眠れない夜。

 風が窓を叩く音ですら耳に障る。

 ……悪夢が蘇る。

 底無しの悪夢が。



『君はいいんだよ、君は。頑張りたまえ』


『自分が何やってるのか、わかってんのか?』

『いいなあ……』




 それでますます眠れなくなる。

 すがる。

 たった『一人』のダチだった、おんぼろレスポールに。

 マイナーコードを繰り返す。

 詩になっていない言葉を呟きながら。

 彼は孤高の人だと言われた。

 嘘だ。

 彼は、孤独が嫌いだった。

 だからギターにすがった。

 だから歌った。

 だから吠えた。

 だから……。







THE GAMBLI'N MAN
ACT・3:『溶岩道路RAG』




「アヂいぞコンチクショ〜っ!」
 無駄だという事を嫌という程理解はしていたものの、布団から起き上がったシゲルはそう叫ばずにはいられなかった。
 まだ、時間は朝の6時なのである。
 東京の夏は容赦が無い。
 たとえ夜に暑くて眠れなくても、朝が来ればそれ以上の暑さが襲って来る。
 なおかつ彼のように仕送りゼロの人間ともなれば、たとえ学校が休みであっても、否、学校が休みなればこそ遊んではいられなかった。
 彼は労働基準法に照らし合わせれば間違い無く違反するような勢いでバイトを入れ、生活費と学費を何とか捻出しようと涙ぐましい労働ぶりを見せていたのだ。
 若さに任せ、ろくに食事も取らないままそんな生活を続けた挙句、嫌がらせの様に続く熱帯夜で睡眠もろくに取れずにいたためふらつく身体を強引になだめすかし、彼はカレンダーを見てバイトのシフトを確認する。
「……今日は……ありゃ?」
 だが、そこは空欄。
「そう言えば今日は水曜日だったし、日雇いも入らなかったんだっけ……」
 そう。シゲルは『だらけ』では無く、異常な労働態勢によって曜日感覚がマヒしていたのだ。
 それを理解した瞬間、情け容赦無いヒグラシの鳴き声が耳につく。
 そして、どうしようも無い疲労感が身体を貫いた。
「う〜、駄目だこりゃ……」
 そのままシゲルは再び布団に倒れ込む。
 たとえ眠れないとわかっていても、もはや彼には何らかの行動を起こす気力すら無くなっていた。


 同日、朝9時。
 ストレートジーンズに半袖パーカーといういでたちのマコトは学校の図書館で、本棚を真剣に見詰めていた。
 彼の自宅には、クーラーが無かった。家族と同居なのに、である。
 そのため彼は夏休みに入ってから、学校が開くまではコンビニで粘り、学校が開くとクーラーが効いている図書館に向かうという生活を続けていた。
 結果、彼はこの大学に通う一年生の中の『学校にいる時間が長い人間』ランキングの一位を無人の野を行くが如く独走していた。
 もちろん、彼はその時間を無駄に使っていた訳では無い。
 シゲルとエイジが阿鼻叫喚の飲み会の息抜きのふとした時間に太宰と三島の確執、高村光太郎の『偽善』ぶり、歴史の事象ではなくて事象が起こした影響に対する捉え方などと言った事について語っている所に入っていけない事を恥ずかしく感じた彼は1日3冊のペースで片っ端から蔵書を読み潰していたのだ。
 かくして、今日も本を手に取り、6人がけのテーブルに陣取ろうとすると。
 そこに、見慣れた人間の姿があった。
 しかも、珍しい事に『手詰まり』と顔に書いて、
「参ったわね……」
 と呟いている。
 自分がそれに手助けを出来るとは思わなかったものの、気になったマコトはそこに歩み寄り、こう囁く。
「チトセさん、どしたの?」
「あら、マコト君?」
 チトセは苦笑いとともにそう返答すると、飾り気の無い真っ白なTシャツとスリムジーンズからかすかな香水の香りを振りまいて、マコトと正面から向き合う。
 そして、マコトはチトセの前にあった彼女の悩みの元である物体を見て、唖然とした顔を作りながらこう口を開く。
「チトセさんでも、英語を前にしてお手上げになる事があるんだ」
「まあ、ね……こんな事なら安請け合いするんじゃなかったわ」
「?」
「この300ページあるマニュアルを訳して、って言うから受けたはいいんだけど、専門用語が多過ぎて意味が通る言葉にならないのよ」
「ふうん……」
 マコトはそう呟くと、問題のマニュアルをめくって行く。
 その直後、チトセが予想だにしなかった言葉がマコトの口から飛び出す。
「ああ、新型のNC旋盤か。でも新型の割には機能拡張されてないなあ」
 そして、チトセはただでさえ大きな目をさらに見開いて、思わず大声でこう口走る。
「マコト君!? それ、わかるの?」
「うん、まあ、『使い方は』だけど」
 マコトがそれを言い終わる前に、チトセは彼の手を握り、上下に振り回しながら安堵の声を挙げた。
「助かったわあ……」
「は、はあ……」
 今までに見た事もないそんなチトセの表情の動きに、いまだに唖然としたまま生返事を返すマコト。
 そして、チトセはさらにマコトに見せた事の無い顔を見せる。
 両手を顔の前で合わせ、片目をつむって軽く頭を下げ、こう叫んだのだ。
「マコト君、お願い! 手伝ってくれないかしら!」
「う、うん……ボクに出来ることなら」
「サンキュ〜!」
 その言葉とともに、再びマコトの手を握り、激しく上下に振り回すチトセ。
 直後、周囲にかまわず大声を出していた自分に周囲の白い目が集中しているのに気付いた彼女は、
「あ、あはは……すいません……」
と言いながら周囲に2、3度頭を下げると、照れ臭そうに笑った。
 その一連の行動を見て、マコトは思った。
 これが、千代田チトセという人物の本当の『地』なのだと。
 だとすれば、まだまだ先は長いと。
 結局、今までのように彼女が周囲に気を張って『地』を見せないうちは、まだまだ自分が未熟な証拠なのだ。
 だが、まだ自分には時間がある。
 だから……彼はこう言った。
 その言葉に、さまざまな意味を込めて。
「とにかく、出来るとこから始めようか」
「そうね」


