「・・・」
その時、僕の目の前に笑顔があった。
それは何処か悪戯めいた、<正解>を期待するような表情だった。
「え、えっと・・・」
「・・・」
「そ、そうだな今日の服、初めてみるけど中々似合って・・・」
僕はそう答えを発しかけた。
しかしそれはすぐに変わってしまったその表情に中断するしか無かった。
「・・・服う?」
その表情そのままの声だった。
不満そうな、そして呆れたような声だった。
「あ、ああ。」
「これ・・・3回前のデートで着た筈のヤツなんだけどさあ・・・」
そう、それは僕の彼女が発した声だった。
怒った顔も結構可愛い・・・
なんて余裕をかませる雰囲気なんかとても与えてくれそうにない口調だった。
「・・・そ、そうだったっけ・・・そ、それじゃ・・・く・・・」
「・・・靴?・・・確かに買ったばかりよね・・・一月前に。」
慌てて発しかけた僕の次の答えはやはり中断せざるを得なかった。
そのワザと低く、静かな口調で間髪入れず彼女が発した・・・
伝えようとした<恫喝>をそのまま感じ取ってしまったのが、多分原因だ。
「そ、それじゃ・・・」
「それじゃ?」
「えっと・・・」
「えっと?」
「その・・・」
「その?」
「・・・」
「・・・」
僕たちを短い沈黙が包んだ。
或る日曜の午後という時、それに駅前の繁華街にはとても似つかわしくない沈黙・・・
そして色々な衣装を着た大勢の人々が行き来する情景には似つかわしくない雰囲気・・・
「・・・悪い。」
そう言って僕は彼女に「詫び」を入れた。
それは勿論答えが解らなかったことへの「降参」の意味があるのだが、どちらかと言えば
今日のデートの為に彼女は多分張り切って装って来ただろうに、それを<肝心の相手>が
解ってやれなかったことへの「謝罪」の意味が大きかった。
「こーすい!」
いきなりの声だった。
それは僕を更に責めるというより、何処か沈みかけた雰囲気を変えるような・・・
彼女らしい、健康的で活気に満ちた答えだった。
「えっ?」
「香水よ香水!この前出たばっかの新製品だから誰でもすぐ解るヤツよ。」
「そ、そうなのか?」
「なのになんで解んないかなあ。」
「そ、そう言われても・・・なあ・・・」
彼女のそんな悪戯っぽい態度に気圧されるように、僕は苦笑いのままそう口にした。
しかしまあ実際の所、自分自身元々鈍い方だってのはとっくに自覚しているぐらいだし、
それに元々そんな香水とかに全く興味も無いんだからその辺言われても困る・・・
・・・いや、まてよ。
・・・あの頃・・・あの頃だったら・・・そう、ひょっとしたら・・・
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Touching Fregrant
その時だった。
消毒液混じりの空気の匂いを感じた。
リノリウムの床隅に僅かに溜まった埃の臭いを感じた。
廊下を行き来する人々に与えられた薬や治療の後の臭いを感じた。
・・・ドアが開いた・・・らしい。
クリーニングが終わったばかりの衣服の匂いを感じた。
夜勤明けの仮眠を終えたばかりを表すその髪を覆う洗髪料の匂いを感じた。
そして多分・・・その表情を僅かに装っている薄い化粧に混じる性を示す香りを感じた。
・・・入ってきたのは女性・・・らしい。
そんな感覚がゆっくりと強くなって来るのを感じた。
・・・女性が僕に近づいている・・・らしい。
それが更に強くなり、やがて僅かな増減のままで止まったのを感じた。
・・・僕のそばに立っている・・・らしい。
それから汗による湿り気と共に温みの混じる空気が拡散した臭いを感じた。
・・・僕を包んでいた毛布が看護婦の手によってめくられた・・・らしい。
・・・そんな感じだった。
多分、<そうであろう>という感覚だけだった。
<病院のベッドに横たわる僕の元にやってきた看護婦が、日課の<リハビリ>を行う為に
僕にかけられていた毛布をめくった>という事実をそういう風にしか認識出来なかった。
何も見えなかった。
何も聞こえなかった。
何も話せなかった。
何の味も解らなかった。
何の皮膚感覚も無かった。
・・・その時の僕はそんな状態だったからだ。
・・・元からこうだった訳じゃ無かった。
