に興味を持った。
彼は、好悪とか衝動とかで行動を取っておらず、目的のための手段という遠回りを認めて、理屈で動いている。
 それは、今まで彼女がいいようにあしらって来たオトコとは既に別の生物だった。きみは間違っている、と堂々と言い放つ、今まで彼女の前には出てこなかった人種だった。
 それならば、ちょっとの間このオトコを見極めてみよう。ミサトはそう考えた。この余裕と理屈が本物なのか、口だけなのか……それがわかるまでこのオトコと行動して見るのも、悪い考えではないと。
「わかったわ。これからは出来るだけ出るから、サークル」
「了解」
「……ところで、アンタの名前は? ちょんまげ君」
「加持。加持リョウジ」
「それじゃあ加持くん、これからよろしくね」


「ええいクソ! あのバカどこ行った……」
 そう愚痴りながら周囲を見回すシゲル。
 ところがまるでマヤの姿は見つからない。
「落ち付け……この状況において、あいつがしでかしそうな事……」
 それを必死で考えた末、シゲルはこう呟いて見る。
「あ、ローストビーフ、ひと皿全部残ってんじゃん」
 直後。
「え!? どこどこどこ? まだ全然食べ足りなかったのよね! ラッキ〜!」
 状況の危険さをまったく理解していないまま、皿と箸を持ってマヤが出現。
 それを見て、シゲルは顔面に縦線を入れつつこう愚痴る。
「出て来ンなよ……」
「で、シゲルくん! どこなの? ローストビーフは!」
「無えよ!」
「うそつき〜!」
「ンな事はどうでもいいんだよ! 早く逃げないとヤバいんだって!」
「でもご飯〜!」
「ああもう! それはエイジに回収を頼んであるから!」
 それを受けて、マヤの顔に散歩直前の犬の歓喜が浮かぶ。
「本当?」
「当り前だ! ほれ、逃げるぞ!」
「は〜い!」


 そして再びエイジ。
 彼のスーツのポケットは既にいろいろな物体で嫌という程膨れ上がっており、遠目にはジョン・ベルーシのような体格に見える。
 だが、彼はまだもっとも重要なものを『回収』していなかった。
「さて、と……後は」
 そう呟くと、彼はある人物を探す。
 そう。『金を握っている』と断言した、あの男だ。
 マコトが投げ付けたパイのクリームが目印になって、それは簡単に見つかった。彼はなんとか混乱を抜け出し、顔のクリームを拭き取っている最中だったのだ。
 そして、エイジはそこに背後から足音を殺して近づき、その男の肩を指先でちょんちょんと2度つつく。
 そして、
「あん?」
 と言って反射的に振り向いたその男のアゴへ強烈な右の掌底突きを、真正面から正直に打ち抜くのでは無く、相手の首が捻れるようにサイドから叩き込む。
 これは、骨折のような表面上のダメージよりも、その中へのダメージ……つまり脳をシェイクさせて確実に相手を一撃で仕留める意図を持った攻撃だ。
 しかもエイジ本人曰く、
「りんごくらいなら、簡単に握りつぶせるさ」
 というとんでもない膂力を、あまつさえカウンターで食らわせたのだから、それは完璧に成功する。
 そして彼は、
「ほんじゃあま、約束だから給料はもらうゼ」
 と呟くと、昏倒させた男のポケットを物色する。
 ほどなくして、彼は茶封筒に入った給料袋を5つ……つまりバンドメンバーの人数分発見した。
「よし」
 そして彼は素早くそれを懐にしまい込もうとしたのだが。
「!」
 たまたまそのすぐ脇にいたリツコと視線が合ってしまう。
 リツコの視点から見れば、その光景はその筋の人がカタギの人をぶちのめして強盗を働いているそれとしか思えない。
 エイジも、まさかそれを見られているとは思いもしなかったので、動きが止まってしまう。

 5秒経過。

「……見たな」
 エイジのドスの利いたその言葉を真正面から受けたリツコは、頭の中で『仁義無き戦い』のテーマが流れるのを自覚し、そしてこれから自分の身に振りかかるであろう災厄を勝手にしかも必要以上に妄想し、完全にその場で固まってしまった。


