マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや




マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや




マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや




マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの……






「チトセさん? チトセさんってば!」
 その声でようやく我に帰ったチトセは、手元の歌集から顔を上げ、心持ち動揺の色を交えて、スタジャンとパーカーを着込んでいるその声の主にこう返答する。
「あ、マコト君?」
 それを受けて、マコトは顔に『やっと気付いたか……』と書いて、しばし呆れ返っていた。なにしろ彼が声を出しはじめてから、彼女が気付くまで1分近くを要していたのである。
「まったく……今日は新年会で駅前に5時集合、って言ってたでしょ? 早く行かないと間に合わないよ。雪でいつもより時間もかかるし」
「そうね。ごめんごめん……」
 チトセは苦笑しつつマコトにそう応じると、手元の歌集をバッグに放り込み、椅子にかけていたピーコートを大慌てで羽織って、立ち上がる。
「じゃ、行きましょうか」
 彼女がバッグにしまい込んだ歌集。
 その名を、『空には本』と言う。
 それは、マコトの目にも自然と飛び込んで来た。彼が夏休みに読み潰した本のうちの一冊でもあったから、彼はその中身を当然知っている。もちろん1分間に渡って、彼女が眺め続けていた歌の存在も。
 その行為を、どう解釈すればいいのか。
 マコトには、それを結論づける事が出来なかった。
 あるいは……結論づける事から、逃げたのかも知れない。
 ともあれ、彼はいつもの様に罪の無い無邪気な笑みをチトセに向け、こう返答する。
「はいはい」
 それに、慈しむような笑顔を向けるチトセ。
 その顔が、現状におけるふたりの関係をそのまま表現していた。
 それだけはわかったから、マコトは心の中で呟く。
『まだまだ目一杯勉強しなきゃいけない。全力で走らなきゃいけない。チトセさんに追い付かなきゃいけない』
 こうして図書館を出た2人は、空を見上げてこう言い合う。
「少し、弱くなって来たかな、雪」
「ええ、これならもうじき止みそうね」
「じゃあ、明日には消えるね」
 マコトのその呟きに、チトセが本気で驚く。
「え!?」
「いや、だから、明日には消えるよ、15センチくらいの雪なら」
 マコトのその言葉を聞いて、チトセは驚きに柔らかさを加えながらこう呟く。
「そう。暖かいのね、こっちは」
「そうなんだ。北の方だと、もっと降るんだもんね」
「ええ。それに、これくらい降れば、春までは絶対溶けないもの」
「へえ……」
 マコトが、顔に仔犬のような純粋な好奇心を浮かべてそう呟き、チトセの顔を見つめる。
 そして。
 チトセは、驚きと柔らかさと、もう一つ、何とも形容のしがたい『何か』を表情に配合して、静かにこう言う。
「暖かいわ。本当に暖かいわ。ここは」


 昭和から平成に年号が変わった年。
 充実感と世の中の明るさが冬の寒さをも忘れさせてくれそうな日々の中に、彼らは確かに存在していた。



THE GAMBLI'N MAN
ACT4:"RUNNER"

             


「じゃあみんな! グラス持って〜!」
 幹事のマコトのその声を受けて、彼の一般教養クラスのメンバー20人ほどが、一様にビールが注がれたグラスを手にする。
 マコトの人当たりの良さ、チトセの面倒見の良さを慕った者に加えて、マヤの天然の『芸』やエイジの『あばれ芸』に引き寄せられた『芸人』たちが集まった、一筋縄ではいかない連中。それが彼らだった。
 最初は5人だった週に1度の『定例会』が、人付き合いの範囲が広がるに連れて自然と膨れ上がり、最終的にこれほどまでの規模になったのである。
 それがここまで継続した理由には、毎回必ず笑って済まされるレベルの『死ぬほど楽しい事件』が起きるというハプニング性が存在する事が挙げられる。
 それを自分自身も含めて全員が期待しているのをひしひしと感じながら、マコトはこう叫んだ。
「皆さん! あけましておめでとうございます! という訳で今日は無礼講!」
 そこに、シゲルが淡々と突っ込む。
「いつも無礼講だけどな」
 直後、マコトはシゲルの顔を指差し、ただでさえ上がっているテンションをさらに上げてこう叫ぶ。
「はいシゲル! それ粗相!」
 それを受けて、一同大合唱。
「粗相! 粗相! 粗相! 粗相!」
 さらにシゲルも、それを待ってましたと言わんばかりに中身が満タンのビール瓶を手に取って、テーブルの上に片足をかけて、それを飲み干しにかかる。
 当然、一同もテンションを早くも全開近くまで上げて、
「シゲル! シゲル! シゲル! シゲル!」
 の大合唱。
 そして、シゲルが全員を満足させるだけのハイペースでビールを飲み干し、空き瓶を高く掲げた瞬間、
「イエ〜!」
 という大歓声。
 そのままの勢いで、マコトは叫ぶ。
「乾杯!」
「かんぱ〜い!」
 そう言い合いながら、周囲とグラスをぶつけ合った直後。
 数名のバカたれがグラスをいきなり瓶に持ち替え、シゲルの真似をする。
 それだけならばまだいいが。
 加えてタバスコの瓶や醤油瓶を持ってそれを飲み干す奴までいる始末。
 ともあれ、もはやテンションは見事なまでの上限を指している。これで事件が起こらない方がおかしいと言うものであろう。それがはっきりわかったからこそ、マコトは全体の様子を再確認して、一番『いじり』甲斐のあるポイントを探す事になる。
 ところが。
 意外にも、その確認作業の途中でこんな声がかかる。
「マコトくん、マコトくん」
「チトセさん?」
 そう言いながら振り返ったマコトの目に飛び込んで来たのは、今までになく目をぎらつかせ、変に楽しそうな顔をしているチトセの姿だった。
「エイジくんが、面白いわよ!」
「え?」
 その呟きとともにマコトは、エイジの様子を観察し出す。
 エイジは異常とも思えるほどのハイピッチで、しかもいきなりバーボンを飲んでいた。そこまでは、いつも通りだ。
 違ったのは、まだフライト・ジャケットレプリカの皮ジャンを。
 いや、よりいつもの状況を正確に記述するなら『服を着ている』事。
 そして、完全に無言である事だった。
「……?」
「単純バカのあいつの事だから、あれは絶対何かあったわ。なにかを求め訴えている顔よ、あれは」
 それを真顔で言えば、まだ真実味があっただろう。しかし、この時のチトセの顔は完全な『おばさん』ヅラであった。それ故に、基本的に彼女のいう事を概ね信じる事にしているマコトですら、行動に躊躇が発生する事になる。
「別に、あいつの事だから、ほっとけば脱ぎ始めると思うけど」
「鈍感」
「は?」
 そのリアクションで、マコトが自分のいいたい事をまるで理解していないと気付いたチトセは作戦を変更する。
「いい? とにかく、今日はあいつをツブすの! そうすれば、絶対面白い事が起きるからね! わかった? マコトくん!」
「は、は〜い」
 ますます目のぎらつきを強めながらのチトセのその言葉にマコトは案の定圧倒され、チトセの言うがままに行動する羽目になる。
 そう。
 要するに、エイジが女絡みで何かをしでかしたという事を察知したチトセは、マコトに『それを聞き出せ』と命令しているのだ。
 その命令が、とりあえずマコトの行動に反映された事を確認して、チトセはますます絶好調になる。
『ふふふ……これで、今日のおもちゃはエイジくんで決まりね』
 と心の中で呟くと、その嫌な熱視線を彼らに集中させる事になる。


「エイジ〜! 飲んでるか〜?」
 いつもの馴れ馴れしい調子でそう叫ぶと、マコトはエイジの隣に座る。
 それを見て、シゲルも近寄って来る。
 その状況に対して、エイジは無愛想な声でこう応じる。
「見りゃわかンだろ」

 5秒経過。

「まあそう言うな! 行け行け! どんどん行け!」
「そうそう! 無礼講無礼講!」
 2人とも聞いちゃいねえ。
「あああ! ビールを混ぜるんじゃねえよ! マコト! シゲル!」
「そう固いコト言うなって! そんな事じゃ田舎のミヨちゃんに嫌われるぞ?」
 なお、『ミヨちゃん』と言うのはマコトが勝手に名付けたエイジの彼女の仮称である。
 エイジに彼女がいるらしいという事はそれとなく聞いてはいたが、エイジ本人が細かい事を教えてくれないので付いた呼び名だ。事あるごとにマコトやシゲルはその表現を持ち出してエイジをおちょくっていたので、マコトは、ほんの冗談のつもりでそう叫んだのであったが。
 エイジがそれで黙り込み、視線を逸らした。
 それを見て、マコトもシゲルもさすがに彼の身に何かが起きた事を察知した。
 そして、斜め前方のチトセと同じような『おばさん』ヅラになってしまう。
 その上で。
『これは何としてもあらいざらい吐かせるしかねえぞ、マコト!』
『了解! シゲル! エイジをツブすぜ!』