 繰り返すが、東京の夏は容赦が無い。
 日が昇るに連れ、異様とも思える程の湿気を含んだ熱気はますます勢いを増し、人々を無料サウナに導くのだ。
 頼んでもいないのに。
「暑い……」
 朝から何回呟いたか知れないその言葉とともに、布団の上で無気力に尻を掻くシゲル。
 出かける気力も無い。
 涼むにも、銭湯が開く午後4時まではあと4時間強。
 一番近いコンビニまでは徒歩10分。
 学校まででも、徒歩8分。
 それだけの時間を頑張る気力すら、彼には残っていなかった。
 身体に汗が次から次へと噴き出す。乾く暇すら無く。
 それがまとわりつく不快感が、次第に彼の無気力を上回ろうとしていた。
「あ゛〜っ! もう我慢できねえ!」
 彼はそう叫ぶとやにわに立ち上がり、流しに向かうとありったけのバケツ、洗面器、果ては丼にも水を汲むと、それらを手に物干しに向かう。
 そして、それまで履いていたパンツも脱ぎ捨てて全裸になると、それを頭からかぶった。
「うひゃ〜! 冷てェ! 気持ちいい〜!」
 この日初めて彼らしい活力に満ちた声でそう叫ぶと、彼はさらに水をかぶり続ける。一心不乱に、わずかな涼をむさぼる様に。
 その時である。
「……何やってんだよ、お前」
「どわあ!」
 背後から突如かかったその声に驚いたシゲルは、バケツの水を全部後ろにぶちまける。そこにいたのは……。
「……ま、おれはいいけどよ、布団びしょ濡れだぜ、シゲル」
 全身をびしょ濡れにさせて、無表情な声で呟くエイジ。
 しかも何を血迷ったのか、彼は海パン一丁というスタイルである。つまり情け容赦無く彼の無意味に筋肉質な肉体を至近距離で見せ付けられると言う、こんな日にだけはあって欲しくない状況がそこに出現したのだ。
 シゲルはそれだけで室温が10度は上昇したような気分になり、うんざりした表情でこう呟く。
「エイジい……暑苦しい面ァ見せンなよ……」
「訂正しろ。『筋肉』だろ?」
「同じじゃねえか!」
 直後、エイジは顔に嫌な笑みを受かべると全身の筋肉から軋むような音を立てながら、句読点ごとにポージングを決めつつこう叫ぶ。
「そういう奴には、おしおきせんと、いかんなあ。ほ〜れ見ろ! 筋肉さん、だよ〜ん!」
「寄るなどあほ〜う!」
 迫り来るエイジの筋肉を見ながら、暑さによる汗と暑苦しさによる嫌な脂汗を同時に激しく噴出させてシゲルがそう叫んだ直後。
「シ〜ゲルく〜ん! プール行こ〜う!」
 とハイテンションな叫びを上げながら、水着が入ったバッグを振り回してマヤが乱入。

 5秒経過。

「きゃああああ! フケツ〜っ!」
 顔どころか耳まで真っ赤にして、マヤはそう絶叫する。
「ま、待て伊吹! 誤解だ!」
「そうだ。筋肉の素晴らしさを、伝授しようという、おれの崇高な考えを……」
「黙れエイジ!」
 完璧なタイミングでのそのツッコミの直後、エイジは身体から力みを抜くと淡々と呟く。
「ま、パンツぐらい履けや、シゲル」
「あ」
 かくしてシゲルがパンツを履いたのを確認して、エイジは口を開いた。
 さすがに今度はポージングなしで。
「いや、実は新聞勧誘のおっちゃんがプール券を5枚くれたんでな。お前にも声をかけようと思って来たんだな、これが」
 5枚、という枚数を聞いて、シゲルはエイジがそのおっちゃんにどんな非道い事をしたのかを想像し、冷や汗が流れるのを覚えた。
 そして、それに委細かまわずエイジは言葉を続ける。
「で、途中で伊吹に会ったんでこいつも連れて来たわけだ」
「……最初からそう言えよな……」
「いや、ほれ、全裸で面白そうな事やってたからよ、これはちょっといじった方がオイシイなと思ってよ」
「お前、そういうトコだんだんマコトに似て来たよな」
「HA! そう誉めンなよ」
 親指を立て、無駄に爽やかな笑顔とともにそう言い切ったエイジの顔を見て、シゲルは額に右の掌を当て、深くため息をついた。
 だが……。
 こんなしょうもない事をする時間は愚か、友人すら与えてくれなかった高校の時に比べれば、これは天国だった。気力が萎えかけたり、疲れ果てたりしそうな時には、本当に絶妙のタイミングで誰かが彼に力を貸してくれる。
 もう彼は一人ではない。
 彼のダチは、おんぼろレスポールだけでは無い。
 彼らがいるから。
 そしてシゲルは、今朝強制的に目を覚まさせられた時から続いていた無気力とはまったく無縁の声で……彼一流のひねりを加えてはいたが、感謝の気持ちを込めてエイジとマヤにこう言った。
「お前らの顔見てたら、うだうだしてんのがアホらしくなったよ。行こうぜ」
「おう」
「わ〜い! プールだプールだ〜!」


「あら、お昼ね」
「あ、本当だ」
 マコトが、顔に『もう?』と書いてそう呟いたのを見て、チトセは後ろでまとめた髪の毛を留めているピンのずれを確認しつつ、こう切り出す。
「ふう……ねえ、マコト君」
「はいはい?」
「今日はとりあえずこの辺にして、午後はどこか行かない?」
「まだ30Pぐらいしか行ってないけど、大丈夫?」
 ほんの数ヶ月前には、90分の講義ですら耐え切れず抜け出していた人間の台詞とは思えないその言葉を聞いて苦笑しつつも、チトセはこう反論する。
「大丈夫よ。締め切りは8月いっぱいだから」
「あ、そうなんだ。じゃあとりあえず学食行って……」
「ううん。どうせ出掛けるんだから、外で食べましょう」
 お疲れ様という言葉を同時に発しているようなその言葉を聞いて、マコトはチトセが次に言わんとしていることを鋭く察し、こう返答する。
「ワリカンでいいよ? ボクの方も勉強になったし」
「あら」
 チトセは思った。
 たとえそれが精一杯の背伸びであっても、必死に何かをしようとしている人間の姿は気持ちのいいものだと。最初は不安でしょうがなかった……正直全面的に信頼していなかったあの時の決意表明はどうやら本気だったようだと。
 そして、頑張りなさいという言葉を裏に隠して、こう告げる。
「じゃあ、ワリカンでね」
「でも、お酒は勘弁ね」
 苦笑いとともにそう言ったマコトの顔を見て、チトセは内心にいたずら心が湧いてくるのを覚え、こんな事を口走ってしまう。
「どうしても駄目かしら?」
「ダ〜メ」
「あはは……」


「マジ?」
 真っ白なTシャツにスリムストレートジーンズ姿のシゲルは、相変わらず海パン一丁のエイジにそう問いかけた。
「大マジだよ。マコトの奴、まだ学校通ってるンだよ」
「なんでまた……」
 そう呟いているシゲル同様、キュロットと半袖のブラウス、化粧のけの字もしていない飾り気の無いいでたちのマヤも同様に首をひねっている。
『こ、こいつら……なんつう鈍感な……』
 エイジは心の中で、そう呟いた。
 余りにもマコトが不憫ではあったが、この調子ではマコトの内心(とはいえ、あくまでこれも推測の域は出ないのだが)をぶちまけたところで逆効果だとエイジは考えた。そしてとりあえずこう返答する。
「まあ、アイツなりに思うとこもあんだろ?」
「言われてみりゃ……そうかもな」
「確かに、休みの直前の辺りは語学以外の授業もちゃんと聞いてたし」
 そんな事を言い合いながら歩いていると、正面からその噂話の張本人が出現。
「あ」
「あら」
「マコト」
「ち〜ちゃん!」
 そこに、エイジはこう告げる。
「丁度良かった。呼びに行く手間が省けたな」
「?」
「プール行かねえ? タダ券もらったんだよ」
「あら」
「いいね! ね、チトセさん、行こうよ」
「うん……でも、水着って持ってないのよね、私」
「大丈夫よぉ、ち〜ちゃん! そんな事もあろうかと、わたし2着水着持って来たから!」

 5秒経過。

「じゃあ、ヨーカド寄って水着買ってくか」
「そうだな」
「そうね、持ち合わせはあるし」
「そうしよ。ボクも海パン欲しいし」
 嫌に無表情な声でそう言い合う4人の態度を見て、マヤは頬をリスのように大きく膨らませてこう愚痴る。
「ぶ〜! なんでそうなるのよぉ!」
 そこに、シゲルはこう告げた。
「伊吹」
「なによぉ」
「一目瞭然って言葉、知ってるか?」
 そう言いながら、シゲルはチトセの胸とマヤの胸を、それぞれ指差して見せた。マコトもエイジも、それに頷いている。
「ううう……」
「さ、買い物買い物」
 顔に縦線を入れて激しく落ち込むマヤをなだめるのをチトセに任せ、そう言い合いながら彼らは足を動かし始めた。


