吹雪
記憶の微かな欠片に残るその光景・・・
そこで起こった出来事・・・
それは・・・果たして・・・
Disaster
「すまん・・・どうやら道に迷ったらしい。」
私はその時、心底からその一言を口にした。
季節は春の到来を告げんとしていた頃。
そして会社で得られた休暇期間が残り少なくなっていた頃だった。
「やっぱり・・・まあしょうがないわね。」
傍らから普段と同じ様な声が聞こえてきた。
それはもう何十年も耳にしてきた私の妻の声だった。
それは時には苛つくこともあるが、私にとって掛け替えのない声だった。
しかし・・・こんな状況下でよくもそんな風に言えるものだと思う。
「で・・・どうするの?」
「そうだな・・・こんな事もあろうと装備は多めに持ってきたからな。」
学生時代、これでも山岳部のキャプテンを務めたこともあるからな・・・
私は幾分の自慢を込めてそう言おうとした。
しかし帰ってきた言葉は一瞬だけ外気よりも私を冷えさせた。
「次はこんな事にならない準備をすべきだわね。」
やれやれ、往年の女子部の元キャプテンの言葉は厳しいな。
しかしこうした軽口もこの様な状況下では必要でもあった。
お互いがお互いのペースメーカーとして萎える気持ちを押さえ合う・・・
やはり私にとって妻は信頼のおけるベストパートナーであると思う。
「で、これからホントにどうするつもり?」
「そうだな・・・吹雪も強くなってきた様だから今日はここで泊まりだな。」
「仕方ないわね・・・ちなみに食料は3日分よ。」
「通常のルートに戻って下山だとギリギリってとこだな。」
「ダイエットに挑戦してくれるなら5日分にはなるわよ。」
そうして1時間もたった頃だろうか、結局吹雪は強くなるばかりで現在の位置は勿論、今
自分が何処を向いているのかすら解らなくなった我々は車のエンジンを切り、ありったけ
の衣服を着用し、そしてシートを倒し持ってきた寝袋へと入った。
エンジンを切った車内から暖気が失せて行くのが肌で感じる。
しかしこの状況下ではそれもやむを得ないことであった。
ガソリンは無限に供給される訳でもないし、それに雪積がマフラーを塞いだら・・・
まあ車内とは言え、我々には冬山登山の経験もあり、比較的取り乱すこともなかった。
それどころか私は最近機会を逸していた語らいに丁度良いと思った。
それに山の天気は変わりやすい、多分明日になれば・・・
一晩が過ぎた。
「参ったな、天気の読みが狂うとは・・・」
「プロでも読み違いがあるんだから仕方ないわよ。」
「・・・すまんな。」
轟々と鳴り響く吹雪の勢いの中、私は妻の言葉に苦笑いを返すしかなった。
「それよりさっき一寸吹雪が止んだとき外を見たんだけど・・・今この辺じゃない?」
「・・・成る程・・・それなら思った程間違えてないな。」
「ダイエットは帰ってから始められるわね。」
そして我々はその日も色々とたわいもない話をしながら世を過ごした。
考えたらもう何十年も一緒に暮らしているのに話のネタが尽きないのは少々不思議だった。
妻は元々話し上手で好きだから当然として・・・私は・・・
はは、どうやらいつの間にか見事に飼い慣らされていたらしいな。
そう言えば最初に会ったとき・・・高校の時だったな・・・あの時から考えたら・・・
はは、家に戻ったらこの辺を一つじっくり聞くとするか。
「・・・おい・・・おい起きろ!」
「・・・な・・・に・・・」
あれから幾日も過ぎていた。
しかし吹雪は一向に止んでくれず、我々も1歩も動けないままここにいた。
私は何度も助けを呼ぶため単独で強行軍を行おうとしたが、その度に妻にたしなめられた。
それは正しいことであった。
乏しい食料を延ばし延ばしにしていた我々には、その体力が残されていなかったからだ。
しかしその食料・・・私はここまで判断力を失っていたのだろうか。