「まったく……一時はどうなる事かと思ったわ」
「ホントホント」
「元凶が偉そうにしないの!」
「へ〜い」
 首尾良く抜け出したマコトとチトセは、ホテルの前からタクシーを拾い、いつもの噴水公園まで辿り着いていた。
「ところでさ、チトセさん」
「?」
「どうやってセンパイたちを叩きのめした訳?」
「言って無かったかしら。私、剣道2段で柔道初段なの」
「げ……」
「まずは特殊警棒を振りかざしてたバカがいたからそいつを投げて獲物を奪って……もう後は言うまでもないわよね」
 この女には弱点というものは無いのか。
 マコトはそう思い、素直な尊敬の念を持って彼女の顔を見つめた。
 それを受けて、苦笑しながらチトセはこう続ける。
「ま、護身のためになら使うけど、あなたをぶちのめすのに使ったりはしないから、安心しなさい」
 マコトはそれを聞いた後、しばらく黙り込んでいた。
 今日起きた事すべてが、自分のこれから先の生き方を決めるだけの『事件』だと感じたからだ。
 だが、チトセはそうは思わなかった。
 人当たりのいいマコトの事だから、今日のような問題を起こしたのは初めてだろうと推測し、彼を気遣ってこう切り出す。
「もし、後で謝りに行くんだったら声をかけて頂戴。あのバカどもの首にも縄かけて、一緒に連れて行くから」
「……いや、いいんだ」
「?」
「そんな事、しなくていい」
 珍しく、と言うより、彼女が見る限りでは初めての真顔で、マコトは呟いた。
「もういいんだ、あの人たちは。真面目にやったり、勉強も努力もしなくても誰かが自分のとこに自分の欲しい物を持ってくると思ってるような人たちは」
「へえ」
「ボクも……高校の頃のままの調子でいたら、ああなるところだった。でも、シゲルとエイジが喧嘩してくれたおかげで。アイツらとつるむようになったおかげでこうなった」
 そして、マコトは顔を上げてさらにこう続ける。
「ボクはシゲルたちと同じ道を行くよ。力ずくで自分の道を切り開く道をね」
 チトセは苦笑いして、こう答える。
「……苦労するわよ」
「『あれ』よりはましだよ」
「まあ、ね」
 チトセがそう呟いた直後。
「あっ! やっぱりここにいた〜!」
 と言い合いながら、自転車に2人乗りしたシゲルとマヤがやって来る。
 だが、マヤはともかくシゲルは顔中に変な汗をかいていた。
「バカ! 伊吹暴れるな! この自転車ブレーキが……」 
「あ、ごめんね、シゲルくん!」
 直後、マヤはシゲルから預かって胸に抱えていたレスポールと一緒に自転車から飛び降りる。
 結果、自転車は急加速。
 そして。
「どばりゃあああ!」
 と言う断末魔の叫びとともに、シゲルは自転車もろとも噴水にロケット・ダイブ。
 それを見て、マヤがいつもの叫びをあげる。
「あ、ああっ! ご、ゴメンね〜! シゲルくん!」
 2秒後、噴水から立ち上がったシゲルは、諦め半分でこう返答する。
「もういいよ……どうせこうなると思ってたよ……」
 その鮮やかなドリフぶりを見て、マコトもチトセも半ば呆れながらこう呟く。
「シゲル……」
「あなた、本当に噴水大好きよね」
「巨大なお世話だ!」
 腹立ちまぎれにそう吐き捨てた後、シゲルは改めて周囲を確認し、こう呟く。
「ところで、エイジは?」

 5秒経過。

「さあ……」
「ええっ!? じゃあ私のごはんはどうなるのよぉ〜!」
「まあ、あの男の事だからやられたりはしないと思うけど」
「意外と警察の方に捕まってたりして」

 また5秒経過。

「ありうる……」
「十分にありうる……」
「って言うか、今まで警察のお世話になったことが無い方が不思議よ」
「ごはん〜!」
 状況を理解していない約1名を除いて、エイジが明日の新聞の3面の隅を飾る事に何の疑いも持たない状況になったその直後。
「……?」
「あのむやみやたらに気合いの入った全力疾走の音は……」
「エイジだ!」
「やった! ごはん〜!」
 その数秒後、彼らの視界にエイジの姿が捉えられた。
 首から愛用のテナーを。
 右手にテナーのケースを。
 スーツのポケットに大量の酒を。
 そして……




