 シゲルたちの学校がある駅からバスで15分。
 そこには、『史上最悪の遊園地』というヤケクソじみた広告で一部に異様なブレイクを引き起こした遊園地と、それに併設された大きなプールがある。
 最初から海パン一丁だったエイジ以外の連中が着替え終わり、合流して荷物を一箇所に集めた直後。
「プ〜ル〜っ!」
 そう叫びながら、真っ先にマヤがプールに飛び込んで行く。
 もちろん、
「本日は大変混雑しております。プールへの飛び込みはご遠慮ください!」
 という監視員の注意はまったく聞いちゃいない。
 それを見て、チトセはこめかみに1度人差し指を当て、
「……本当にあの娘は……」
 と呟いた後、監視員に丁寧に謝り、マヤに近づいて行く。
「まあ、予想通りは予想通りだよな」
「余りにも予想通り過ぎるくらいにね」
「余裕かましてんなよ、シゲル、マコト」
「?」
「ほれほれ、周りを見てみ?」
 エイジがそう云いながら親指で指した先には、チトセとマヤがなにやら話をしているのに注目している野郎だけの数小隊がいる。
「ほれ、はよあいつらと合流してきな。荷物はおれが見てるからよ」
 エイジがそう言ったのを受けて、マコトは、
「あいよ!」
 と調子よく言い放ち、シゲルは要領が掴めない声で、
「お、おう」
 と言ってマヤたちの元に近づいていく。
 それを見届けて、エイジは呟いた。
「……よし。マコトと千代田は一緒に行動するだろうし、伊吹はシゲルに押し付けたし。予定通り、おれは余裕こいて涼めるな」
 ところが。
「タミさ〜ん! 寂しいわね〜ん? せっかくの夏休みに一人?」
「げえ〜っ! 葛城さンっ!?」
 エイジは全身から嫌な汗が激しく分泌するのを悟った。
 彼女に声をかけられるとマヤの時並みにろくな事が起こらないという事を、今までの経験から嫌と言う程理解していたからだ。
 それをひょっとしたら自覚しているのではないかという声で、ミサトはこう口を開く。
「あ、残念だけど今日のワタシは監視員だから、声かけても無駄よン?」
「……で? 結局何が言いたいんだ?」
「いやさ、飛び込みプールの監視やってんだけどさ……みんな根性なくてつまんないのよねえ。一番低いとこからしか行かないのよォ」
 その言葉が出た辺りからミサトの周囲に駄目っぽい空気が増殖して行くのを肌で感じたエイジは、顔に『勘弁してくれ』と書いて、心底嫌そうにこう呟く。今度は彼の方が追い込まれている状況なので、ポージングは無しだ。
「はあ。そう、で、ございます、か」
「でさ。タミさん、ちょ〜っと飛び込んでくんない? サクラとして」
「どこから、で、ございます、か?」
「やだあ! もちろん一番上からに決まってンじゃな〜い!」
「……で、報酬は、何、で、ございます、か? 葛城様」
 言葉遣いだけは丁寧に、エイジがそう吐き捨てる。
 それを聞いたミサトはあからさまにわざとらしく身体をよじり、こう叫ぶ。
「いや〜ん! タミさん、ワタシの身体が目当てなのね〜ン?」
 エイジはそれに激しい頭痛を覚えながら、こう返答する。
「あのな……おれにゃあちゃんと」
「女房がいるんでしょ?」
「違う! 田舎に彼女がいるんだよ!」

 5秒経過。

「意外に真面目なのね、タミさん」
「ほっとけ」
 無表情の見本のような声でそう応酬した後、エイジはこう口を開く。
「とりあえず、あいつらが戻って来たら行くよ」
「あら。連れがいたのね」
「おお、4人ばかりな」
 直後。
「きゃああああ!!!」
 というマヤの叫びが彼らの耳に飛び込んで来た。
 途端にエイジは表情を引き締め、
「あのバカ! 一体今度は何しでかしたンだ!?」
 と叫ぶと、その声がした方向に向かって一目散に駆け出して行った。
 そして、これは面白い事が起きるに違いないと直感したミサトも、
「あ、ちょっと待ってよォ、タミさ〜ん!」
 と叫びながらその後を追う。


「……いいな……」
 その少女はプールの金網に手をかけてその光景を見つめながら、小声で呟いた。歳の頃は、中学の2、3年生といった所か。処女雪の白さの肌と、赤い瞳。色素の薄い、細く柔らかな髪の毛。
 それらのパーツが、神が配剤したとしか思えない絶妙なバランスで組み立てられ、ため息が出るような、まさしく『お人形のように完璧な』美しさを作り出している。
 だが、その顔からは、悪い意味での『人形』のようなものしか感じられなかった。つまり子供らしい喜色と稚気の欠落。それが全てを台無しにしていた。
「私も……本当なら……」
 そう言いながら彼女が俯き、唇をかみ締めた瞬間。
「レナちゃ〜ん! ここにいたの!?」
「あ……」
「ほらほら! 早く早く! もうステージまで10分しかないんだからさ!」
 いかにも『業界の人間』らしい浮ついた口調でそう言われた彼女は、さらに表情に落胆と絶望の色を濃くしながらこう返答する。
「はい……わかりました」
「じゃあ行こうか!」
「はい」
「ほら! そんな顔しない! 笑顔笑顔!」
「……はい」
 その言葉とともに、彼女は笑顔を作る。
 内心とはまったく無関係の、営業スマイルを。
 真実味のまるでない、嘘の顔を。
 そして彼女は戻って行く。
 嘘と苦痛しかないステージという名の檻の中へ。


 マヤの叫びが聞こえたところ……ウオータースライダーの着地点付近に辿り着くと、エイジは絶叫する。
「伊吹! どうした!」
「え、エイジ君〜!」
 そう言いながら、泣きそうな顔になっているマヤは、ある一点を指差した。
 そこには。
シゲルくんが浮いちゃったよ〜!
 後頭部に巨大なコブを作り、うつぶせの状態で水に浮かんでいるシゲルがいた。
「だああああ!」
 エイジがあらん限りの大声でそう叫んだのとほぼ同時に、一応監視員のミサトがシゲルを水から引きずり上げる。
 そして。
「……まったく」
「どうせ無事にすむ筈ないと思ってたけど、まさかこうなるとはね」
 と呟きながら、チトセとマコトが歩み寄って来る。
「一体、なんでこうなったんだ?」
「実はね……」


「よし! じゃあオレから行くぜ!」
 そう言いながら、まずシゲルがウオータースライダーに飛び込む。
 そして。
 安全のために間隔を置かせてから次を行かせるために、監視員がいったんストップをかけるべく前に出ようとした瞬間。
「次、わたし〜っ!」
 と叫びながらマヤが大ジャンプとともに監視員を飛び越え、ウオータースライダーに着地。
 結果。
「うひゃ〜! 冷てえ!」
 シゲルが最後まで辿り着き、水面から顔を上げてそう叫んだ直後。
「シゲルく〜ん! よけてええええ〜!」
 という絶叫とともに、マヤのドロップキックが炸裂。