 とアイコンタクトを交わすと、エイジに対して『わんこビール』、つまり一口飲むとすぐにビールを注ぎ足すという攻撃を開始する事になる。


 1時間経過。
 既にエイジの目は完全に据わっている。
 顔色が変わらないのでちょっと見にはよくわからないのだが、彼の左右を固めるマコトとシゲルにははっきりとそれが見て取れた。
 一瞬意識を途切れさせ、下を向く時間が次第に増えて来たのだ。
 そろそろだ。
 そう判断したマコトは、こう口を開く。
「な、エイジ……ミヨちゃんと、何かあったのか?」
 直後。
 エイジが、突如キレた。
「うおおおおお〜ッ!」
 と叫ぶとパンツ一丁になり、テーブルの上に立ったのだ。
 その、『いつも通り』の芸の炸裂を見て、一同がエイジを煽る。
「イエ〜! エイジ〜!」
「待ってました〜!」
「やっぱこれが無いと盛り上がらねえもんな!」
 そして。
 いつもなら、ここでポージング大会を開始するはずのエイジが、突然直立不動の姿勢になってこう叫ぶ。
「みんな! 聞いてくれ!」
「お〜っ!」
「本日、私、衣笠エイジは、高校時代からの彼女にフられたであります!」

 5秒経過。

「イエ〜!」
 一同は、かなりヤケクソの色が入った声でそう叫んだ。
 さらに。
「じゃあ飲め!」
「吐くまで飲め!」
「ヤケ酒だ〜! イエ〜!」
 などという無責任な叫びに応じ、2リットルのピッチャーを手に取ると腰に手を当てたままそれを飲み干すエイジ。
 さらにそれを見て、タバスコ・粉チーズ・七味・生卵・レバ刺しなどが入ったピッチャーが次々と彼の足元に送り込まれ、幹事のマコトは大急ぎでピッチャーの追加を頼んでいる。
 そして、この状況を招いた元凶はと言うと。
『ふふふ……来たわ来たわ! いよいよこれからが本番よ! ふふふ……』
 と心の中で呟き、『邪悪なお姉さン』の本性を炸裂させ始める。
 その顔を見て、
「ち、ち〜ちゃんが壊れちゃってる……」
 と、マヤですら呟くほどの勢いで。
 いつもなら暴走ストッパーを務めるはずのチトセが壊れたこの飲み会。
 その場にいた人間は、これ以降起こった事について多くを語らなかった。ただ、わずかな証言によって、店中に『ピッチャー一気』が伝染した事と、エイジが全裸になった事だけは判明している。
 なお。
 これが原因で、その後5年に渡って彼らの大学の学生がこの店に出入り禁止になったのは言うまでもあるまい。


 かくして。
 文字通り居酒屋を『たたき出された』一同がそのまま恒例の噴水公園での2次会になだれ込むのは当然の成り行きと言えた。幸い、昨夜から降り続いた雪も止んでいる。
 本来ならカラオケが2次会のお約束なのだが、彼らの場合その必要が無いのだ。
 それは。
「シゲル! 次、『とんぼ』な!」
「おうよ!」
 ……という会話の通り、『人間ジュークボックス』シゲルの存在のためだ。
 黒のライダースジャケットにリーバイス505、プラスロンゲ。
 さらに、青空演奏仕様の、ベルトにぶら下げる小型アンプ。
 シゲルのその様子は、この時代どこにでもいた、よくある「音楽を演ってる」人間の風情を濃密に漂わせていた。もっとも、爆風スランプ、TMネットワーク、プリンセス・プリンセスと言ったところの流行歌は当然、70年代・60年代の曲まで何でもござれ、加えてミサトたち「ザ・グッドマン」の連中からはSKAを、さらにはマコトの父からはフォーク&ブルーズを取り込んだ、異様なまでのレパートリーの広さは既にこの時点で「どこにでもある」ものではありえない。
 その分彼らは酒代に多くを費やし、変なテンションをさらに長時間持続させる事が可能になっているのだ。その副作用として、この珍妙な『屋外歌声喫茶』集団がすっかりこの街の名物と化してしまったのだが、当の本人たちはまるで気にしていない。通りすがりの人まで加わったりする状況もあるくらいだから、むしろ感謝してほしいくらいだと公言する奴までいる。
 さらに。
 興が乗ると、ここにエイジのサックスも加わったりする。エイジもそれを踏まえた上で、必ずサックスを持って飲み会に参加するのだが、さすがに今日ばかりはそれは無理そうだった。
 エイジはサックスのケースにもたれかかったまま、微動だにしなくなっているのだ。
 もっとも、急性アル中になっていない事だけは確認されているし、それより何より、
「さあエイジくん? 詳しく話してくれないかしら。相談乗ってあげるわよ?」
 と、ますます『おばさん』度数を上昇させているチトセがきっちり彼をマークしていた事が理由であった。
 しかし、さすがに居酒屋での飲ませ過ぎがたたってか、リアクションは無い。
 どうやってエイジの意識を取り戻させようか。
 そう、チトセが頭を働かせ始めた頃。
 ちょうど、シゲルが伴奏し、マコトが歌う『とんぼ』がある一節に差し掛かる。
 それを耳にして、エイジが突如生き返った。
 いや、より正確に言うなら、『またキレた』。
「東京のバカヤロウがあ〜ッ!」
 と、ひと声吠えると、そのまま立ちくらみを起こしたような動きで噴水に落下したのだ。
「わあああ〜!」
「エイジ! しっかりしろエイジ!」
「それはシゲルの仕事だろ! 役割を間違えるなエイジ!」
 その台詞を聞いて、さすがにシゲルも抗議の声を送る。
「こら! オレの仕事がいつ噴水に落ちる事になった!」
 だが。
 マコトがその抗議をさらっと流してこう言う。
「マヤちゃん、ちゃんと仕事してよね〜」
 それに答えて、マヤもカーディガンの袖をまくりあげ、
「ごめんね〜! すっかり忘れてたわ、マコトくん! えいっ!」
 と叫んで、シゲルを突き飛ばそうとする事で応じる。
 しかしシゲルは素早く立ち上がると、すんでの所でそれを回避。
「ありゃ?」
「ふふふ、伊吹! 甘いぜ! オレはいつまでも同じ手を食うような間抜けじゃ……」
 その直後。
 噴水から身体を持ち上げたエイジが、シゲルの後ろ姿を見て、重大な事実誤認を引き起こしてしまう。
「レイコ〜っ!」
 と叫ぶなり背後からシゲルを抱きすくめたのだ。
 さらに言うなら。
 既に立ち上がることすら困難になっているエイジの泥酔ぶり。
 それでもなお他の追随を許さない無意味な膂力。
 それが合致したため……。
「だああああ〜っ!」
シゲルは噴水めがけてへそ投げバックドロップを食らう羽目になったのだった。
「よし!」
「よくやったエイジ!」
「これでこそシゲルくんよね〜!」
 そんな歓声を受けて、ご本人曰く。
「お前らな、世の中にはよォ、」
「やっていい事と」
「やって面白い事があるんでしょ?」
 無駄に爽やかな笑顔とともにタオルと着替えを差し出すマコトとマヤのその返答、さらにそれを見て相変わらずの邪悪フェイスのまま親指を突き立てるチトセ。
 それを前にしては、彼の、
「違ェよ!」
 という抗議もまったく無駄に終わったのは言うまでもあるまい。