少なくとも交通事故に巻き込まれ、この病院に担ぎ込まれた時は一通りの感覚はあった。
だがそれがどうしてそうなったかと言うと・・・一言で言えば受けた治療のお陰だった。
・・・それが失敗したとか、何かの実験材料にされたというのでも・・・多分ない。
勿論僕は医学の専門家じゃ無いから詳しくは説明できないが、何でも僕を担当してくれた
医師の話だと、僕が受けたダメージは相当深刻で対処には脳神経をいじらなくてはならず、
その為に当面の間、一時的に大半の感覚が麻痺するような治療ということだったからだ。
実際、それ以外に選択肢が「死」しか無いと言われた上に、事故後のショックから感覚が
快復しつつあった証拠の<激痛>を感じ始めていた状態じゃそれを選ぶしか無かったが。
・・・という訳で目覚めたとき残っていたのは、身体を動かしているという内部からの
微かな感覚を除けば今のような、つまり<嗅覚>しか無いという有様だったという訳である。
・・・しかもまるで定番のように、そう、信じられないほど鋭い感覚として。
まあ、流石に目覚めた瞬間は驚き、そしてしばらくは恐怖と不安で仕方がなかったのだが、
どんな状況でも時の経過と共に<慣れてしまう>ということもまた事実だろうと知った。
・・・元々僕自身が<鈍い>というのも・・・あったかも知れないが。
衣服の匂いが強くなってきた。
更に洗髪料の香りが濃くなってきた。
そしてもう慣れてしまったそんな感覚に包まれて少し経った時、僕の右手が動かされた。
今日の<リハビリ>が始まったことが解った。
これから一定時間手足を動かしたり上半身を起こしたりといった運動が行われる。
それは勿論、殆ど寝たきり状態であった僕の僕の筋肉を萎えささない為の治療行為だった。
ただ、その時の僕は運動機能そのものは大体回復しているが外界からの感覚はやはりまだ
ということで、どの程度まで体を動かせるかを知るという意味が強い行為であった。
やがて手足、上半身、下半身が一通り動かされて元の位置に戻される。
湿った水分の感覚が前後すると共に僕自身が発していた汗の臭いが失せる。
そして先程一連に感じた感覚を逆の順序で感じた後、再び元の室内だけの感覚だけ・・・
そんな日常だった。
奇妙な感覚が形作る平凡な日常・・・
それは少なくとも治癒まで変わらず続くものだと思って過ごしていた。
ただ、あの日だけは・・・
・・・!?
いきなりだった。
その時、廊下の臭いが一瞬だけ感じられたかと思うと途端に弱くなった。
・・・ドアの開閉を相当早く行ったのかも知れない。
誰かが部屋を間違えたのか・・・いや、違う。
入ってきている。
知っている匂いを感じる。
何度かのインターバルを置いて感じる薄い化粧の匂い・・・
それは多分、僕を担当している看護婦の一人だった。
だが変だ。
いつもの感覚と違う。
混ざっているのは汗と短いインターバルで発せられる吐息・・・
・・・まるで息を荒げているようだった。
災害?
いや違う。
そこまでの地震とかなら僕の内部にも伝わる筈だし、火事とかなら煙でそれこそ気付く。
それに大体、それならその看護婦は僕の方に近づいて何らかのリアクションをする筈だ。
だが、匂いの濃度が変わらないことが証明しているように看護婦はドアの前から動かない。
・・・?
僕がその奇妙な感覚の実像を色々考えていると更に別の感覚を感じた。
金属の擦れる臭いだった。
それはいつもなら僅かに漂うだけのドア部分の金属の擦れる臭い・・・
だがその時感じたのはいつもよりかなり強い、まるで無理矢理にこじ開けようというか、
片方で押さえているノブを力任せに開こうとしているような感じだった。
・・・外に誰か居るのか?
そう感じていると少しずつ、だが確実に廊下の臭いを再び感じ始める。
・・・ドアが少しずつ、だが確実に開いて行くようだった。
別の臭いが混じっていた。
通常ならば薬品とか見舞客が持ち込んだ花とかが発する匂いが混じることは珍しくない。
だが僕がその時感じたのは、およそこの病院で感じるのとは全く違う・・・
・・・!!!
一気に強くなる。
その不快な刺激を与える臭いが僕の鼻孔を付いたかと思うが早いか濃度を増した。
・・・入ってきた!