「という訳なの」
「あたたたた……」
 話を聞いただけで後頭部が痛むような気がしたエイジは、そう呟くと自分の後頭部を押さえ、思わずしゃがみ込んでいた。
「相変わらず水難には事欠かない奴だよな、シゲルも」
「しかも全部マヤのせいでね」
 マコトとチトセがそう駄目を押したのを受けて、一応反省はしているらしいマヤが悪さがばれた犬の顔をして、
「ううう……」
 と呟く。
 その反省の態度が、気絶しているシゲルに伝わる訳が無いのだが……。


「まったく、一時はどうなる事かと思ったぜ」
 後頭部をミサトにもらったカチワリ氷で冷やし、マヤが全員におごらされたジュースを飲みながら、シゲルはそう呟く。
 それを聞いて、まだその場にいたミサトがこう言う。
「にしてもタフよねえ、ロンゲくん」
「……いつもの事っすから」
「いつもの? あなたたちって一体普段どういう……」
「そりゃあもちろん脱いだり暴れたり脱いだり暴れたり脱いだり暴れたり……」
 エイジが根拠も無いまま自信に満ち溢れた声でそう応じたのに、シゲルとチトセが鋭くつっこむ。
「エイジ!」
「自分を基準に物を言わないでちょうだい!」
 直後、ミサトは急に破顔したかと思うと、上機嫌そのものの声で腹を抱えながらこう叫ぶ。
「あはははは! さすがタミさんの友達よね〜! タダモンじゃないわ!」
「ですから、その! 葛城さん、でしたっけ……この男を基準に……」
 そう言いながらエイジの後頭部を一発張るシゲル。
「いやいや、そういう意味だけじゃなくてさ、この間のちょんまげ侍、あなたでしょ」
「?」
「ほら、パーティの時」
「ああ、いたんだ、あの時」
「そ! あんときの演奏でさ、ワタシあなたのギター気に入っちゃったのよね〜」
「はあ」
 まだ要領を掴めていない声でそう呟くシゲルをよそに、ミサトはさらに一方的にまくしたてる。
「いや、実はさ、ワタシのサークルの有志が集まってね、高円寺の『デトロイト・ポーカー』で時々演ってるんだけどォ、ど〜も受けが悪いのよね」
「?」
「一応SKA演ってるんだけど、リズムセクションが人材難なんだわァ」
 そこで、ミサトの言葉の意味がわからなかったマコトは、エイジの腕を肘でつついてこう囁く。
「SKAって何?」
「ま、簡単に言えば『裏拍』の音楽だわな」
「?」
「ほれ、今まで学校で習ったような音は、『パン・パン・パン・パン』……のリズムだろ? それがSKAだと『ンパ・ンパ・ンパ・ンパ』になる訳さ」
「わかったような……わかんないような……」
 この数年後、ミサトの演っているようなスタイルのSKAバンドが大ブレイクするまでマコトはエイジの説明を理解出来なかったのだが、まあそれはどうでもいいことである。
 もちろんミサトはそれに耳を傾ける事なく、言葉を続ける。
「ね、一回来てくれないかしら?」
「はあ……まあ、オレなんかで良ければ」
「オッケ〜! 交渉成立っ!」
 そう言いながら差し出したミサトの右手を、シゲルはきちんと握り返しつつも、一つ疑問に思った事を尋ねる。
「ところでこいつは?」
「あ〜、ほら、タミさん石頭だから……4ビート以外は演りたくないんだって」
「悪かったな」
 チトセはそこで、エイジに一言言っておこうと思ったのだが。
 その瞬間、彼女の目に妙に落ち込んでいるマヤの姿が目に入ってしまった。 それで、彼女はマヤの気持ちを察して思考を切り換え、ミサトに向かってこう切り出す。
「ねえ、とりあえずシゲル君ももう大丈夫みたいだし、そろそろ仕事に戻った方がいいんじゃない?」
「あ、そうだった! ほんじゃ、ワタシ行くからね! タミさん!」
「あ〜、はよ行け、はよ行け」
 左手で『あっち行け』の動作をしつつ、だらけ切った声でエイジがそう言ったのを受けて、ミサトはこう念を押す。
「ちゃんとこっちのプールに来なさいよ〜! 約束だかんね〜!」
 そう言い残すと、監視員の立場を忘れたかのように全力疾走を始め、ミサトは立ち去って行った。
 それを受けて、シゲルとマコトは妙ににやけた顔をしてエイジの両脇を固め、こう呟く。
「なあ、エイジ」
「あのガチャガチャした女の娘、お前の彼女? やけに親しそうだったじゃん」
「違ェよ!」
「そのムキになるとこが怪しいねッ!」
「ああ、やたらめったらなッ!」
 ますます顔ににやけた笑いの成分を濃くしながら、エイジを肘で小突き回すマコトとシゲル。
 そして、
「やれやれね……」
 と呟き、大きくため息をつくチトセ。
 さらに。
 マヤは、チトセの腕を指で2度つつき、チトセを振り向かせてからこう呟く。
「ち〜ちゃ〜ん……」
「何? マヤ」
「やっぱり男の子ってさ……胸おっきい娘の方がいいのかなあ……」
「はあ!?」
「だってさぁ……わたしとさっきの娘と、ずいぶん扱いが違うんだモン……」
「大丈夫! そんな事ないわよ!」
「ち〜ちゃんだって、おっきいし……」
「な、何言ってるのよ! こんなの重くて邪魔なだけなんだから!」
 とにかくチトセは必死にそうフォローしたのだが。
「ううう……」
 逆効果。
 おまけに。
「やっぱ巨乳が決め手だろ!?」
「うんうん、巨乳はいいよなッ!」
「だから違うつってんだろ!」
 その瞬間、チトセ爆発。
あんたら! 人が必死にフォローしてるのに何遊んでんのよッ!
 そしてその瞬間、怒ったチトセの怖さを知り抜いているシゲルは必死のフォローに入る。
「あ、あのさ、伊吹、だからさ、ほら、言って見りゃあれは『カツ丼のおしんこ』みたいなもんで付けばそれなりに嬉しいけどなけりゃないで……」
「このバカシゲル! 全然フォローになってないわよ!」
 その言葉とともにシゲルの後頭部に手加減なしのつっこみ炸裂。
 ドロップキックのダメージがまだ残っているシゲルは、そのまま目に涙を溜めてしゃがみ込む。
『やばっ……チトセさん、マジ切れだ……』
 そう判断したマコトは、冷や汗を流しながらも何とかチトセをなだめるべく、必死にこう切り出す。
「ま、まあまあチトセさん……」
「マコトくん! あなたもよ!」
「あ、はいはい……」
 こりゃいかん。
 彼らがそう思い、対処に困っていたその時。
「お〜い、伊吹。ヤキソバとソフトクリーム買ってきたぞ」
「え? 本当!? エイジく〜ん! やった〜!」
 そう絶叫してエイジの手からヤキソバとソフトクリームをひったくり、マヤはそれまでの悩みを嘘のように忘れてむさぼり食っている。
 その光景を目にして、シゲル・マコト・チトセはその場で固まってしまった。
 そしてエイジは、淡々と言う。
「だからさ、こいつの機嫌取りって言ったらこれしかないだろ」
 エイジは、この時点で誰よりもマヤの扱いに長けていた。マヤはまだ、彼らよりも精神的に幼いのだと、正確に見抜いていたのだ。マヤが拗ねてしまったのは、単純に『かまってくれない』という子供じみた理由だと。
 だから、マヤに『女』としての対処をしてしまったチトセたちの対処は微妙にズレたのである。まあ、その上で異次元的なずれを起こしているシゲルは論外とも言えるのだが。
 ともあれ、エイジは一同にこう告げる。
「さて、流れるプールもウオータースライダーも制覇した事だし、そろそろ飛び込みでも行くか?」
 それに、シゲル・マコト・マヤは笑顔でこう応じる。
「あ、いいな」
「OK! やろうぜ〜!」
「面白そう〜! いくいく!」
 そして、チトセは、
「わ、私は……」
 と、妙にひきつった顔で、しかも小声で呟く。
 しかしそれに委細かまわず、マコトは叫んだ。
「大丈夫大丈夫! どうせ荷物って言ってもバスタオルくらいでしょ!」
「う、うん、まあ……」
「ほら、行こう行こう!」
 そう言うなり、マコトは有無を言わさずチトセの手を引き、飛び込みプールに向かった。