 結局。
 エイジはあまりにもひどい状況だったため、そのままシゲルとマコトがアパートまで送り返す事になり、本日の2次会もそのままおひらき、という事に相成った。
 もっとも、それでは収まりのつかない人もいる訳で。
「こらエイジ! 先に帰るんだったらなんでフられたのか全部吐いてから行きなさい! それが渡世の義理ってもんでしょう? 私はあんたをそんな風に育てた覚えはないわよ! エイジ!」
「ち〜ちゃん、あの、だからその、別にち〜ちゃんがエイジくんを育てた訳じゃ……」
「マヤは黙ってて!」
「は〜い」
 ……以上の会話を背中で聞きながら、冷や汗交じりにシゲルは囁く。
「マコト。千代田がわめいてンの、無視していいのか?」
「……ボクは……何も見てないし、何も聞いてないよ……」
 エイジが今まで何度となくマコトに向かって言っていた言葉がある。
「お前は、『姉』の恐ろしさについて無知すぎる!」
 言うまでもなく、それはチトセに近づこうという意図を見せているマコトへの、エイジなりの最高級の忠告である。今まではマコトもそれを半ば笑い飛ばしてネタにする余裕もあったのだが、現実にチトセが豪快な壊れぶりを見せている今日の状況では、しみじみとそれを噛み締める以外に、彼の中でその言葉を処理する方法は存在しなかった。
 ともあれ。
 きっとこの後説教を食らうんだろうな、という諦念ともども、エイジのアパートに辿り着き、ドアを開ける一同。
 そこにあったのは、意外にも、散らかされて足の踏み場がない、という部屋では無かった。
「わ!」
「すっごい、新聞のスクラップ」
 そう。
 彼の部屋は、4畳半のほぼ全てが新聞記事のスクラップ・ブックと学術書、さらにはスクラップ・ブックと対を成すノートで埋め尽くされていたのだ。
「一体このノートは?」
「ううんと、(+2)、(−2)、(+1)……?」
 マヤが、そこに書き込まれた謎の数字を眺めて首をひねる。
 そして、それを受けてノートをひったくったマコトが、ある事に気付いた。
「あ、ほら。その下に、『感情の勝ち過ぎ、マスコミの文章ではない』って書いてある」
「なに?」
 今度はシゲルがそう呟きながらノートを眺め、そして内容をつぶさに確認する。
「あれだよ。数字のプラスマイナスは文章内の感情表現についての数値化だな」
「?」
「ああ、ほら、だからさ、記事になった事象について『肯定』をプラス、『否定』をマイナスとして数値化してあるみたいだな、どうも」
「つまり、『不偏不党』の意義についての調査、ってことかしら」
 チトセがようやく芸風をまともな方向に振って、そう呟いた。その言葉が、エイジという人間が間違いなく目標に向かって努力している人間である事をその場にいた全員に認識させる効果を産む。
 そして、同時に。
 チトセはもう一つの事実にも気付いてしまった。
「このバカ……遠距離やってる癖に、この勉強の方に夢中になって彼女をほったらかしにしたわね、間違いなく」
 その言葉には、本人が込めたかった以上に、実感という感情がこもってしまった。
 それ故に。誰も、何も言葉を発せられない。
 こういう状況において必ず口火を切るはずのマコトに対して、その言葉が一番鋭く突き刺さっていたのも原因だ。
 そして、そのまま気まずい沈黙は続く。
 その沈黙を切り裂いたのは。
「……レイコ……」
 という、エイジのうつろな声だった。
 それを聞いて、我に帰ったマコトがこう口を開く。
「あ、忘れてた忘れてた。このサックスを奥の方に仕舞わないと話にならな」
 その直後。
 サックスのケースから一枚の写真が滑り落ちる。
 その写真を拾い上げたマヤが、それに書き込まれた文字を、反射的に音読する。
「エイジくんへ。東京でも頑張ってね! レイコ」
 直後。
 エイジ以外の4人全員が1次会でのチトセと同じツラになって食い入るように写真を見つめる事になる。
 そして。
「ま、なんつ〜か、その」
「フられて当然よ。こんな綺麗な娘をほっといたら」
「誰がどこからどう見ても、美女と野獣だし」
「はっきり言って、エイジにはもったいなさすぎ」
 シゲルがしみじみとそう呟いたのに、全員がしみじみと頷く。
「こりゃ、確かにへコむわなあ……」
 シゲルが再度そう言ったのを合図に、エイジに毛布をかけてやり、4人は部屋を立ち去る。彼に何らかのフォローをしてやるにしても、それは今日の事ではない。彼らはそう考えたのだ。
 もっとも、エイジの招いたこの『破綻』には、彼ら4人にも少なからず思うところがあった。それゆえ、シマをファミレスに移して4人はもうしばし話を続ける事になる。
 シマがそこに決まった理由というのも、きわめて実利的なもので、マヤのレギュラーのバイト先がここだったから、という事に他ならない。
「おっけ〜! オーダーも、入れといたからね!」
 店の制服のエプロンを脱ぎながらそう告げると、マヤも再度3人に合流する。
 それを確認して、まずチトセが口火を切った。
「結局さ、両立の努力を放棄したのが悪いのよ」
 自分の現在の考えそのままを、憶することなく形にする事でマコトが応じる。
「でも、自分の力を付けるためなら多少はやむを得ないんじゃ」
「あのね、マコトくん。別に私はエイジくんにあの娘を今すぐ養え、って言ってるんじゃないのよ? そういうのを本末転倒って言うのよ」
「にしたって、自分が未熟なままって言うのは、我慢がいかないんだけどな」
 その言葉の行き先を、一応隠したつもりになって。そして、いくぶんへそを曲げた口調でマコトがそう吐き捨てる。
 それをたしなめようと、チトセが口を開きかけた直後。
 シゲルが、だしぬけにこう口走る。
「だったらよ、最初から何もしねえ方が親切だと思うけどな、オレは」
「あら? シゲルくんまで、マコトくんと同じ意見?」
「たぶん、ちょっと違う」
「?」
「オレよ、不器用だかんな」
 その短い自己分析は、よくも悪くも完全な正解であった。
 それが、全員にはっきり判ったから、一同はしばし黙り込むことになる。
 それを見た上で、シゲルはおんぼろレスポールを取り出して、アンプなしの間抜けな音で、爆風スランプの”RUNNER”を奏で出す。
 あえてその曲の中身を歌う事はせず、コード進行だけをなぞりながら、シゲルは言葉を続けた。
「音楽を演るのか。それとも、何か勉強で身を立てるのか。たぶん、それが決まって走り出したら、それしか考えられねえ。間違いなくな」
「わかってんなら、もうちょっとなんとかしなさいよ」
「チトセさん。今日に関しては、シゲルの方に理があると思うよ、ボクも」
「マコトくん!」
 こうして、話が堂々巡りに入りかけたその時。
 マヤが、何げなくこう呟いた。
「そんな、難しく考える事なのかな?」

 5秒経過。

「わたしね、シゲルくんの事が好きよ」

 10秒経過。

「もちろんマコトくんも好きだし、ち〜ちゃんも好きだし、エイジくんも好き。だからさ、みんなとずっと仲良くしてたいの」
「あ、ああ」
「な、なるほど」
「そ、そういうコトね、ははは……」
 話の流れをいちばん深く読んでいるようにも、まるっきり読んでないようにも見えるマヤの発言で沸き起こったさまざなな感情を、とりあえず安堵のオブラートに包み込んで、3人はそう生返事をする。
 そのリアクションを見たマヤは、主人の顔を不安げにのぞき込む仔犬の顔になって、こう言葉を続ける。
「それじゃ、いけないのかな」
 その言葉を聞いて。
 シゲルの内心に、あの時のやりとりが甦ってきた。

「大丈夫……オレは、絶対ここから、みんなのトコからいなくならねえよ」
「約束してくれる?」
「ああ、約束だ」
「絶対ね?」
「ああ、絶対だ」


「参りました」
 シゲルは軽く頭を下げるようなしぐさとともに、マヤの頭をくしゃくしゃになるほどなで回す。その上で、さらにこう続けた。
「正解を喋ってたのは、伊吹ひとりだよ。今日に関しては」
 後年、シゲル本人はもちろん、マコトもエイジも『重大な錯誤の開始地点』と呼称したのがまさにこの瞬間だった。
 人間とは、錯誤する動物であるのだ。
 当然この時点ではその事になどまるで思い至らないシゲルは、まともな方向に話をまとめにかかる。
「ところでよ、来年からどこ行くか決めた?」
 シゲルたちの大学の場合、一般教養は一年で終わる。
 そこでの成績を勘案して、それぞれに希望する学科、およびゼミナールへの申請用紙を提出するという運びになっているのだ。
「あ、ボクは政経にしたよ」
「私もよ」
「え? チトセさん、英文とかじゃなくて?」
「趣味と実益は別よ。政経なら公務員コースがあるもの」
「なるほど、な。じゃあオレも政経にしようかな」
「なんで?」
「ほれ、できればよ、この街から離れたくないからよ。最終的にどういうコースを辿るにしろ、この街で金を稼いでこの街で暮らすっていう前提を満たすなら公務員も選択肢の一つだしな」
「あんたの場合、公務員が勤まるタマじゃないわよ。良くも悪くも」
「あ、言ったな?」
 こうして、次第にいつもの調子を取り戻して来た3人。
 その様子を、くしゃくしゃになった髪形について頬を膨らませて無言の抗議をしながら見ているマヤに気付き、シゲルはこう話を振る。
「伊吹は、どうすんの?」
「あ、ううんとね、法律行こうかな、って思って」

