その時、空気は幾分の湿り気を帯びていた。
鈍色の雲に閉ざされた太陽が西に低く並ぶ山から残照を朧気に放っていた。
緑と言うにはやや重色の裾から空間混じりの小さな町が広がっていた。
一人の男性が歩いていた。
40代後半頃のやや草臥れたスーツに身を包んでいた。
その、この辺りでも未だ開発が進んでいないことを証明するかのような、雑多な建物らが
織りなす『町』と言う名の集落の隙間を縫うように設けられた、普通自動車がやっと一台
通れるかどうかと言った程度の道路の端を歩いていた。
その表情を何処か綻ばして歩いていた。
それはその年代から急速に増え出す『郷愁』と呼ばれる物の為だったのかも知れない。
事実、男性は時折、10代前半だった頃の『かつて』の視線で辺りを見ながら歩いていた。
だが、その表情が一瞬怪訝に変わった。
それは、男性の頬を微かに打った一滴の雫の故であった。
そして男性は手のひらを天にかざし、そして空を見上げて辺りに視線を送りながら一瞬の
躊躇を見せた後、今度は苦笑いの表情を作りながら一軒の軒へと移動した。
やがて、それに呼応するように大気の湿りは霧雨の帳となって辺りを覆い始めた・・・
そして・・・
Turn round Misty rain
「えっ!?」
その時僕は思わず声を上げてしまった。
「・・・どちら様ですか?」
そんな僕に向かってその子は怪訝そうな表情と共にその声を発した。
「えっ、えっと・・・ぼ、僕は・・・」
何故か上擦る声しか出ない僕をその子は睨むような視線で捉え続けていた。
「・・・何の用ですか?」
「い、いや・・・そ、その・・・」
その子は薄桃色の傘の下に見覚えのある・・・
かつて僕が通っていたここの中学の制服姿に身を包んでいた女の子だった。
・・・いや、僕は別にそういう趣味ではなかったんだが、
何せその制服姿にその顔立ち・・・それが余りにも僕の記憶そっくりだったものだから、
正直驚くやら何やらで情けないことに何を言って良いのか解らなくなってしまったんだ。
「・・・」
やがて・・・僕の視界に当然のように急にきびすを返して遠ざかるその子の姿が写った。
・・・まあ、無理もないだろう。
見たこともない40そこらの中年オヤジがいきなり家の前に居て、そいつが自分の身分を
名乗るどころか、自分のことを唐突に訪ねて来たんじゃ逃げ出すのも当たり前だ。
「・・・」
・・・やれやれ、雨はまだ降っているが、早めに退散した方が良さそうだ。
「何してんのよ?荷物で両手が塞がってんだから早く開けて。」
だが、その時路地影のすぐ近くから聞こえてきたその声の主・・・
僕と同程度の年齢の女性がその子を連れて姿を現した時、その場に立ち止まってしまった。
「えっ・・・」
その女性は最初僕を不思議そうな表情で見ていた。
・・・多分、僕も同じ様な表情だったろう。
「あれ・・・」
その女性は記憶の残照を手繰るような表情を見せていた。
・・・多分、僕も同じ様な表情だったろう。
「もしかして・・・中学校の時に同じクラスだった・・・」
そして笑顔と共にその言葉を口にしたとき・・・
僕も笑顔と共に軽く会釈をした。
そして・・・
「こ・・・こんにちは。」
屋内の応接間に案内された『お客様』となった僕にその子は真っ赤な顔を見せていた。
「こんにちは。さっきはびっくりさせて悪かったね。」
そして僕はその子にやっと年齢相応の対応が出来るようになっていた。
それは僕に安堵と、時の流れという現実を改めて感じさせるものでもあった。
「い、いえ・・・こっちこそ・・・じ、じゃあ、もうすぐ着替え終わると思いますから。」
「ああ。ありがとう。」
そうして僕は出されたお茶と共に着替え終わった彼女がくるまで過ごしていた・・・
「へえ、そうなの。結構忙しいのね。」
「まあ忙しいって言ってももうベテランだからね。
こうして出張で郷里に帰ってきた時に時間を作るぐらいの裁量は出来るよ。」
「ふーん、どうせ部下の人に全部任せてるだけじゃないの?・・・私の勤め先にもそんな
男の人が居るわ。」
「・・・まあ優秀な部下には出来るだけ仕事をさせるのが僕の方針ってとこかな。はは。」
それからはいわゆる・・・そう近況混じりの昔話だった。
それは変な言い方だが、ここへ来たかいがあると言っても差し支え無い楽しいものだった。
・・・しかし考えたら、子供時分の僕だったらこうして女性の家に上がってこんなに普通
に話すなんてことは中々出来なかったかも知れないな。
まあ、それはお互い今は共通の話題が在るのが大きいのかも知れないのではあろう。
そう・・・過去という名前の・・・
「ローンと受験とそして愚痴・・・まあその辺で後は想像にお任せするよ・・・ところで
君の方こそどうなんだい。」
「私?・・・私は2度結婚に失敗して今は一人よ。」
「・・・そうか・・・悪いこと聞いちゃったな。」
「別に今更どうでもいいわ。この辺の人は皆知ってるしね。」
「・・・」
「それにもう慣れちゃったしね。今更男の人で悩む気も更々無いしね。」
淡々とした会話が続いた。
テーブルの上には湯気の減った二人分のお茶と、二種類の吸い殻を納めた灰皿があった。
「ところで・・・どうして家の玄関に立ってたの?」
「あ、ああ・・・」
「家に用事って訳でも無さそうだし・・・通りすがるには一寸離れてるしね。」