「……なあ、エイジ」
「あん? どしたよシゲル」
「なんでここに来なきゃいけないんだ?」
 シゲルがそう言うのも、まあ当然と言うべきか。
 エイジはミサトとの約束を忠実に守り、一番上の5メートルの飛び込み台まで全員を連れて来ていたのだ。
「まあそりゃあ、せっかくだからな」
「日本語使えよな、エイジ」
 少々ビビリが入っているシゲルに対して、マコトは思いの外肝を据えた声でこう論評した。
「まあさ、みんな1メートルのとこ行ってる時にここから行けば目立つこと請け合いだし! バ〜ンとォ! やっちまおうぜ!」
 それに、ビビるどころか心底面白がっているマヤが笑顔で応じる。
「さんせ〜い!」
 そして。
「いいだしっぺだから、まずおれが行くぜ」
 と言い残し、エイジは周囲の
「おおおお〜っ」
 というどよめきが静まるのを待って鋭く頭から飛び込み、観客の歓声を浴びる。
「さすがエイジ。根拠の無い自信と無意味なクソ度胸じゃあ一番だよな」
「やる〜! さ、わたしたちも行きましょ!」
「足からでいいよな? 伊吹」
「うん、わたしもさすがに頭からは怖いし」
 シゲルとマヤがそう言い合ったのを見た後、マコトは振り返ると無駄に爽やかな笑顔とともにチトセに顔を向け、こう言う。
「さ、チトセさん!」
「ちょ、ちょっとタンマ……勘弁してよ……」
 情けない声を上げて露骨に怖がり、しゃがみこんでいるチトセという今まで見たことも無いその光景を見て、3人はその場で一瞬固まってしまった。
「チトセさん?」
「まさか、ち〜ちゃん」
「高所恐怖症?」
「お願い〜! 頼むから私は勘弁して頂戴!」
 すがるような声でそう叫ぶチトセ。
 それを見て、心配になったマヤはこう言う。
「うん……でも、階段、降りられる?」
「階段……?」
 そう呟きながら、チトセは下を覗き込んでしまった。
 結果。
「ひっ!」
 とだけ叫んで、ますます小さくなるチトセ。
 そう。
 高所恐怖症の人間が何を怖いのかと言えば、『高さを実感する事』が怖いのだ。マヤの言葉を聞いてうっかりそれに従ってしまったチトセは、そのまま本格的に身体が竦み、小刻みに震え出してしまう。
 それを見て、これはヤバいと判断したマコトはそこに近寄ってこう声をかける。
「ち、チトセさん?」
「ど、どうしよう〜! マコトく〜ん! 怖いよ〜!」
 恐怖のあまり完全に幼児退行してしまったような声で、チトセはマコトにすがりつき、そう叫んでいた。
 その様子を見て、無責任にも下からエイジがこう叫んだ。
「ほら! 階段なら時間がかかるけどよ! 飛べば一瞬だぜ! 度胸決めてやっちまえよ!」
 さらに、それを見て煽られた観客が無責任にも追い討ちの拍手。
 その上。
 本気でチトセを心配しているマコトとは違い、状況を面白がっていたシゲルがチトセの片腕をロックしてこう呟く。
「人類に逃げ場無し」
「え、えええ!?」
 これはまずい。
 そう直感したマコトは、こう口を開く。
 いつもの、どんな状況でも何とかしてしまうのではないかという気になる、調子のいい声で。
「ほらチトセさん。ボクらが一緒に行くから大丈夫だってば!」
「そうそう! こんなの、目をつむってれば一瞬だよ! ち〜ちゃん!」
「マヤぁ……その言い方、下品よ」
「え? 何が、どう?」
 あんたは小学生か。
 そうつっこみたかったチトセの意思を無視して、状況が動く。
「イエ〜! ロケットダ〜イブ!」
 と叫んだシゲルが、チトセを力ずくで引っ張り、マコトもろとも飛び降りたのだ。
 当然ながら、
「シゲル〜っ!」
 とマコトは抗議の声を上げ、
「きゃあああああ〜っ!」
 とチトセは恐怖の絶叫を上げて、しかも空中で暴れ出す。
 そのため、彼らは空中で大きくバランスを崩し始めた。
「千代田あああああ!」
「チトセさん落ち付いてえええええ!!!!」
「嫌あああああ!!!!!」
 と叫びながら、空中で激しく身体を動かす3人。
 その落ち方を見て、マヤは内心に突き上げた衝動のまま行動する。
「あぶな〜い!」
 と叫んで、彼らがまだ空中にあるうちに足から飛び出したのだ。
 直後、シゲルたち3人は……

『びった〜ん!』



 という死ぬほど痛そうな音とともに、カエルのように腹から水面に落下。
 その一撃で、マコトとチトセは意識が遠のいて行った。
 そして。
「痛ェ! くそ〜! 千代田バカ!」
 と、悪態を付きながらゆっくり浮いて来たシゲルに……。
「シゲルく〜ん!避けてえええええ!!!!」
 という絶叫もろとも、水深30センチでマヤのハイアングルドロップキック炸裂。
 つまり……。
エイジく〜ん! 今度はみんな浮いちゃったよ〜!
駄目だこりゃ

 という、観客は大ウケ、本人たちにして見ればたまったものではない状況がいつもの如く完成した訳である。


「あ〜、楽しかった!」
 大きく伸びをしながらマヤが叫ぶ。
 それを受けて、
「ま、いろいろあったけど」
「あれくらいは許容範囲だろ」
 と、マヤが騒動を起こすのは当たり前という諦念を込めつつ、マコトとシゲルが言い合う。
 もっとも、水面激突の衝撃と日焼けで目の下や鼻をすっかり真っ赤にしてしまったチトセはため息交じりにこう呟いたのだが。
「……ちょっと顔が痛いけど」
「自業自得」
「エイジくん? あなた何が言いたいのかしら? ん〜?」
「いえいえいえ滅相もございませんチトセさま」
 そのいつものやりとりを見て、シゲルたち3人は小声で囁き合う。
「しかしさあ……」
「エイジくん、ち〜ちゃんを異常に恐れてるわよね」
「どうも小さい頃、お姉さんにさんざんひどい目に合わされたのがトラウマになってるらしいんだよ」
 マコトがそう言ったのが口火になって、3人は三者三様に『さんざんひどい目』を想像する。
 そして。
「一体エイジの姉貴ってどういう生物なんだろうな……」
「『坂本のお仁王様』とか……」
「巴御前とか……」
お蝶夫人とか……」