 5秒経過。

「嘘っ!?」
「ぶ〜。それって、どういう意味よ」
 どういう意味もこういう意味も。
 一同はそう顔に書いて、固まっていた。
 法律学科に行くとなれば、成績は全優が最低条件である。ちなみにほかの3人の志望する政経学科では今年度必修の全17科目中12個、エイジの行くと思われる新聞学科では14〜15個前後が最低ラインと言われている。
 一応、彼らもそれを踏まえてきっちり優を取りに行く体制を作って勉強はしていたのだが、いくつかの科目については正直音を上げているというのが現状だったから、マヤが本当に法律学科に行けるのかが、本気で心配だったのである。
「大丈夫よぉ。わたしね、日本史とか、暗記物には強いんだから」
「じゃあマヤちゃん、山川の日本史、122P、何が書いてあったか覚えてる?」
「『ところで、この守護大名の両国支配の権限は、基本的には幕府から与えられたものであり、また、当時国人と呼ばれた地方武士にはなお自立の気風が強く、守護大名が彼らを家臣化していくのには多くの困難があった。守護大名の力が弱い地域では、しばしば国人たちが……』」
「も、もういいよ、マヤちゃん」
「どう?」
 そう言って得意げに尻尾を振り回すマヤに、心底関心した声でシゲルとチトセが応じる。
「大した才能だよな……」
「ほんと、意外だったわ」
「えへへ……実はさ、受験勉強も3年の冬休み終わってから先生に怒られて、慌てて始めたくらいだったから。自分でも、よく受かったもんだって関心したもの」
 一同、再び絶句。
「それってさ、あと一年勉強すれば」
「もっと上に行けたんじゃ」
「そうかもしれないけど」
「?」
「あんまりにもそこまでがいいかげんだったもんだから、親にまるっきり信用がなくてさ〜、わたし」
 そう言いながら舌を出し、マヤはさらに言葉を続ける。
「落ちたら就職、って言われてたから、もう本当に嬉しかったんだ」
 偏差値ベースで言えば、マヤが一番の秀才であるという意外な事実。
 それは、少々気持ちが緩みかけていた一同の気分を引き締める効果を産んだ。
 マコトとチトセは、顔に真剣さを存分に乗せてこう問いかける。
「マヤちゃん、あのさ、法律って事は、一日12時間とか勉強する訳でしょ?」
「しかもうちの法律学科、法職過程でも年数人通るかどうかじゃない」
「あはははは! まさか、司法試験までやろうって気はないわよ〜。集中力ないし、そこまで続かないと思うから」
「?」
「いやね、なんかほら、聞いた話だと、宅建なら一年くらい勉強すれば取れるっていうし。何か手に職があった方が、いい就職が出来るでしょ? とりあえず、それを目標にしようかな、って思ってるの」
 おそらく、彼女なら、本当に1年で宅建を取るだろう。
 一同はそう直感した。
「そうなると、最終的な就職は不動産?」
「う〜ん、やって見ないとわかんないと思う。今の不動産屋って、いい加減な仕事をしてるっていうイメージもあるし」
「やって見ないと判らねえよな、結局は」
 シゲルのその一言が、その場にいた全員に、深く捉えられる事となった。
 それぞれの希望。それぞれの目標。それぞれのなすべきこと。
 それに向かって、とりあえず走ってみないことにはどうにもならないのだ。
 その決意が、4人全員の眼に確かに宿っていた。
 それを、お互いに読み取って、4人は改めて懸案事項の討議に入る。
「ま、それはそれとして、だ。エイジ、どうするよ?」
「そうよね、グレるとしたら、あいつよね」
「あの様子だと、落ち込みもだいぶ根が深そうだしね」
 そのマコトの言葉を合図に黙り込む3人をよそに。
「あー! こっちこっち! プロレスラーはこっちだってば!」
 と意味不明の絶叫を上げてウエイトレスに指示を送るマヤ。
「プロレスラー!?」
 と絶叫してつっこみ体制を整える3人。
 そこに、マヤはさらっとこう返答。
「うん、プロレスラー」
「一体あんた何頼んだのよ!」
「ほら、これこれ」

 5秒経過。

「ただの抹茶アイスじゃねえか!」
「違うわよ、プロレスラーよ」
「ねエさン全然わけわかんないわよ!」
 混乱のあまり、今までとはまた違うベクトルでキャラを崩壊させ始めるチトセ。
 またしてもストッパー不在の危機が到来したのを悟り、冷や汗を流すマコト。
 さらに。
「え、エイジを呼べエイジを! 保護者にちゃんと面倒見てもらえ!」
「エイジはくたばってるだろ!」
「なあんてこったあ!」
 状況把握能力すら麻痺し始めているシゲル。
 それを見てもなお、平然とマヤは続ける。
「だから、これ、『ジェラート抹茶』の事よ、プロレスラーって」

 5秒経過。

「……は?」
「ほら、メヒコ産まれの謎の覆面レスラーって感じの名前でしょ? だから、通称『プロレスラー』」

 また5秒経過。

「あんたね」
「その呼び名を」
「この店に定着させたの……」
 ついにこの天然娘は他人様にまで迷惑をかけ始めたか。
 そう顔に書いて、胃の辺りに反射的に手をやるチトセ・シゲル・マコトの3人。
 答えて、マヤ曰く。
「あはは、そんな誉めないでよ!」
「「「誉めてなえわよ!」」」
 3人同時の発言のため文法的に破綻し、意味だけが通る形になったそのつっこみを合図にもりもりと脱力する3人をよそに、まったく状況を理解していないであろうマヤがさらに元気になって発言継続。
「でさ、エイジくんの事についてなんだけど……」
 そこから先の発言を、3人はあっさりと受け入れる事になる。
 エイジにとって本当に役立つかどうかはともかく、面白そうであった事だけは間違いなかったからであり、また、そういう一見バカバカしい物の中にこそ自分たちらしさが潜んでいるという考えが根底にあったのもまた一面の事実であった。


 翌日。
 英語があったので、シゲルたちのクラスの連中は当然ながらほぼ全員登校する事になる。実はそれゆえに、マヤの計画に対してGOサインが出た訳なのだ。
 英語の講義が終了した直後、マヤは相変わらず周囲にどんよりとした空気を漂わせてヘコんでいるエイジに向かって全力ダッシュし、尻尾を思い切り振り回しながらこう叫ぶ。
「エイジく〜ん!」
「……」
「ね、この後授業ないんだよね」
 その言葉に、無言で、面倒くさそうに頷く事で応じるエイジ。
「あのさ、新宿にね、面白いとこがあるんだって! みんな行くって言ってるから、エイジ君も来ない?」
 その言葉にリアクションを示さないエイジ。
 「散歩」と顔に書いてエイジの前に佇むマヤ。
 そのせめぎあいの勝者は。
「じゃ、行くか」
「わ〜い!」
 こうしてマヤの作戦は、この時点でまず半分成功を収める事になる。


 こうして、5人が雁首を揃えて向かった「新宿の面白いところ」とは。
「占い?」
「うん」

 5秒経過。

「いや、あんまりお前がヘコんでるもんだからよ」
「マヤが提案したのよ」
「ここって、よく当たるって評判のとこなのよね!」
 マヤの自慢げな言葉を受けて、顔に縦線を入れながらエイジが呟く。
「まさか」
 その言葉に、マコトとシゲルが応じる。
「そ」
「お前に次の出会いがいつ来るか、占ってもらおうと思ってな」
 しかし、その時の彼らの表情は明らかに唇の端がひきつり、必死に笑いをこらえているものであった。
 それを見て取り、エイジはさらに苦渋の色を表情に濃くしながら吐き捨てる。
「お前ら。おれをダシにして遊ぶ気まんまんだな?」
「いえいえいえ滅相もございませんわエイジくん」
 いやに無表情な早口で、視線をあからさまに逸らしながらチトセが呟く。
 もちろん視線を逸らした理由が、彼女の唇の端にもかみ殺しそこねている笑いがこぼれているからである事は言うまでもあるまい。
「さ! そういう訳で行くわよ! エイジくん!」
 マヤがそう叫んでエイジの腕を引っ張ったのを合図に、5人は占い屋の中に入っていく。
 怪しげな水晶。不気味な黒マント。タロットカード。
 いかにも、なアイテムを目の前に並べた占い師の前に、諦めの境地に達したエイジが座ったのを見届けて、まずマヤがこう口走る。
「この人の仕事運から、見てもらえますか?」
 それに無言で頷き、水晶に手をかざす占い師。
 結果。
「今、あなたは全身全霊を傾けている仕事か、勉強がありますね」
「はい」
「しかし、つまづきかけて、迷いが出ていますね?」
「……」
 エイジが無言になったのを見て、占い師は結論をはっきりと告げた。
「大丈夫です。努力すれば必ず報われます。辛くても今の姿勢を崩さないようにしてください」
「はあ」
 その生返事の直後。
 マコトとシゲルが彼の肩に手をやり、親指を立てる。
 マヤが満面の笑みを浮かべ、チトセはやれやれ、と顔に書いて佇んでいる。
 それを見て、エイジは考えた。
 これは、彼らが本気で自分の事を案じて仕掛けてくれた事なのだと。
 それで、とりあえず感謝の言葉を口にしようかと思った直後。
 4人の態度が、突如豹変する。
「それはそれとして!」
「こいつの恋愛運、占ってやってください!」
「是非とも、今すぐ!」
「わたしたちの目の前でっ!」
 と、全員がやたらめったら目をぎらつかせて叫んだのだ。
「おごってやったんだからネタをきっちり提供しろよ!」
 と顔に書いて。
 それを見て、『謀ったなシャア!』と顔に書き込むエイジ。
 そして、占い師の返答は。































「真っ暗です」

































 エイジ以外、全員悶絶大爆笑。
 もはや立っていることすら困難になっている一同に向け、占い師は一応フォローを送る。
「え〜、ですから、その、ずっと悪い、どいう訳でも無いんですが…そうですね、少なくともあと10年は女難に見舞われ続けるでしょう」
「それを過ぎれば、良くなンのか?」
 ほとんとやけくそでエイジがそう吐き捨てたのに、占い師の返答はと言うと。
「あの、その、10年くらい後に、女難を和らげてくれる人物が現れる」
「はあ」
「……かもしれません」
 その一言は、もはや呼吸する事すら困難になっている4人への駄目押しとなった。