強い恐怖を感じる。
だがその濃度はさほどの変貌を見せない。
まるで僕を無視するようにその位置を変えただけだった。
看護婦の香りが移動する。
まるでその不快な臭いから離れるように左・・・確か窓のある側へと移動する。
臭いもそちらへと移動する。
香りが更に移動を行う。
臭いの移動速度が殆ど止まった状態となる。
そして香りが文字どおり止まったままとなる。
まるで叫ぶように開いた口から漏れるような息の匂いが香りに混ざろうとした・・・
瞬間!
重なる!
臭いと香りが重なる!
床に飛び散った汗の冷えた匂いを感じる。
息の匂いがまるで何かで押さえたように一気に小さくなる。
その代わりに、まるで衣服を剥いだように女性特有の匂いを強く感じ出す。
そして・・・そしてかなり微弱な、だが確実に僕を捕らえた・・・涙の匂い・・・
・・・
見えていた訳ではない。
聞こえていた訳でもない。
ましてや誰かが伝えてくれた訳でもない。
だが解った。
その時の僕は確かにはっきりと解った。
今すぐそこで何が行われているかということと・・・何をするべきかを!
僕はベッドから飛び降りた。
迷うことなく文字どおりそう身体を動かした。
リハビリ以外にも暇なときにこっそり動かしていたのが幸いして倒れなかった。
僕は迷うことなくそこへ歩を進めた。
まるで宇宙遊泳でもしているかの様な頼りない感覚だったが倒れることはなかった。
そこからの臭いが変わった。
先程まで混ざっていた臭いからあの不快な臭いだけが強くなってきた。
強くなってきた。
更に強くなってきた。
まるでその歩みのテンポを僕に教えるように等間隔で強くなってきた。
そう、等間隔。
だから面会謝絶状態の僕にも問題なくそれが出来た。
近づいてきたその不快な臭いに・・・思い切り拳を放つことを!
瞬間的に唾液と血痕の臭いを同時に感じる!
その感覚に少しだけ怯みを感じるが、それを振り払うようにもう一度拳をそこへ放つ!
ベッド暮らしの面会謝絶の身でどれ程の威力が出せるか解らない。
だから向こうにとってこれはそんな相手故の<油断>が招いた不運・・・
だから放つ。
ありったけの力を込めて放つ。
正に盲撃ちそのままに放って放って放ちまくる!
やがて、あの不快な臭いは僕の射程距離から急速に下へと移動した。
血と汗と唾液が微かに飛び散った臭いに続いて断続的な荒い息の臭いを感じる。
そしてそれは代わることなく続く・・・
・・・終わった。
そう感じた。
その瞬間、急速に力が抜けるような感覚を感じたと共に・・・
そして数ヶ月後・・・
「・・・ま、男の人だからその辺鈍くてもしょうが無いってのはあるよね。」
言い方だけ聞くと物わかりが良さそうな言葉だった。
だが絶対そうじゃないってことは僕に向けられた悪戯っぽい表情で充分理解できた。
「でもこっちとしてもそればっかじゃつまんないから今からその辺教えてあげるわ・・・
うん、香水以外にアクセサリーや靴、それに服なんかもいいわね。」
「えっ?、お、おい?それって・・・」
・・・という訳でまあ定番みたいだが、治療が完全に成功して全ての感覚が元通りに
なると同時に、やはりあの時の鋭敏すぎる嗅覚も普通になって
今日みたいに彼女の折角の行為にもトホホな状態になってしまう訳だが・・・
「ダメダメ!今日のデートはデパート!ま、そっちの服も選んだけるからおあいこね。」
「何処が・・・」
少しは言い返そうとした僕の言葉はそこで遮られた。
僕の目前に彼女の、やはり悪戯っぽい子供みたいな表情があった。
そしてあの時、<当直の看護婦を襲おうと侵入した浮浪者を僕が叩きのめした>後、多分
床に倒れかけつつあった僕が久しぶりに、そして鮮明に感じた感覚が一瞬蘇った。
「・・・」
それは久しぶりの、まるで外界の扉が開け放たれるように感じた感覚。
そして倒れつつあった僕を支えてくれたあの看護婦、いや彼女が与えてくれた・・・
今僕の唇が感じている柔らかく、そして暖かな唇の・・・感触・・・
「・・・」
「・・・」
「・・・」
再び僕たちを短い沈黙が包んだ。
或る日曜の午後という時、それに駅前の繁華街の中での沈黙だった。
そしてそれは、忘れようもない彼女の感触に答えるように僕が行った抱擁故だった・・・