 5秒経過。

「マヤちゃん」
「それは『姉貴』じゃなくて『お姉様』なんじゃねえの?」
え? じゃあ、宗像コーチ?
「いや」
「そういう意味じゃなくてだな……」
 かくして3人の話がもはや本来の議題を大幅に逸脱しかけていた頃。
「さて、どうする? 解散すっか?」
 エイジが夕方の5時を指している時計を指差してそう言った。
 それにマコトが応じる。
「う〜ん……ビアガーデンでも行かない?」
「お、いいな」
「基本よね」
「やった! ごは〜ん!」
 ところが。
「あ、オレ、パス」
「どしたよ、シゲル」
「悪ィ……今度のバイト料入るまで金欠なんだよ。家賃払ったばっかりでよ」
「夕飯はどうすんだ?」
「ああ、まだ米がなんぼか残ってるからよ、それに茶ァでもかけて……」
 直後、マヤがシゲルの正面に進み出て、珍しく強い口調で彼を叱り付ける。
「駄目よシゲルくん! ちゃんとご飯食べないとお腹が空くでしょ?」
「でもよ……」
「駄目って言ったら駄目! たまにはおごってあげてもいいから、一緒に行きましょ!」
 そう言いながら、マヤはシゲルの腕をぐいぐい引っ張る。
 が……シゲルにはマヤのその精一杯の気遣いが、かえって痛かった。
 彼は頭の中が、驚くほど古風な人間である。女の子に飯をおごらせるなどというものは、彼には絶対肯定できかねる行動なのである。
 高校時代までなら、間違いなくシゲルは次の瞬間怒り狂って、理屈をがなり立てていたはずの所なのだが……彼は沈黙する事しか出来なかった。自分を救ってくれた、自分を取り戻させてくれた彼らを失いたくなかったから。
 それを完全に理解していた訳ではないが、その様子を見てシゲルの気持ちをそこはかとなく察したマコトは、次の提案をする。
「じゃあさ、ウチで飯食ってきなよ、みんな」
「え?」
「でも……」
「いいのいいの! ウチの夕飯ってたいてい父さんのダチやら母さんのダチが来てるから、いつもと変わらないよ!」
「へえ……」
「そんなの、まだこの辺りにもあるんだ」
「でも、手ぶらって訳にもいかないわよねえ……よし!」
 チトセはそう言うと、腕組みをしながら一同に告げる。
「会費300円! それで何か見繕って、私が一品作るわ。それなら大丈夫でしょ? シゲルくん」
「お、おう」
 かくして、一同はチトセに300円づつを支払う。
 それを手に、チトセはさらにこう言う。
「じゃあ、私はそこらの店でおかずの買い物するから……みんな、適当にどこかで休んでて」
「あ、ボクも付き合うよ、チトセさん。ここなら顔も効くし」
「はいはい、値切り要員ね。よろしく、マコトくん」
「ま〜かせて!」
「なら、おれはちょっとCD屋見てくるわ」
「あ、オレも行くぜ、エイジ」
「じゃあ、わたしも〜!」
 それを受けて、チトセは一同にこう告げる。
「それじゃあ……そうね、6時にここに集合って事でいいかしら?」
「おう」
「了解!」
「は〜い」
「へいへい」
 かくして5人は2人と3人に別れ、それぞれに行動を起こし始める。


「エイジ、何買うんだ?」
「いや、アテは無ェさ。そういう買い物の方が面白ェだろ」
「まあ、な」
「そういう物なの?」
 首をひねりながらマヤがそう呟く。
 それに対するエイジとシゲルの返答はこれだった。
「あ〜、ほれ」
「オレらはさ、聴くのがひねてるからよ」
「ふうん……」
 ところがその時、彼らに意外な事態が起こる。
「おい! ちょっと! 君!」
 と、何者かに厳しい口調で呼び止められたのだ。
 一同がそれに反応して振り返ると、そこにいたのは。
 警察官。
「はい?」
「はい? じゃないだろう! 君だよ君! 上着くらい着なさい!」
 そう。
 彼の目に『あからさまに怪しい人物』と認識されたのは、もちろんエイジだった。エイジはプールから上がった後も、短パン一丁で街を歩いていたのだ。
 1日中エイジがそのような格好でいたため、シゲルもマヤもそれに慣れてしまい、怪しいとも何とも思わなくなってしまっていたのである。
 もっとも、エイジの不必要に鍛え上げられた筋肉を恐れて、シゲルたち以外はミサトを除いて誰も近寄ろうとしなかったという事情も当然そこには介在するのだが。
 ともあれ、この己の職務に忠実であろうとする警察官は、上半身裸の怪しいマッチョに向けて、さらに言葉を続ける。
「そのバッグの中を見せてもらいたい!」
 そう言いながら、エイジが手にしている黒いバッグに手をかけようとする警察官。
 だが。
 その瞬間、エイジはそれを警察官の手から遠ざけた。
 そして、明らかに機嫌を損ね始めた警察官に向かって、挑発の意図を隠そうともせずにこう吐き捨てる。
「見せたくねえな」
「お前、何様だ!? あん?」
 権力をかさに来た人間特有の鼻持ちならない態度とともに出たその言葉を聞いて、エイジはますます怒りを加速させ、無表情な声でこう返答する。
「人間」
「お前は誰だと言ってるんだ!」
「じゃあ、あんたの名前は何だよ」
「答える必要は無い!」
 その直後、エイジは煙草を取り出して火を点けると、ダルそうに煙を吐きながらこう呟く。おちょくりの意図を隠しもせずに。
「それはオカシイんじゃねえの? 初対面なら互いに名乗るのが最低の礼儀ってもんだろ?」
「立て付くのか! 貴様!」
「礼儀知らず」
「何!?」
 そう言い合いながら、今にも額がぶつかりそうな至近距離でメンチを切り合うエイジと警察官。
 ことここに至って、シゲルはさすがに事態を収拾しないことにはヤバイと感じ、咄嗟に換えのTシャツを取り出してエイジの頭からかぶせ、まるでマコトのように調子のいい声でこう叫ぶ。
「すんませんねえ〜。こいつ、プールでおねえちゃんひっかけるつもりが妹のお守りさせられて、気が立ってるんスよ〜。いや、マジすんません! ほら、行くぞエイジ!」
 そう言いながら平身低頭するシゲルの態度にそれなりに満足したのか、警察官は不承不承ながらこう吐き捨てる。
「……まあ、今度だけは勘弁しといてやろう」
 そこに、よせばいいのにエイジが即答する。
「こっちこそな」
 シゲルはその瞬間エイジの後頭部を全力でどつき、とにかく何度も警察官に頭を下げながらエイジを無理矢理引きずってその場を離れる。
 マヤもそれにならい、顔から冷や汗を流しつつも、
「すみません、すみません、すみません!」
 と何度も叫びながら警察官に頭を下げ続け、その場を立ち去った。