 かくして占い屋を後にした一同。
 エイジ以外は一様に満足げな表情を浮かべている。
「とりあえず、一生懸命勉強すればいいって判っただけ、めっけもんだよな」
「そうそう」
「ほ、本当ね……プッ……ククク……」
 チトセが必死で笑いをこらえる。
 そして、マヤが思わずあの一言を繰り返す。
「真っ暗です」
 再び、4人とも大爆笑。
 それを見て、エイジは逆襲に出ようと決意した。
 このまま自分だけが恥をかかされるのは不公平だ、と。
 彼はだしぬけに公衆電話に向かって駆け出し、ある所に電話をかける。
「おやっさんスか? エイジです」
 そのやりとりから、電話先がマコトの家である事が全員に理解された。
 実はエイジに占いをおごった時点で二次会の予算が尽きたので、最初から5人でここに押しかけるのは確定していたのだが。
「……ええ、はい、ありがとうございます」 
 というエイジのリアクションが示す通り、彼にだけはそれが知らされていない。
 そこまでは、4人の想像した通りだった。
 だが、ここからエイジが一気に逆襲に転じる。
「で、すいませんけど、TVのチャンネルを8時から4に固定して欲しいンすよ」
「は?」
「え?」
 要領の掴めていない4人をよそに、さらにエイジの交渉は続く。
「ええ、それです。ヘビメタ大運動会です」
 直後。
何ィ〜ッ!?
正気かエイジ〜ッ!?

 と、シゲルとマコトが魂の叫びを上げる。
 そして。
 シゲルの肩をマヤが。マコトの肩をチトセが掴んで、またしても目をやたらめったらぎらつかせながらこう口を開く。
「シゲルく〜ん!」
「楽しそうね、ヘビメタ大運動会、って。 ん?」
 やばい。太平洋だ。
 そう顔に書いて固まるシゲルとマコトにあてつけるかのように、エイジは淡々と続ける。
「はい、是非、録画も一緒にしてください、もちろん標準で。ええ」
 それで電話を切ったエイジは、振り返ってマコトとシゲルに告げる。
「死なばもとろも。お前らにも恥をかいてもらうかんな!」
「ちょ、ちょっ…」
「お、落ち着け、な、エイジ」
 だが、マコトとシゲルのその抗議は、
「そんなやって面白そうなこと」
「やるしかないわよね〜!」
 という、やな眼光をたたえたチトセとマヤの叫びにあえなく圧殺され、彼らは『ヘビメタ大運動会』を見るために日向鉄工所に向かう事になる。


 で。
「さ〜あ! エイちゃん、一体どんなネタかましたのか見せてもらうぜ!」
「本当に楽しみね〜!」
 という、例によってやたらめったらテンションの高い日向父母が気合いを入れる中、まだ最後の抵抗を見せるシゲル&マコト。
「おやっさん、カンベンして下さいよ、マジで……」
「黙れシゲ坊! 人様ンとこの飯たかっといてぐだぐだ抜かすな!」
「じゃあボクは抗議してもいいって事だよね、父さん?」
「マコト。かあさん、あなたをそんな子に育てた覚えはありませんよ?」
「じゃあ、どう育てたんだよ!」
どこに出しても恥ずかしい子に
逆だろ、普通!

「細かい事を気にしないの!」
 案の定巧みに丸め込まれようとしているところにもってきて、さらにエイジが駄目押し。
「おばちゃん、安心してよ。マコトもシゲルも立派にどこに出しても恥ずかしいネタをやってるからさ」
「本当!?」
「じゃあ、ますますもって楽しみだなおい!」
 方針決定。
 かくして、完全に開き直りの境地に至ったエイジ・シゲル・マコトの3人も見守る中、いよいよ番組が始まってしまう。


「さあ、いよいよ始まってしまいます。ヘビメタ大運動会。果たして参加者の何人が終わるまで持つのか、いろんな意味で楽しみですね!」


「いやまったく」
「なんでこう音楽やってる人って、顔色悪いのかしらね」
「ここに希有な例外がいるわよ」
 チトセがそう呟いてエイジを指差した直後。
 画面に、あからさまに怪しい3人組が大写しになる。


「え〜と、その、是非ともお伺いしたいのですが」
「あん?」
「あなたたち、ヘビメタですか?」
 司会を勤めているタレントのそのいじりに、上半身裸のマッチョがポージングをキメながらこう応じる。
「当然です」
「あの、そもそもマッチョの時点で」
ヘビメタです
「しかもそのアフロは」
ヘビメタです
「しかもなんで上半身にネクタイだけ」
ヘビメタ魂です


「だはははは!」
「エイちゃん最高よ〜!」
 日向父母がそう叫ぶ。
「けひゃ、けひゃ、けひゃ……」
 マヤが笑い過ぎで呼吸すら厳しい様子を見せながら画面を指差し、悶絶する。
 チトセに至っては床に突っ伏し、座布団に顔を押しつけて笑い声を必死にかみ殺しながら背中を何度も痙攣させている。


「ええと、その、それはそれとして」
 司会者はエイジを相手にする事に本能的危険を感じ、インタビューの相手をマコトに変更。
「ええと、今の人がサックスで、こっちの人がギターで、あなたはどんな楽器を?」
「カスタネットです」
「……は?」
「カスタネットです」
「あの、ヘビメタですよね?」
「ヘビメタです」
「一体どういう曲を」
「『昼飯90円ブルーズ』」
 マコト(アフロ)がそう口走った瞬間、後ろにいたシゲル(アフロ)の顔が明らかにひきつった。


「本当に、あの瞬間はどうしようかと思ったぜ、マジで」
「でも何とかなったじゃん、結果的に」
「相変わらず楽観的なやっちゃな、お前も」
「そう?」
 マコトが真顔でそう応じたのに、シゲルとエイジがしみじみ口を揃える。
「世間一般じゃ、あれを『なんとかなった』って言わねえンだよ……」


「それでは『英国紳士隊』の皆さんで『昼飯90円ブルーズ』、お願いします!」
 その言葉を受けて、シゲルが半ば途方に暮れながらブルーズ調の前奏を奏でる。
 それが適当に流れた辺りで、マコトが出し抜けに叫ぶ。
「今日の昼飯90円〜。白いご飯に冷奴〜」
 直後、でたらめにカスタネットを乱打すると、エイジにバトンタッチ。
「醤油とソース、間違えた!」
 エイジはそのシャウトとともに、8小節のアドリブソロを演ってシゲルに返す。
「……洋食?」
 そのまま、顔に『恥をかかせおって』と書いてやけくそ気味のギターを奏でるシゲル。それをむりやり受け継いで、マコトはさらに続ける。
「鰹節乗ってる〜、まるで関西風〜」
 もう耐え切れず、エイジもシゲルもそこで演奏を放棄。
 それを受けて、マコトは呟いた。
「ちくわ定食が良かった」


 再起不能。
 当事者3人を除く人間のその時ありさまを簡潔に表すとすれば、それがもっともふさわしい言葉だっただろう。
 なお。
 この放送の直後から向こう3カ月に渡って、シゲル・マコト・エイジの3人が『英国紳士』と呼ばれ続けたのも、もはや説明する必要すらあるまい。


 まあ、そんなこんながあって。
 自棄になりかけたエイジも無事立ち直り、学年末試験で優15個を奪取して新聞学科への進級を確定させた。マヤもきっちり全優で法律学科行きを決め、シゲルたち3人もボーダーラインを悠々と越える成績を確保して、5人全員が志望する学科への進級を無事になしとげた。全員が自分なりの目標に向けてのスタートラインに立つ事になったのだ。
 もっとも。
 エイジ一人だけが、まだ安堵感を表に出していなかった。
 ゼミ試験である。
 他の学科は2年下期からゼミへの入室試験が始まるのだが、新聞学科に関してだけは2年のスタートと同時にゼミに所属しての少人数教育体制を取る事になっていたからだ。
 それを踏まえた上で、例によって英国紳士らしく90円定食を口に運びながらシゲルが問い掛けた。
「どこのゼミ行くんだ?」
「碇ゼミ」

 5秒経過。

「正気か!?」
「ああ」
「お前、あの「鬼の碇」んとこでやる気かよ」
 「鬼の碇」。
 エイジが指導教官として選ぼうとしている人物の通り名である。受け持ちは表現学、日本史(近現代政治史)、マス・コミュニケーション論。しかし、毎週の出席確認はもちろん、ノートの丸写し程度の答案には情け容赦なく『不可』をつける厳しさから、よほど履修情報の収集を怠った学生以外は履修登録を行なわない事で有名である。
 それを踏まえたうえで、エイジは言う。
「いや、でもよ」
「?」
「言ってる事は正当だぜ。一年間講義を聞いた限りではな」
「取ってたのか? あいつの日本史」
「おお、ちゃんと優もくれたしな」
 こいつも、やっぱりただ者じゃねえ。
 そう顔に書いて目を剥くシゲルに、エイジはさらに言う。
「それによ」
「?」
「最後の授業でこう言ったんだよ」