寝袋の中でじっと横たわる妻の姿に、私は激しい後悔に苛まれ思わず叫んでしまった。
「お前・・・何時から・・・何時から喰ってないんだ!」
「別に・・・いいじゃない・・・ハンデよ・・・」
「ハ・・・ハンデだと・・・」
「そうよ・・・忘れたの・・・遭難したときは男より女の方が・・・」
私は食料の管理一切を妻に任せ、与えられた食料を食べ続けていた。
その持ちの良さにもっと早く気付くべきだったのだ。
「馬鹿野郎!御託を並べてる場合か!これを食え!」
私はリュックに残っていた最後のチョコレートを妻の前に差し出した。
しかし妻はそれを口にしようともしなかった。
・・・!・・・
それは、かたくなな拒絶に見えなかった。
物を咬み飲み込む、そんな単純な動作を行うことすら残っていない様にしか見えなかった。
もはや有余はない。
私は咄嗟にそのチョコレートを自らの口に含むとゆっくりと噛み始めた。
甘き誘惑がじわじわと私を浸食する。
それは私にとってもほぼ1日ぶりに口にした食料であった。
飲み込みたいという欲望が無かったと言えば嘘になる。
しかし私はそれを振り切り、そのまま弱った妻に口移しで与えた。
「これなら・・・何とか・・・なるだろう。」
「ムードの・・・一つぐらい・・・欲しいわね。」
そういいながら妻は力無く涙を一粒流した。
その一滴が私の行為の最大の報酬に間違いなかった。
そして・・・
次の日。
「・・・なん・・・だ・・・?」
「幻・・・聴・・・かしら・・・ね・・・」
「お前にも・・・聞こえるのか・・・」
私はその言葉でその時聞こえた音に確信を持った。
「待ってろ・・・助けを・・・呼んでくるからな・・・」
「当てにしないで・・・待ってるわ・・・」
そして私は降り積もった雪の帳を破ってよろよろと外に出た。
1週間ぶりに晴れ渡った空に浮かぶ太陽が痛いほどだった。
「お・・・おおい!こ、こっち・・・こっちだぁ!」
その空に浮かぶ一機のヘリコプター。
そう、私がさっき聞いた音と全く同じローター音を響かせていた機体だ。
私は迷うことなく体力のありったけを絞って叫んだ。
「こっちだ!解らないのかあ!」
両手をばたつかせ、残る力を全て声に変えても向こうからは白銀中の点にしか過ぎない。
「くそ、何か・・・何か無いのか・・・目印・・・何か目印になるものは・・・」
私は咄嗟に身につけている物全てを両手で触り始め、躊躇うことなくそれを使った。
そして・・・舞い降りる1台のヘリコプター。
テントから担架に乗せられ、僅かにこちらに顔を傾ける妻。
そして私の元にやって来ていた救助隊員の姿と声。
そんな光景が私のぼんやりとした視界に写っていた。
「大丈夫ですか!?」
私はその返答に僅かに頭を揺らしただけだった。
「・・・しかしこんな・・・何て無茶を・・・」
その若い救助隊員は何処か呆れた口調でそう言っていた。
まあ、無理もないだろう。
私がヘリに知らせる為に雪上に大きく書いたSOSの文字・・・
それは、私が咄嗟にナイフで自らの手首を掻き切って書いた文字だったからだ。
「しっかり!しっかりして下さい!奥さんも無事です!今輸血の準備を・・・」
・・・その言葉を聞き取れないまま、私の意識は混濁へと飲まれていった・・・
そして・・・
・・・
「・・・い。」
「・・・」
「・・・おい。」
「・・・?」
「おい!」
「・・・えっ?」
「起きた!起きたか!良かった!心配したぞ!」
気が付いたとき私はベッドの上に横になっていた。
「・・・ここは・・・」
「病院だ!この馬鹿野郎!大体お前はだなあ・・・」
「あなた!起きたばっかりでもう説教ですか!?それにその大声!病院なんですよ!」
その声の主は私の両親だった。
いや、前にあった時よりずいぶん若く・・・待てよ、確か2人とももう・・・
いわゆるこれが臨死体験というやつか?