「あのなあ、エイジ……」
「何だよ。おれは何を言われても態度を改めねえぜ。公僕のあの威張り腐った態度は絶対許せねえ」
 まだ煮えくり返ったはらわたが冷めていない態度で、エイジはそう言い切った。このようにエイジが怒る時というのは、一見のべつまくなし何にでもケチをつけているように見えるが、その多くに立ち会っているうちにシゲルには一つわかった事があった。
 エイジは、『筋が通らない事』に対して凄まじく厳しい人間なのだ。
 入学式の時に彼が吐いた暴言も、実は彼が周囲の人間を見極めるために故意に喋った事だったのだとシゲルは判断している。
 そうでもなければ、あの暴言を肯定した人間に、
「けっ」
 などと吐き捨てるような事はしないと。
 まあ、逆にそのため苦労する事もあるのだが。
 それを、シゲルはこういう表現で口にする。
「ま、オレだけの時ならいいけどよ、今日みたいな時は伊吹にまで迷惑かかるだろ?」
 そう言いながらシゲルが指差した先には、頬を膨らませてムッとしているマヤが立っていた。
「あ……」
「気ィつけな、エイジ」
「そうだな」
 エイジは頭を掻きながら、そう呟いた。
 ところがその直後。
「青葉……くん?」
「嘘! 信じらんない! マジでいた!」
 という、マヤ以外の何者かの声がかかり、反射的に彼は振り向く。
 そして、それを確認した言葉の主たちはこう叫ぶ。
「やっぱり青葉くんだ!」
 その姿を見て、シゲルは素直に思った事を口にする。
「あの……どこのどなた様でしたっけ?」
「覚えてないの? 高校で一緒だったじゃない」
「そうそう」
 わかるかよ。
 シゲルは自分の身体が次第に不機嫌で満たされていくのを覚えながら、心の中でそう呟いた。
 全員が判で押したようにセミロングのソバージュ。まだ20歳にもなっていないのに顔を真っ白に固めた不自然なファンデと、水商売の女のような下品ないやらしさすら感じる口紅とシャドウ。流行りという名の怪物に心身ともに食い潰され、皮肉にも校則という縛りがあった高校時代には多少感じられた『個性』というものを完全に喪失した中身のない人間の醜い姿。
 それは……彼に高校時代の誰彼かまわず挑発し、怒り狂っていた異常な精神状態を思い出させるのには十分過ぎる光景だった。
「ね! 見付けたからには来てもらうわよ! 今日こっちに来てるみんなが集まるっていうのは聞いてるでしょ?」
「知るかよ」
「嘘〜。ハガキ来たでしょう!」
「見もしねえで捨てた」
「え〜!? でもいいじゃない。 どうせ暇なんでしょ」
「忙しいよタコ」
「でも〜、あの娘も来てるんだよ?」
「そうそう。青葉くんこないと寂しがると思ってさ〜、わざわざここまで探しに来たんだけど〜」
 その瞬間、シゲルの時間が確かに止まった。
 その言葉が指している人間が誰なのかを、完璧に理解し、そして……『彼女』が何を考えているのかわからなくなって、頭がショートしたからだ。

『ねえ、この問題、どうやって解くの?』

『そっか。青葉くんだったら、どこでも行けるわよね』

「……冗談じゃ」
 シゲルが震える声でそこまで言いかけた時に、いきなりマヤが彼の右腕にしがみつく。呆気に取られている一同に向けて、マヤは珍しく本気の不機嫌を声に乗せて、こうまくしたてた。
「シゲル君は、これからわたし達とご飯を食べに行く事になってるんです! 失礼します!」
 そしてそのまま、シゲルの腕を無理矢理引っ張るようにして、ソバージュおばけどもから遠ざかって行く。
 それを見て、ソバージュおばけどもは悪態をつく。
「何よォ、アイツ」
「全然変わってないわよね〜、サイッテ〜」
「ホントホント」
 それは、それまで耐えていたエイジを切れさせるのには十分過ぎる暴言だった。エイジは煙草に火を点けると彼女らの顔に向けて煙を強く吹き付け、抑揚の無い声で……そこに究極の怒りを載せて。
 こう、口を開く。
「……お前らな。シゲルにケチ付けるんだったらよ、あいつのせめて半分でもてめえの目でこの街を見てからにしろや」


「おい、伊吹……一体どうしたって言うんだよ」
 シゲルのその言葉を聞いても、マヤは一向にシゲルの右腕を離そうとしない。
 猛烈な早足でシゲルを引きずるようにして、商店街をチトセたちのいる食品店並びのところに向かって行く。
 そして、食品店並びの前まで来た時にようやく立ち止まった。
 しかしまだ腕は放さない。
「伊吹……おい」
「怖かった」
 ひどく怯えた表情をしているのを自覚していたマヤは、故意にシゲルから視線を逸らしてそう呟いた。
 そしてシゲルも、
「!」
 と、言葉にならない短い叫びを上げたきりその場で固まってしまう。
 マヤはそこからさらに言葉を継いだ。
 視線を逸らしたまま。
「マコトくんやエイジくんと居る時はいつも笑ってるのに……本気で怒ってるとこなんか見たことないのに、あの人たちに合ったとたんにシゲルくん、おかしくなった」
「…………」
「だからこうしたの。あの人たちといたら、シゲルくんがそのままどんどん怖くなって、わたしの知ってるシゲルくんが居なくなるような気がして……」
 女の勘は鋭い。
 シゲルは今まで、そんな言葉は手垢にまみれた嘘っぱちだと思っていた。だが、マヤの言動を見てそれが間違っていることに気付いた。
 この言葉は、真実だからこそ手垢にまみれるほど繰り返されて来たのだ。
 そして……。
 今まで一方的に迷惑をかけられていたと思っていたマヤが、彼を狂気の世界から強引に連れ戻してくれたという事実。それは、彼にとっていままでの貸しを相殺して余りある行為だった。
 そんな感謝の思いを込めて、シゲルはマヤの頭に手を乗せ、静かに、かみ締めるようにこう言う。
「大丈夫……オレは、絶対ここから、みんなのトコからいなくならねえよ」
 その言葉の直後、マヤがようやく彼の目を見てこう言う。
「約束してくれる?」
「ああ、約束だ」
「絶対ね?」
「ああ、絶対だ」
 直後。
「あらあら」
「どこのバカップルかと思ったら、お前らか〜」
 買い物を終えたチトセとマコト参上。
 そして瞬時に離れるマヤとシゲル。
 その様子を10メートルほど先から見ていたエイジは、煙草を取り出しつつ、一人呟いた。
「やれやれ……こっちはもうちょい、時間がかかるかな……」


 商店街から徒歩5分の、少し古びた町並みの中の小さな鉄工所。
 そこが、マコトの家だった。
 マコトに先導されるまま、4人は旋盤が並び、機械油と溶接棒の焼ける匂いが入り混じった空気に支配されている作業場に入って行く。
「ただいま〜。父さん、友達連れて来たよ〜」
 マコトがそう言ったのを受けて、それまで溶接にかかっていた中年の男性が顔を上げる。
 そして彼は、長年現場仕事を続けた事の証明である、硬く固まった掌の皮に真っ黒な油の汚し塗装をかけたまま、気さくで気風のいい大声を張り上げる。
「おう! そうか! 上がれ上がれ!」
「はい、お邪魔させていただきます」
 そう言って丁寧に頭を下げたチトセの背中を、マコトの父は思いきり一発張る。
「ほれ! 遠慮すんな! マコトのダチなら、ここはお前らの家と思ってもらっていいんだからよ!」
「は、はあ……」
「さ、仕事の邪魔でぇ! 上がれ上がれ!」
 予想以上にテンションの高いマコトの父の言動に圧倒されながらも、一同は作業場の奥にある自宅に向かう。
 そこには。
「あら〜! いらっしゃい! よく来てくれたわね〜!」
 さらにテンションの高いマコトの母が。
 マコトの母は、顔にマヤ以上に屈託の無い笑みを浮かべて、全員の手を両手で握り、全力で振り回すと、唖然としている一同に向けてさらにこう言う。
「さ、すぐにご飯にするからオトコどもは座ってなさい! それから……」
「あ、あの……お母様?」
「あら、あなたずいぶん気が早いわね?」
 マコトの母の絶妙のおちょくりを受けて、チトセは顔を真っ赤にしてこうまくしたてる。
「いや、ですからその、お邪魔するだけじゃ申し訳無いと思いまして、ちょっと買って来たものがあるんで、それを作るのに場所をお借りしてよろしいでしょうか!」
「もちろんよォ! これで『今日も手抜きか?』なんて言われずにすむもの〜! ええと……」
「ち、千代田です。千代田チトセ」
「じゃあチトセちゃんはこっちの方を使って! それからこっちの……」
「い、伊吹マヤ、です……」
「そう! マヤちゃんは私のお手伝いをしてくれるかしら?」
「は、はい!」
 その会話を茶の間で聞きながら、シゲルとエイジは思ったままの事を口に出す。
「マコト……」
「お前がそういう性格になった理由が、今よくわかったよ……」
 それに、マコトは苦笑交じりでこう応じる。
「しかも、『嫌と言う程』だろ?」
 2人は無言でそれに頷いた。