そんなとき、ふとそういう・・・いや、ある種当然の話題が現れた。
さっきの子・・・あの娘さんとよく似た不思議そうな表情が僕に向けられた。
・・・やれやれ、どうやら白状の時が来たらしい。
そう思った僕は苦笑いの表情と共にその問に答えることにした。
「いや実はさ、中学ぐらいの時にこの辺良く歩いてたんだよ。」
「?・・・この辺って・・・何かあった?」
「・・・今と同じく何もなかったけど・・・気になる人間が一人居てね。」
「友達か・・・誰?私の知ってる人?」
「いや・・・友達になるのさえ勇気が無くてね。まあその時はひょっとしたら会えるかな
と思って歩いてたんだけどね。」
「・・・?」
「・・・そう言えばこんな天気の時もあったな・・・僕を見かけた時に玄関が開いて一声
でもかけてくれるかなって・・・勿論今日は違うけど、そんな馬鹿な期待を抱いてわざと
そこで雨宿りしてたりもしたな。はは。」
少しの沈黙がその場を支配した。
お互い、小さくお茶をすする音だけが小さく響くだけだった。
「・・・そうだったんだ。」
「・・・ああ。」
「だったら学校でも何処でもきちんと言ってくれても良かったのに。」
「・・・何か照れがあってね。それにそんなことをして冷たくあしらわれた挙げ句学校中
の噂になって囃されまくるんじゃ無いかって考えると、何か言い訳出来る理由が欲しいな
って思ったんだろうな。」
「・・・正しく子供ね。それじゃ女の子には嫌われるだけよ。」
「はは、確かにモテなかったな。ま、今よりずっと狭い世界に生きてたからね。」
何処か自嘲的に僕はそう言った。
それはそんな行動を取っていた愚かさへのことではなく、既に過去のこと・・・
遠く過ぎ去った古い言葉、古い思いの残照に対しての言葉だったような気がする。
もしもあの時・・・
それを思うのは容易い。
だが思うだけ以外に何ももたらさない。
ひょっとしたら・・・僕が急に『懐かしさ』を感じてここを久しぶりに歩いてみたのは、
そう言ったことを自分自身で改めて確認するためだったのかも知れない・・・
「・・・そろそろ時間だからこれで失礼させて頂くよ。」
僕はそう言って席を立った。
目に映る窓外の光景は既に夜色が強くなりつつあった。
「夕飯ぐらい食べて行く?ビールぐらいならあるわよ。」
「いや、そろそろ空港に向かわないと・・・部下との待ち合わせがあるんだ。」
「そう・・・」
そう言って彼女も立ち上がり、そして僕と玄関へ向かっていった。
「今日はありがとう。何だかすっきりしたよ。」
「そう、良かったらまた帰ってきた時にでも訪ねてきてね。」
「ああ、じゃあ。」
そして僕はその人と娘さんの見送りを受けてその家を後にした。
今からこの路地を抜けて駅まで歩けばタクシーを拾う時間は充分にある。
それにしても・・・家族か・・・
・・・
はは、見栄っ張りな所はやっぱり全然成長してなかったな。
あんなに正直に言ってくれたんだから、僕の方も正直に言えば良かったかな・・・
本当は未だに独身だって。
・・・
・・・いや・・・やはりこれでいい。
そう言ったところで、僕には僕の生活があるしあの人にもあの人の暮らしがある。
だからこれで良かったのかも知れない。
思い出は想い出のままに。
そう・・・それで・・・
「行っちゃったか・・・」
「・・・うん。」
「・・・あんたはどうするの?ご飯食べてく?」
「・・・」
「どうしたの?顔真っ赤よ・・・まあ無理も無いか。」
「・・・どうしよう。」
「あら?・・・帰り方は解っているんじゃ無かったかしら?」
「・・・意地悪。」
「・・・そうね。帰ったら時々家の周りをちょっとだけ注意して・・・特にこんな天気の
日はお菓子でも用意して、如何にも何気なくって感じで玄関を開けてみたらどうかしら。」
「・・・」
「それにしても・・・私自身ですらアレは幻覚だったって今まで思ってたんだけどな。」
「・・・」
「あの日、こんな天気の日、見たこともない路地を見つけてふと入り込んで・・・」
「・・・」
「そして戻ってきて気が付いたら・・・あの路地はもう何処にも・・・
でも・・・
「・・・?どうしたの?」
何処か申し訳なさそうな態度のまま玄関を開けた僕をその声が出迎えた。
「・・・いや、忘れ物しちゃってさ。」
僕は苦笑いと共にそう話しかけた。
・・・はは、全く、出るときにつけたカッコも何もあったもんじゃないな。
「忘れ物って・・・まさか・・・」
その僕の声と態度に全てを察したような声・・・
そう、段々と戦慄のトーンへと変貌する声がその表情と共に語られ始めた。
「・・・この前・・・私たちの結婚記念日の時もそうだったわね。」
「うっ!」
「・・・その上一人娘の誕生日にまでこの有様・・・」
「・・・す、すまん。買うには買ったんだ。ただそれを会社に・・・」
「今度の週末は・・・3人でディナーに行きましょうね。」
我が愛しの妻はそう言って冷徹な視線を僕に帰した。
小遣いの日の道のりは未だ遠く、僅かな蓄えは今度のゴルフに・・・
なんて言ったら冗談抜きで追い出されるなこりゃ。
うう、仕方がない。ゴルフはまた今度だ。
・・・それにしても・・・そう言えば最初もこんな日だったな・・・
霧雨の夕暮れ・・・あり得ない期待に胸を躍らせて雨宿りしていた中学時分・・・
あれは・・・そう、まるで僕が来ることを知っていたように・・・