『この中で新聞学科に進もうという者。その中でも本気でジャーナリストになりたいと思う者は、試験結果が出しだい、私の研究室まで来なさい』


「ここまで挑発されたら、やるしかねえじゃねえか」
「いい度胸してるよな、相変わらず」
「それによ」
「?」
「ゼミを持つのが今年から、っていうのがますます気に入ってよ。変なしきたりもねえだろうし」
「なるほどな」
 その会話を聞いて、ようやく食事を確保して戻って来たマコトとチトセがこう論評する。
「ま、お前の場合」
「そういうのがあったら絶対ぶっ壊してクビになるタイプよね」
「何故判る?」
 何を今更。
 そう言い掛けたシゲルとマコトを制して、一段深いところまで洞察したチトセがこう切り返す。
「あんた、前科持ちね」
「おう。高校入り立ての頃よ、ラグビーやってたんだけどよ」
 エイジの無駄な筋肉の理由がようやく判った、という変な安心感と同時に、ごっつい嫌な予感も漂い始めるという微妙な空気。
 それを、エイジ本人が綺麗に切り開く。
入部して一週間目に全員にパワーボムを掛けてクビんなった

 5秒経過。

「ああ、そうザンスか……」
 もはやそう答えるのがいっぱいいっぱい、といった調子で、シゲルはそう呟いた。
 いっぽう、チトセはしみじみと頷きつつ、こう呟く。
「一年に全滅させられるような部なら、辞めて正解ね」
 その言葉で、背筋に嫌な汗がつたうのを覚えたマコトが、ひきつった笑いを浮かべて立ち尽くす。
 それをよそに、エイジは、
「おっと、ぼちぼち時間だわ。行ってくるわ、碇の研究室によ」
 と言い残し、その場を立ち去った。


 研究室棟の最上階。
 そこのいちばん東側の一室が、碇助教授の研究室だった。
 名札でそれを確認した上で、エイジはドアをノックする。
「はい」
 その返答があったのを確認した上で、エイジはこういう表現で用件を提示する。
「本物のジャーナリストになりたくて、参りました。1回生の衣笠と言います」
「お入りなさい」
 その返答を受けて、エイジは一段と表情を引き締め、そして、
「失礼します」
 と呟いて、研究室の中に葦を踏み入れた。
 広さはせいぜい6畳前後だが、採光窓のある南側を除いて壁はすべて本棚に覆われ、そこに整然と専門書が並んでいる。
 さらにエイジの目の前には、せいぜい2人が向かい合って座るのがやっとの、ごく小さな応接テーブルがある。
 そして、その向こうのデスクに。
 内面の知性を、講義中以上の冷徹さで包み込んで。
 ほんのわずかな香水の匂いを漂わせて。
 碇ユイ助教授が、いた。
「衣笠くん、最初に行っておきます」
「はい」
「本物のジャーナリスト、というのはそう簡単になれる物ではありません。それになる、という事は、常に誰かに対して喧嘩を売りながら生きる、という事です」
「……」
「そして、そういう喧嘩屋を世に出すからには、私の責任として、あなたの時間のほとんどを私が拘束します。私の下で徹底的に勉強してもらいます」
「……」
「その覚悟があるなら、その椅子に座りなさい。無いのなら、今すぐ帰りなさい」
 エイジは、ユイのその宣告に対して。
 躊躇う事なく、目の前の椅子に座る事で応じた。
 それを確認して、ユイはようやく表情を緩め、そしてこう告げる。
「ようこそ衣笠くん。あなたを碇ゼミの第1期生として迎えます」
 その微笑に、エイジもひきつった笑みで何とか応じた。
 そして、反射的にこう呟く。
「ところで碇先生、」
 そこまでエイジが言ったところで、ユイはチトセと比較しても優に3倍は不穏な笑みを浮かべてこう言う。
「あ、衣笠くん。他人行儀なのは嫌いよ、わたし」
「はあ」
「ユイ先生と呼びなさい」
「はあ。それではユイ先生」
「はい?」
「他のゼミ生は?」
「いないわ」

 5秒経過。

「は?」
「何人か来たんだけど、あの台詞を聞いて座ったのは衣笠くん一人だけ。ファッションでマスコミやりたいとでも思ってたみたいね。まったく、情け無くて涙出てくるわホント」
「はあ、そうですか」
「ま、そのぶん徹底的に鍛えてあげるから、安心なさい、衣笠くん」
「は、ははは……」
 この瞬間こそが、彼が生涯の師と仰ぐ人物との、師弟関係の始まりであり。
 同時に彼の『女難』が本格的に始まった瞬間でもあった。


 一方、まだ学食にいる3人はというと。
「さて、無事進級も決まったし」
「どっか遊びに行く?」
 チトセとマコトがそう口火を切ったのに、シゲルは両手を上に挙げながらこう即答。
「貧乏金無し。お前らは、行ってこいよ」
「あら、シゲルくんも駄目なの」
「『も』?」
「うん、マヤちゃんにも声かけたんだけど」
「あの娘、4月から法律専門学校の宅建コースも受講するんですって。その準備で忙しいって」
「エイジも状況としては似たようなもんだろうし、今回は中止にしようかなって思うんだけど」
「そっか。ま、しゃあねえな」
 とは言ったものの、シゲルは内心チトセとマコトの鈍重な前進ぶりの方が気になった。2人だけでもいいからどっか行けよ、と言いたいのはやまやまだったのだが、ここでそれを言っても効果には疑問符を付けざるを得ない。彼は、そう考えた。
 その思考の正しさを裏付けるかのように、その直後チトセが口を開く。
「だとしたらさ、マコトくん」
「はいはい?」
「ちょっと休み中に手伝って欲しいものがあるの」
「また翻訳?」
「ええ、今度は300ページの中編小説の下訳」
「OK!」
 マコトは自信まんまんに、そう返答した。
 それを見て、チトセが笑いかける。
「頼もしいわね。ありがと」
「なにせ今までアタマ使ってなかったからね。やればやっただけアタマに入るよ」
 マコトはそういう表現で、大学生活一年目を総決算して見せた。
 夏休みにチトセの手伝いをした辺りから、彼は英語に対して明確な指向性を見せて徹底した勉強体制を敷いていたのだ。事実語学はドイツ語も含めてすべて優でクリアし、ついでとばかりに英検2級も取得していた。
 当然、チトセもそれを知っている訳である。
「じゃ、さっそく午後からでもかかる?」
「そうしましょうか」
 そう言い合うマコトとチトセの姿を見て、シゲルは焦った。
 いや、より正確に言うなら、4人がそれぞれに未来に向けて大きく足を踏み出しているという事実に焦った。
「オレも、オレに出来ることをビッとやらねえと、どんどん置いていかれるな……」
 それが、その時の彼の心に浮かんだ感慨だった。


 そして、新学期の開始を翌日に控えた4月某日。
 高円寺のライブハウス『デトロイト・ポーカー』。
「ロンゲく〜ん、今日もあんがとね!」
 もう半年もステージを一緒に演っているのに、相変わらずその呼び名でシゲルを呼ぶミサト。その対応を修正するのが不可能である事は最初の3カ月で嫌という程思い知らされたため、とりあえずその言葉はさらっと流し、シゲルは用件を切り出す。
「なあ、葛城さん」
「なあに?」
「この辺りで、ブルーズが演れそうな店って知らねえ?」
「は?」
「いや、とりあえず、オレもあんたらみたく、自分なりの音っていうのを作っていく時期だと思ってよ」
 その質問に対して、ミサトは珍しく真顔でこう返す。
「ここでいいじゃない」
「はあ、そうだったんか」
 シゲルも真顔でそう返した。
 のだが。
 この直後、ミサトが悪い意味でいつもの調子に戻ってこう言う。
「『英国紳士隊』だったらバカ受けよ! ワタシが保証するわ!」
「違ェよ!」
「あらん? 違ったの? タミさんとメガネ君とで日本一のコミックバンドを目指すのかと思ったんだけど。それなら、ワタシ達もチケットバンバン捌く自信があるし」
 ミサトがいやに楽しそうにそう叫んだのを受けて、眩暈を起こしたシゲルは片ひざをついてしゃがみ込み、額に掌を当ててうなだれる。
「ロンゲ君、そんなに感動しなくてもいいじゃない」
「父ちゃん情けなくて涙出て来てるンだよ!」
「なに? それ、新曲のタイトル?」
 嫌な期待感まんまんのミサトの対応に内心キレそうになりながらも、なんとかそれを押さえ付けながら、シゲルは生真面目な口調でこう応じる。
「……だからよ、ピンで、真面目にブルーズ演りてぇんだ」
「あらまあ」
「知り合いによ、新宿フォークゲリラの頃バリバリに演ってたオッサンがいてよ。そのオッサンが、フォークっていうよりブルーズ志向の人でよ」
「はあ」
「で、また、このオッサンの唄がすげぇんだわ」
 その時のシゲルの目の色を見てミサトは彼の音楽的嗜好を瞬時に読み取り、こう口を開く。
「あんた、ボブ・ディランとかボス(ブルース・スプリングスティーン)とか好きでしょ?」
「ま、な」
「それだったら、平日の夜かしらね。当面のメインターゲットは、30、40のオヤジ相手って事よね。本当にそれでいいの?」
 そのミサトの状況判断に、シゲルは無言で頷いて応じる。
 当時のバンドブームのご時勢では、生ギターでのフォークやブルーズというジャンルに対する評価はそれがきわめて正当なものだったのだ。
 もし、プロで演るとしても、そのジャンルですぐに食えるようになるのは不可能だろう。しかし、シゲルがこの時考えたのは、もっと地に足のついた物だった。
 彼は、ミサトに向けて自分の考えをこう説明する。
「おお。それで、自分の芯になる部分を作りたいんだよ。それをきっちりさせない事にゃあ、流行に乗った歌っていうのも出来ないだろうしよ」
「にゃるほどね」
「……ま、とりあえず交渉して見るわ」
「待った、ロンゲ君」
「?」
「どうせ交渉すんのなら、あいつに任せた方がいいわよ」
 そう呟いて、ミサトは彼女らのバンマスの名前を大声で叫ぶ。
「加持ぃ〜!」
「呼んだかい? マイハニ〜」
「誰がハニ〜だ!」
「相変わらずつれないな、葛城」
「当たり前よこのスットコドッコイ!」
 とは言ったものの、実のところミサトも加持の実務能力には舌を巻いているのだ。
 店との交渉、チケットのさばき、打ち上げ会場と予算の押さえ。そういった雑務を一手に引き受けバンドの帳簿も付けている。しかも驚いたことに黒字だ。
 もっとも、ギャラは払わず打ち上げの会費としてプールしているがための黒字ではあるのだが、正直彼らにとってはそれでも十分だった。何せシゲルが加入して彼らの音に『背骨』を通し、客が付き始めるまではどう数字をやりくりしても赤字だったのだから。
 そのような事情を踏まえたうえで、ミサトは改めて口を開く。
「ロンゲくんがさ、ピンで演りたいんだって。ステージの空きを確認して交渉してくんないかしら?」
「おお、まかせとけ」


