僕はその日、ある病院にいた。
何処かが悪かった訳じゃ無い。
事故で入院した友人の見舞いに行っただけだ。
と言っても友人自身の症状も大したこともなく、結局一時間程雑談で過ごした後、診察の時間が
来たのを頃合いに僕は帰ることとした。
外は「気分の良い午後の休日」そのもの。
そして、ここに来るときに見つけた雑木林の公園のことを思い出していた。
だから特に予定もなかった僕は散歩気分で病院の敷地内を歩くことにした。
・・・まあ、「きっかけ」というヤツはそんなところかな。
MATERIAL EMOTION
それは季節で言えば春から初夏へと移り変わる頃だった。
そして場所で言えば郊外に設けられた総合病院の片隅だった。
小さな雑木林に柔らかな陽光が降り注いでいた。
何人かの入院患者とおぼしき人々や見舞客の姿がちらほらと見えていた。
その更に片隅に一人の女性が佇んでいた。
つばの長い帽子を被った20歳程の肌の白い女性だった。
一台の簡素な車椅子に乗り、厚手の寝間着にショールを肩からかけた姿でそこにいた。
その姿は一見するとやや季節にはそぐわなくも見えるが、
その袖や首筋に見える包帯が、注意深げに見る者に痛々しさを持って理解させていた。
唯、その女性自身はその隠された物を特に感じる様子もなく、
背中を過ぎる栗色の髪を陽光に光らせ、そのブルーの瞳を遠くに向けていた女性だった。
その姿が注意深げに見る者に何処か神秘的なものを感じさせていた。
やがて、女性がふと視線を別の方向へ向けた。
その視界に、先程から女性を注意深げに見ていた者・・・
友人の見舞いの帰り、散歩がてらここを通りかかった一人の男性の姿があった。
・・・?
意識はあったが特に意識していた程でもない男性はそれに気付き幾ばくかの動揺を感じた。
そうすると女性もそれを感じたのか、幾ばくかの笑顔を作った。
その様子に男性は何となく自分で自分を指さした。
女性はその様子に今度はうなずきで答えた。
それから・・・男性は親愛と笑顔を持って女性の元へと歩いていった。
「いい天気ですね。」
にこやかな笑顔と共に近づいてきた男性の、それが第一声だった。
「はい。」
笑顔のまま答えた、それが女性の第一声だった。
「いつもこうしているのですか?」
「こんな天気の日だけです。そうでない日は部屋にいます。」
「そうですか。でもこういう日に表に出るのは良いことだと思いますよ。」
「そうかも知れませんね。」
そう言ったたわいもない会話が陽光の下で続いていた。
弾んでいるとは言い難いが、この暖かさの歩調に合うような会話だった。
そうして10分ほど過ぎたであろうか、その会話は時の流れとともに終わりを告げた。
いや、正確には、多分ここまで車椅子を押して来たのであろう、買い物袋を持った一人の
少女の訪れがそれを告げたのである。
その女性の痛々しさとはうって変わった快活そのものの少女だった。
「はは、僕はここを通りかかっただけで・・・そんなのじゃないよ。」
その10歳ほどの年齢に相応しい天真爛漫な瞳を眼鏡の奥から輝かせ、興味とからかいの
言葉を投げかける少女の姿に男性も苦笑せざるを得なかった。
「じゃ、時間のようですから僕はこれで。」
「あの・・・」
「はい?」
「さっきも言ったと思いますが・・・私はこんな天気でしたら大体ここにいます。」
そしてその笑顔のまま語った女性のその言葉と、
再び始まった少女のからかいの言葉に見送られながら男性はその場を立ち去った。
「私には過去がありません。正確に言うと記憶が無いのです。」
その声は木陰の下で聞こえていた。
「私は私としての意識を持ったとき、既にここにいてこの姿でした。」
季節はもはや完全に初夏へと移っていた頃だった。
それは出会った頃の雰囲気とはやや違う生々しさを感じさせるものだった。
だが、側にいた男性は幾ばくもの戸惑いすら感じていなかった。
「あの子は?・・・そう言えば今日は見ないね。」
その質問の口調が逢瀬の回数を物語っていた。
「あの子は私と違って何を食べても構わないですから・・・」
「やっぱり・・・未だ悪いのかい?」
「・・・すみません。」
そう言って女性は車椅子の上で俯いてしまった。
女性の姿自身は幾分軽快な物へと変わってはいたが、相変わらず包帯は見えていた。
「ま、気にすることはないよ。最初にあった頃より随分と元気になってるみたいだし。」
「そう・・・ですか。」
「そうさ、そのうちもっと元気になって全部元通りになるよ。」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。」
そしてその日もどちらかと言えば淡々とした会話が終わった。
唯、最初の頃と違っていた点がもう一つあるとすれば・・・
帰路に就いた男性の唇に女性の唇の感触がずっと残っていたと言うことである。
その日は初夏から夏への合間・・・蒸し暑い日だった。
僕はその日も病院に来ていた。
と言っても今日はあの人と会う為じゃない。
入院を続けていた友人が今日退院するというので顔を出しに行っただけだ。
それに今日の空は重苦しく曇り、今にも降り出しそうな天気だった。
だから僕も今日は雑木林には立ち寄らず、真っ直ぐに帰るつもりだった。
だか、そうはしなかった。
その一言で僕の足は再び病棟へと向かっていた。
それは帰り際に僕の前に現れたあの女の子が語った言葉・・・
「待っています」と言うあの人の伝言だった。
だから僕は初めて教えられた病棟へ、病室へと向かっていった。
期待と不安の入り交じった足取りで。
或る病棟の一つの病室の光景だった。
一人の女性がいた。
空調の利いた室内のベッドに座っていた。
終始無言で過ごしていた。
そして、内を巡る思考を繰り返していた。
・・・
なし。
無し。
無し。
論理矛盾・・・無し。
やがて女性はゆっくりと立ち上がった。
それは外見の痛々しさとは裏腹に全く不自然さの無い動作だった。
しかし・・・これは何だろう?
先程から女性が座っていたベッド・・・
女性が立ち上がる前に・・・まるで鉄塊を載せたように異常な程沈んでいたのは?
・・・
全回路、全部品・・・確認箇所12,737箇所・・・全て正常。
全駆動装置・・・確認箇所144箇所・・・全て正常。
蓄電池・・・充電率9割5分
通常軌道時間・・・58時間17分5秒
命令を実行した場合の駆動限界・・・5時間7分23秒
通常使用を含めた総電磁発動機への回路を開く・・・全て正常。
全て正常全て正常全て正常全て・・・
M.P-2005066"M" 試験作動完了・・・全て正常。
その時、ドアをノックする音が部屋に響いた。
壁面開閉部に衝撃音を関知。
振動周波数及び音量より人体による開閉信号と判断する。
実行命令第22191号開始。
記憶集積回路にある音声パターン第4355号を実行。
「開いています。お待ちしておりました。」
壁面開閉部の開放を関知。
実行命令第111785号再検証。
少女の声が無限に反復される。
女性の<造物主>たる、あの少女が入力した一言が。
E.R.A.S.U.R.E.
論理矛盾・・・無し。
よって実行には支障無しと判断し、現時刻より実行段階に移る。
そして・・・
それは夏から秋へと移り変わる頃だった。
大学を出た後、数年の時を別の病院で過ごしていた私は、恩師に会うためにある病院を訪れた。
そしてその当日、挨拶を終えて帰路に就いた私は、その敷地内に設けられた雑木林を見つけた。
人が出合うきっかけというものは、時折・・・