左手にリツコを抱えて。






















「え〜っ!?」
 あまりにも予想外の展開を見た一同は、そう言い残してあっちの世界に旅立つ。それに委細かまわず、エイジは彼らの前に立ち止まり、こう呟いた。
「やれやれ……何とかなったか」
 そしてテナーのケースとリツコから手を放したのだが、リツコは完全に放心状態でその場にしゃがみ込んでいるだけだ。
「……ま、とりあえず」
 エイジはそう言いながら懐に手を入れて煙草を取り出し、火を点ける。
 そして、リツコはうわごとのようにこう呟いている。
「さようならお母さん。リツコはどこか遠いところに行きます……きっと香港かどこか……」
 それに耳をかさず、エイジはさらに別のポケットから茶封筒を取り出し、リツコの目の前にしゃがみこむと、こう切り出す。
「ほい」
「!?」
「口止め料」
 その光景を見て、ここに至るまでの過程を必要以上に創造力たくましく予想した一同はこう思った。
『外道……こいつ、外道だ!』
 だが、チトセがその拳を握り締めるより先に、エイジが言葉を続けた。
「まあ、正当な賃金を頂いただけの事なんだが、手段はちょっと誉められたもんじゃねえし、あとのメンバーへどうやって給料渡したらいいもんかわからねえからな。現場を見てたお前さんが取っとけ。それで見なかった事にしてくれや」
 それを聞いて、一同は自分たちが妄想したような生臭い状況が無かった事を悟った。
 そして、リツコもあっちの世界から帰還し、こう呟く。
「あの……それじゃあ香港とかは……?」
「無い無い無い……ヤクザじゃねえんだから」
 それに、平尾のパスを見た吉田義人並みのスピードで一同が反応する。
「エイジ」
「あんたその格好で」
「そんな事言っても全然説得力無いよ」
「……ごはん……」
 それを黙殺して、エイジはリツコの手に無理矢理3個の茶封筒を持たせ、こう告げる。
「ほんじゃま、気を付けて帰りな」
「……え?」
「だから、帰っていいよ。はい、帰った帰った」
 その言葉を聞いて、リツコは自分が助かったのを理解したと同時に、こう思った。
 結局……ミサトに半ば無理矢理やらされてではあったものの自分なりに着飾ったつもりだったのに、まるで無駄だった、と。
 その苛立ちを、彼女はそのまま正面にいたエイジに叩き付ける。
 全力での平手打ち一発に込めて。
 そしてようやく立ちあがると、怒りを一歩一歩に込めつつ、その場を立ち去って行った。
「……何なんだ? 一体」
 左の頬を押さえながらエイジがそう吐き捨てたのに、一同はこう返答する。
「ま」
「平手打ちで済んだだけありがたいと思え」
「あんな虫のいい取引で済んだ事もね」
「へいへい……」
 そこで、マヤが改めてこう叫ぶ。
「エイジく〜ん! ごはん〜!」
「おお、そうだったそうだった。ほれ!」
 そう言いながら、エイジはテナーのケースの中から、大量の折を取り出す。
 これでもかとばかりに中身が詰めこまれたそれを見て、マヤは歓喜した。
「いやったああ〜! いっただきま〜す!」
 それを横目で見て苦笑しつつ、エイジは上着のポケットから酒のボトルを取り出す。
 それを見て、チトセが素早く反応した。
「あら! ロマネコンティなんかあったのね」
「おお。だいたいこういうパーティなら、どっかしらに一本はこの手の酒が隠してあると思ってよ」
 自慢げにそう言うエイジに、よくぞ見破ったという気持ちを込めて、マコトはこう呟く。
「そういトコは鼻が利くんだよな、エイジは」
「でも、今まで走って来て滓が上がってるはずだから、落ち付いてから飲みましょ」
 酒にはうるさいチトセがそう言ってボトルをエイジから取り返し、噴水に放りこんでワインを冷やしつつ落ち付かせようとする。
 それを終えてチトセが振り返ったのを確認して、エイジはさらに続ける。
「あとはこれだ」
 今度はシゲルが、そのボトルを手に取って呟く。
「ウイスキー?」
「まあウイスキーはウイスキーだが、所謂スコッチじゃなくてバーボンだよ」
「"Ancient Age"……『古き良き時代』?」
「まあ、意訳すればそうなるかしら」
「素直に『古くせえ時代』でいいと思うぜ。この酒、本当に古いストレートなひねりの無いバーボンの味だからよ」
「それじゃあ」
「ちょっともらっていいかしら」
「おお」
 エイジはそう言いながら、紙コップをテナーのケースから取り出し、人数分のそれに茶褐色の液体を流し込むと、全員に配る。
 そして、全員がそれを手に持ったところで、マコトが叫ぶ。
「ほんじゃあま、改めて。今日はお疲れ様でした! かんぱ〜い!」
「乾杯!」
 そして全員がそれに口をつけたのはいいのだが。
 当然氷も入っていないストレートなので、バーボンを飲みつけないシゲル・マコト・マヤは激しくむせ返る。
「うわ!」
「辛い!」
「げほげほげほ……」
 それを横目で見ながら、チトセとエイジはこう言い合う。
「本当にストレートで古い味よね」
「ああ。だけどこの味が好きなんだよ、おれは」
「……あんたみたいな酒よね」
「誉めてんのか? それ」
「さあ」
 チトセはそうつぶやいて、まだむせている3人に……より正確に言うならマコトに視線をやるとこう呟く。
「あの3人がこの酒の味をわかるようになったら、何て言うのかしらね」
「『今』を思い出すんじゃねえの?」
 エイジのその言葉は、チトセが想像した以上の回答だった。
 チトセは一瞬驚いた後、確かにそうだと顔に書いてこう呟いた。
「……今は想像もつかないけどね」
「まったく」
 そう言い合うと彼らはバーボンを飲み干し、ボトルからそれを注ぎ足した。


 昭和63年、初夏。
 まだ彼らは若く、そして自由だった。
 その時間はまだまだ続くと信じていた。
 5人が一緒にいる4年間が。


 その時間が瞬時に過ぎ行くものだと気付くのは、過ぎ去った後のことだ。