 10分経過。


「お待たせ」
「どう? 上手く行った?」
 ミサトのその問いに、加持は親指を立てて応じる。
 それで、ミサトもシゲルも顔に安堵を浮かべた。
 そこに向けて、加持は詳細説明を開始する。
「毎週月曜夜、8時から1時間。ステージ料は無料」
 あまりにも良すぎるその条件を耳にして、驚きを隠せないままシゲルはこう呟く。
「いいのかよ。確かに暇な日ではあるけどよ」
「まあそう喜ぶな。条件がある」
「は?」
 シゲルがそこはかとなく嫌な予感を感じ始めつつ、そう問い返した直後。
 加持は再び親指を立て、最高級に無駄な爽やかさを全身から発散させつつこう告げる。
「隔週土曜日7時から8時、『英国紳士隊』出演が条件だ」
「なるほど! そりゃ最高ね! ナイス加持!」
「……」
「青葉、そう喜ぶな」
父ちゃん情けなくて涙出て来てるンだよ!
 割れ鍋に閉じ蓋。
 シゲルの脳裏に、その言葉が思わず浮かんだのは言うまでもあるまい。


 で、翌日。
 新学期開始の当日。
「マジかよ……」
「あ、悪夢だ……」
 その条件をシゲルから聞かされたエイジとマコトは、学食でそう呟いたきり頭を抱える羽目になる。もっともシゲル本人も、
「まさかここまで悪影響が伝播しているとは思わなかったぜ、オレもよ」
 と呟いたっきり、頭を抱える羽目になったのだが。
「とりあえず、先に一回ピンで演らせてもらえるのだけは決まってるんだけどな」
「じゃ、それでペイする事が判れば」
「『英国紳士隊』は回避出来るのか?」
 そう言いながら身を乗り出すマコトとエイジに、シゲルは顔をしかめ、頭を掻きながらこう答える。
「そうも行かないだろ」
「?」
「ブルーズの弾き語りで、オレらの世代の客が呼べるか?」
「う〜ん……」
 マコトが、シゲルの表情が伝染したかのような表情で、そう唸った。
 エイジは彼らの言葉が正論である事を自覚しつつも、こう返答をする。
「ま、少なくともおれ達ァ見に行くからよ」


 そして、シゲルがピンで演る当日。
「な〜んだ、けっこう入ってるじゃない」
 マヤがそう呟いた通り、彼らの予想よりは人数は入っている。
 もっともその直後、チトセはその客の内訳について冷静に観察し、こう呟いたのだが。
「客の年齢層がずいぶん高いみたいだけど」 
 それを受けて、マコトがその事情についてこう説明を行なう。
「あ、なんか父さんがずいぶんいろいろわめいてたらしくて」
「?」
「要するにさ、父さんが昔作った歌を演らせるから、ってんで父さんの友達がかなり来てるそうなんだよ」
「へえ……」
 そう言いながらチトセが視線を動かした先には。
「だはははは〜」
「懐かしいな、おい!」
「シゲやん、お前よっかは上手いのは確実に判ってるからよ、心配すんな!」
「うっせえこの野郎!」
 などとわめいている、マコトの父を中心にした10数人の集団が早くものんだくれてキマり始めている。
「なんせシゲやん」
「コードしか弾けねえし」
「チューニングはいっつも狂ってるし」
「いつだったかは、弦を6本中4本叩き切ってもまだ演ってたしな」
 その会話を聞いて、日向父の若い頃の姿をそれぞれ勝手に想像し、思わずこう呟くマヤ・チトセ・エイジ。
「なんつ〜か、こ〜」
「たぶん、エイジくんとシゲルくんを足して2を掛けても」
「絶対かなわないんじゃねえか、って気がするわな」
 そして、3人はまったく同時にマコトの顔を見据え、こう断言する。
「この親にして、この子あり」
 その結論に、マコトは冷や汗交じりでこう応じる。
「ぼ、ボクはそこまでひどくないよ。たぶん」
 最後の『たぶん』にかけらも説得力がないのを感じつつも、3人はとりあえずそれ以上のツッコミは避け、無言で頷く。
 その直後。
 ようやく、ステージが始まった。
 観客の拍手を受けて中央に進み出たシゲルは、余計な事を言わずに椅子に座り、そして強く、激しくコートをかき鳴らし始める。
 その前奏を聞いて、マコトの父親たちの集団から歓声が上がった。
「『春夏秋冬』か〜!」
「いいぞ〜! やれやれ!」
 その曲名は、マコトの父がプロデビュー寸前まで行きかけた曲のものだった。
 もっとも、幸か不幸かその時期にマコトの母がマコトを身籠った。それを知ったマコトの父はその話を断り、『鉄工所のオヤジ』の道を選ぶ事になったのだ。
 その事を思い出してか、マコトの父たちの表情に感慨深さが浮かぶ。
 むろん、そういった事情を知らないマコトたち4人にも、その曲の詩とメロディは深く染み渡っている。
「いい歌ね」
「うん」
「『今日ですべてが終わって』、『今日ですべてが始まる』……」
「えらいとこ、突いてきやがるな」
 そこから続いた曲も、すべてに渡ってそのような曲調で推移する。
 それが変化を見せ始めたのは、ボブ・ディランの『風に吹かれて』に続いて、『北国の少女』を歌った辺りだった。
 絶望的な状況からも、一縷の望みが見える歌から、ただ悲嘆に暮れる歌へ。それを鋭敏に悟って、エイジと、そして歌詞を正確に聞き取ったチトセが眉をしかめる。
 特に、エイジはそれで背筋が寒くなり始めているのを自覚せずにはいられなかった。
 彼は気付いていたのだ。
 シゲルの心のどこかに、彼らにも救いがたい、測り知れない闇がある事を。
『あいつ、それを、吐き出そうとしてやがる』
 それが、彼のその時の心境だったのだ。
 そんな事を知ってか知らずか、シゲルはラストの一曲の演奏を始める。
「え〜、この曲は、日向のおやっさんの曲じゃなくて、オレの曲です。『北の詩人』」
 そのぶっきらぼうな言葉に続けて、ブルーズハープとギターを一緒に合わせて。
 その曲は、始まった。
 そして。
 歌が進むに連れて、エイジが身体を小刻みに震わせ出す。

ユメヲコワスノハ、アリガタキ、カゾク!