いや、何か変だ。
どうも何か頭がはっきりしない。
私は確か山に登るときに2人を強引に説き伏せて・・・
そう、折角の春休みだからと一人で冬山に・・・
私・・・いやちょっと待ってくれ・・・妻はどうなったんだ・・・
妻?・・・ちょっと待て・・・俺には・・・
そうだ・・・そうだよ・・・俺は・・・
「俺・・・助かったのか・・・」
意識のはっきりとして来た俺は親父にそう聞いた。
その時の俺はとにかく人の声が聞きたかった。
親父の声ってのは一寸アレだったけど・・・この際贅沢は言えないもんな。
「まあ、お前は自力で麓までは来てたからな。そこの人に発見されたって訳だ。」
「あんまり覚えてないな。」
「そうか・・・にしてもお前、クラスの皆や彼女にまで心配させやがって!」
「へっ・・・彼女?親父・・・なんだそりゃ?」
「あなた・・・少し・・・」
「あ、ああそうだな・・・じゃ俺達は少し席を外してやる。はは、ありがたく思えよ。」
そうして親父はお袋を連れて部屋から出ていった。
そして後には制服姿の一人の・・・おい親父!彼女ってこいつかよ!?
「何だ、お前かよ。」
「そうよ。どうやら生き延びるのに運を使い切っちゃったみたいね。」
「なんだそりゃ?」
「言っとくけど、私はたまたま順番が当たっただけよ。」
「順番?」
「登山部の皆が一々全員押し掛けたんじゃ迷惑だろうってセンセが決めたの。」
「・・・あっそ、ご苦労さん。」
その女・・・俺のこんなザマを見て面白そうに見ているこの女。
そいつは俺と同じ登山部の女子部のキャプテンで一応クラスメートで・・・
「だから私はあんたの彼女じゃ無いってお父さんとお母さんに後で言っといてね。」
「・・・言われるまでもねえよ!」
いつもこんな調子のヤツだよ。
何が面白いのかいつもいつもこんな調子で俺を好き放題からかいやがって。
女じゃなかったらとっくの昔にぶん殴ってやってるぐらいだぜ。
それがよりにもよって彼女ぉ?
冗談じゃねえ!何考えてんだクソ親父!
「助かるわー、じゃお礼にこれ見せたげる。」
「何だ!?」
「ほーら、でかでか。」
「・・・?・・・うわっ!?」
おいおい、勘弁してくれよ。
俺はその新聞を見せられて正直逃げ出したくなったよ。
そこにはホントでかでかと「行方不明の高校生、救出される。」って大見出しがあってさ、
その真下に俺の名前がしっかり乗ってんだぜ。
正直もう泣きたくなってきたよ。
「もう有名人よ。登山部やめても遭難部ならすぐ作れるわよ。」
「何だと!」
「なーんだ。一気に元気になってんじゃない。じゃ皆に電話するわ。」
そう言うと、そいつは何だか楽しげな足取りで部屋を出ていっちまった。
おい!人が落ち込みかけた時になんでお前は更に引きずり降ろそうとするんだよ!
あーちくしょう!全部思い出して来た。
いつもいつも好き放題、しかもこんな時にまで皮肉たっぷりにからかいやがって!
アイツにゃ優しさってモンがねえのかよ!
馬鹿野郎!そんなんじゃ一生結婚出来ねえぞ!
そーだよ、どーせアイツなんかと結婚するなんてヤツはよっぽどの馬鹿だけだぜ。
そんな馬鹿は・・・
・・・えっ?