 シゲルは、まるでなにかに憑かれたようにして、そう叫ぶ。
 その叫びを聴いて、いよいよエイジの震えは止まらなくなってしまう。
 それに気付いたマヤが、大慌てで彼の身体をゆする。
「え、エイジくん? エイジくん!」
 それで、辛うじてマヤの呼びかけに気付いたエイジが。
 身体の震えを止めないまま、こう呟いた。
「……伊吹」
「?」
「いいか、絶対、シゲルから目を放すなよ」
「ど、どういう事?」
「あいつは……あいつは、一瞬でも目を放したら、ここから居なくなる」
 その言葉に、マヤは頬を膨らませてこう応じる。
「そ、そんな事ないわよ。約束したもん。ずっとここに居るって」

 5秒経過。

 エイジは、静かに。そして、慈しむように、マヤの頭に手を置いて。
 こう、告げる。
「それでも油断するな。絶対、シゲルから目を放すなよ」
「う、うん」
「それが出来るのは、お前だけだ」


 こうして、シゲルのソロステージは意外とも思えるほどの大盛況で終わった。
「ただ、問題は」
「このレベルの客数をキープ出来るか、って事だけどね」
「結局、『英国紳士隊』も、それなりに頑張らなきゃならねえのか……」
 シゲルが、がっくりと肩を落としてそう愚痴った。
 心底嫌そうなその言葉を受けて、次第にそれが伝染し始めているマコトとエイジが改めて目前に横たわっている課題について口に出す。
「と、とにかく」
「一回は無理矢理にでも演らなきゃいけない訳だろ、シゲル」
「残念ながらな」
 その死刑宣告にも等しいシゲルの呟きを受けて、大きくため息をつく3人。
 その内心を、マコトがこの一言で総括する。
「下手にウケなきゃいいけどね、『英国紳士隊』が……」
 そこに、チトセがいかにも彼女らしい『姉』の顔をして、こうケツを叩く。
「だからといって極端に手を抜く訳にもいかないでしょ。手を抜き過ぎでシゲルくんのソロのステージの機会まで取り上げられちゃ、本末転倒じゃないの」
 さらに、マヤも3人を懸命に励ます。
「そうそう! みんな、頑張ってね! わたしたちもちゃんと見に行くからね!」
「ううう……」
「余計にモチベーションが下がる……」
「ぐだぐだ言わない! 真面目にやりなさい!」
 かくしてこの翌日から、二律背反を背負いながらもシゲル・マコト・エイジの3人は『英国紳士隊』のネタ合わせに励む事になる。


 数日後。
「ち〜ちゃん、ち〜ちゃ〜ん!」
「あら、マヤじゃないの」
「シゲルくんたち、最近どうしちゃったのかしら。学校にも、深山楽器にもいないし」
「知らなかったの? ネタ合わせのためにずっとシゲルくんのアパートに泊り込んでるのよ、3人とも」
「へえ〜」
「とりあえず、ネタには目処が立ったっていうから、シゲルくんとエイジくんはバイトに復帰するらしいわよ」
「マコトくんは?」
「3日貫徹だったから、今日は昼から来るって」
「あはは、授業受けない気まんまんね」
 苦笑いとともにそう言ったマヤの言葉を受けて、『姉』の顔をしながらマコトの行動をしみじみ愚痴るチトセ。
「まったく。ちょっとは真面目にやる気になったかと思ったらすぐこれだから……本当に世話が焼けるったらありゃしないわ」
 もっとも、その言葉の節々に愛情が感じられるのは簡単にわかったので、マヤはさりげなくこう混ぜっかえす。
「そうよね、もうちょっと頼り甲斐がないとね、マコトくんの場合」
 直後、チトセ大噴火。
 怒り以外の成分で、顔を真っ赤にするおまけ付きで。
「誰がマコトくんを名指ししたのよ!」
「さあね〜」
 と、珍しく攻守逆転しているところに。
 憔悴しきった顔をして、マコトが歩み寄る。
「おはよ」
「何が『おはよ』なのよ。だいたいマコトくん、あなたはね!」
 それを合図に説教モードに入ろうとするチトセを、マヤが制する。
「まあまあ、ち〜ちゃん。今日はさ、シゲルくんたちのとこに遊びに行ってさ、バイト終わり次第合流してご苦労会しようよ! ちょうど、桜もいい感じで咲いてるし」
「あ、いいね」
 『妹』と『弟』が、揃って『散歩』と顔に書いて顔をのぞき込む。
 その状況を受けて、チトセも矛を収め、あえなく折れる事になる。
「まったく、しょうがないわね。その代わり、明日からは真面目にやるのよ」
「は〜い!」
「はいはい」


「あ〜、かったる〜」
「今日は時間が過ぎるの、遅えよな」
 などと言いながら、段ボールの陰に隠れてサボリを決め込んでいるシゲルとエイジ。
 そんな事をしていれば当然、
「こら! 衣笠! 青葉!」
「だあっ! すんません若旦那!」
「すぐ職場に戻りますから!」
 といういつものパターンが待っている。
 しかし。
 この日は、ここから先が違った。
「おまえら」
「はい」
「今日はどうも客付きが悪ィんだよな。いますぐ外でデモ演やってこいや」

 5秒経過。

「やんのか! やんねえのか!」
「や、やりますよ!」
「いますぐやりますよ!」
 こうして、バイトをはじめてまる一年目にしてデモ演をようやくやらせてもらえる事になった二人。
「何演るよ」
「こないだのRAGでも演るか?」
「いいんじゃねえ?」
 そう言い合いながら、店の外に出た瞬間。
「あああ!」
「『英国紳士隊』だ〜!」
 通りすがりの人がそう叫んだのを合図に、店の前に黒山の人だかり。
「どんなネタやるんですか〜!?」
「期待してますよ〜!」
「お願いします、アニキ!」
 なんてこった。
 顔にそう書き込みながら、きっちり5秒間あっちの世界に逃避するシゲル&エイジ。
 もはや引っ込みがつかない。
 客の望みに応じて、『ネタ』を演るしかない。
 そう開き直って、シゲルはほとんどやけくそでこう吐き捨てる。
「大変なンだよこれ、歌じゃねえンだから」
 それに引き続いて、ギターをかき鳴らして怪しい歌をがなりはじめるシゲル。
 そのタイトルを、『黒いカバン』という。
 警察VS不審人物の熱いバトルを唄った歌だ。
 そして、その歌詞を聞くにつれ、エイジの表情が次第にけわしくなって行く。
 それに気付く余裕もないまま、シゲルがそれをがなり終わった直後。
 期待を満足させてもらった観客から爆笑と歓声が。
 そしてエイジからは。
「シゲル!」
「あん?」
「お前、今の歌、去年の夏におれがやった事そのまんまじゃねえか!」
「ネタになるような事を提供したお前が悪いんだろ!」
「もうちょっとマイルドにしろマイルドに!」
「全裸っていうポイントは外してるだろ!」
「全裸じゃねえよ! 海パン一丁だよ!」
「似たようなもんじゃねえか!」
「お前な、紳士のたしなみとして海パンを履いたおれのダンデイズムがわからんのか?」
「わかるか!」
 この天然漫才に、ますます観客は大爆笑。
 しかも両者とも手加減無しで大声を張り上げているので、マイクの効果も手伝って駅前までこの漫才まる通り。ついでに言うなら、駅前交番の警官が偏頭痛をもよおし、頭を抱えている。
 そこに到着した、マコト・チトセ・マヤ曰く。
「相変わらず」
「絶好調で恥をばらまいてるわね、あのバカども……」
「あはははは〜!」
 かくして、チトセがこめかみを押さえ、マコトが苦笑いを浮かべるのをよそに、散歩開始の瞬間のような猛ダッシュで、両手にビールと山のような弁当を抱えて深山楽器に向かって行くマヤ。
 そして彼女が店の前に辿り着き、口を開こうとした直後。
「キャ〜ッ! アタシの想像した通りよ! 最高よ〜っ!」
 という絶叫を上げて、中学生くらいの栗毛の女の子がシゲルに抱き付く。

 5秒経過。

「……不潔」
 そう短く呟いて、マヤはきびすを返す。
 それに慌てたマコトが、必死で呼び止める。
「ちょ、ちょっとマヤちゃん!? マヤちゃん!?」
 だが。
わたし、帰るっ!
 マコトですらたじろぐほど、マヤは怒り狂っている。
 そしてそのまま、ゴジラのような猛烈な足音を立てて改札口へ一直線。
 これは、自分ではどうにもならない。
 そう判断したマコトはチトセを振り返り、こう叫ぶ。
「チトセさん! なんとかしてよ!」
 が。
ふふふ……来た来た来た! これで面白くなって来たわよ〜! ふふふ……
 チトセはエイジの破局に気付いたときの軽く10倍は不穏な表情をしたあげく、眼光に至ってはあの時の20倍は激しく光らせてそう呟いている。
「ち、チトセさん?」
 マコトは、もはやなすすべもないままその場に呆然と突っ立っていた。
 いっぽう、栗毛の女の子は、
「やったやったやった〜! ああん、こんな所にいるなんて、超ラッキ〜!」
「ちょ、ちょっと、その、君、お願いだから、離れて……」
「嫌で〜っす! あ、あと、アタシの名前は『君』じゃなくて、『アスカ』って呼んでくださ〜い! えへへっ!」
 といった調子で、シゲルの意向を完全無視。
 そして、それらの悪夢をひとつ残らず観察させられる羽目になったエイジが、
駄目だこりゃ
 と吐き捨てつつ、額に掌を当ててうなだれていた。


 平成元年、春。
 5人は、それぞれに自分の道に向けて走り出そうとしていた。
 全力で走り出した時には、足もとの石にけつまずいて転ぶ事もあるのだという事実に気付くには、彼らはまだ若く。
 それ故に、事実誤認を内包したままで七転八倒しながら前進していく事になる。