 かくして30分後。
 仕事を終えたマコトの父も入れて総勢7人となった一同の前に並んだ料理は、水ギョーザ、ツナと塩もみキュウリの和え物、焼きナス、新じゃがの煮っ転がし、千切りにしたジャガイモをさっと茹でて作ったシャキシャキサラダ。
 いずれもこれでもかとばかりに大量生産がかけられており、欠食青年どもに死ぬまで食えと魂の叫びを上げている。
「うわあ……」
「お見事」
 マコトとエイジはそう感嘆の声を上げ、シゲルは、
「に、人間らしい食いモンを久々に見たぜ」
 と、心底嬉しそうに呟いた。
 それを見て、マコトの父はまたしても手加減なしでシゲルの背中を一発平手で張り、こう叫ぶ。
「そうかそうか! さあ、遠慮すんな! 食え!」
 さらにマコトの母がこう言葉を継ぐ。
「ご飯がいいかしら? それともビール?」
 それに一同はこう返答する。
「両方!」
「はいはい……」
 かくして数分後、全員が着席した所でマコトの父は両手を顔の前で合わせ、こう叫ぶ。
「いただきます!」
 それに全員が返答を返した直後、テーブルの上を激しく箸が行き交う。
「ああ、美味い!」
「あら、良かったわ……」
「ああ、このギョーザはチトセさんか」
「そ。まあ、皮は出来合いだけどね……」
「でも美味しいよ」
 一方。
「お、このサラダは面白いな」
「そう! さ、シゲルくん、遠慮なく食べてね!」
「え? これは伊吹が作ったのか?」
 本気で驚いているシゲルに、マヤは舌を出して苦笑しつつこう応じる。
「あはは……作業はわたしだけど、マコトくんのお母さんに教えてもらいながらだから」
「ふうん……」
「でも包丁はきちんと使えたじゃない! 後は味付けとバリエーションの修行よ! マヤちゃん!」
「は〜い!」
 そしてエイジがその直後、こう呟く。
「お、味がよく染みてるなあ、このジャガイモ」
「おう! それはよ、朝のうちに煮て鍋ごと夕方までタオルに包んで置いとくんだよ」
「?」
「そうすりゃあ煮込みを短くして材料の食感を残したまま味が染みるって訳だ」
「お父さん、あなたがやった訳じゃないでしょ?」
「まあ、気にすンなよ!」
 そう言いながら無駄に爽やか過ぎる笑顔を浮かべるマコトの父。
 その表情を見て、『親子だなあ……』と思いながらも、エイジとチトセは感嘆の声を上げる。
「はあ……」
「そうだったんですか……勉強になりました」
 それに、自慢はしているが嫌味がまったく無い声でマコトの母が応じる。
「まあ、こういうのは年の功がモノを言うのよね〜。でも、チトセちゃん、なかなかいい腕してたわよ!」
「はい、ありがとうございます!」
 直後、ナスに箸を伸ばしたマコトが呟いた。
「おっ! ナスもちゃんと香りが残ってる」
「ああ、それはね、水につけないで熱いうちに気合い入れて一気に皮を剥くといいのよ」
 チトセのその言葉を受けて、一同は揃ってナスに箸を伸ばす。
「おお!」
「確かにこれは……」
「チトセちゃんがそうした方が美味しいっていうから任せたんだけど、本当に美味しいわね〜」
「これでおあいこよね〜、ち〜ちゃん!」
「あはは……」
 照れ笑いを浮かべるチトセに、マコトの母は満面の笑みでこう提案する。
「そうね。チトセちゃん、これからも時々来ていろいろ教えてくれるかしら? 私も知ってるのを教えるから」
「はい、喜んで」
「あの、わたしも来ていいですか?」
「もちろんよォ! マヤちゃんも是非来てね!」


 かくしてテーブル狭しと並べられた料理が見事に轟沈され、一同に程よく酔いが回った頃、シゲルはふと茶の間の隅に目をやった。
 そこにあったのは、彼が伝聞でしか知らなかったあるフォークギター。
 国産初の、そしていまだに多くのミュージシャンが愛用しているフォークギター。
「……オヤジさん、あれ、FG−180?」
「おう、昔使ってたんだよ」
 それを聞いて、シゲルは目を光らせ、こう叫ぶ。
「昔、演ってたんスか!」
「おう、それこそ『新宿フォークゲリラ』の頃の話だがよ」
「そうそう! 長髪だったんだから、この人」
「今それやったら落武者だけどね」
 マコトの絶妙のツッコミを受けて爆笑する一同。
 さらに、
「黙れマコト!」
「あ痛っ!」
 と、息の合ったやりとりを見せるマコトとマコトの父。
 そんな光景を見ながら、シゲルは心の中に1度突き出されたナイフがしまわれ、剥き身のナイフで出来た傷が静かに、そして確実に癒えて行くのを実感していた。
 マコトは家族に愛され、そして家族を愛している。
 そして……だからこそマコトの父もマコトの母も、初対面の自分たちに10年来の友達に対するそれのような無償の愛をくれる。
 それは、彼が自分の家族に望みながら叶わなかったものだった。
 しかし、ここにはそれがある。
 そして、友もいる。
『オレは……この街に来て本当に良かった』
 シゲルは、心の中でそう呟いた。
「シゲル」
「? どしたよエイジ」
「な、これ借りて一発演らねえか? こっちのブルーズハープはおれが吹くからよ、アドリブで適当に」
「そだな……」
「何にする?」
 エイジのその問いに、シゲルは今の気分をそのまま表現出来る音楽として選んだものを口にする。
「カントリー、いや”RAG”! いいか? エイジ」
「OK!」
 エイジが上機嫌でそう返答したのを受けて、シゲルは椅子に座って、FG−180の感触を確かめた。物は古いが手入れは行き届いている。チューニングもぴったり合っている。シゲルは指先から、楽器メーカーが製品に込めた愛情と、マコトの父が必死の思いで買ったであろう『宝物』へ注いだ愛情を確かに感じた。
 それが、自分に力を与えてくれる。
『宝物』を大事に大事に扱う、そんな気持ちが。
 シゲルは一同の顔を見回しながら、そう思った。
 そして、彼は演奏開始を告げる合図を叫ぶ。
「あらよ〜い!」
 そして、ピックを使わず指で、つまり『柔らかい音』を意識しつつメロディラインを爪弾きつつ、右足でリズムを取る。
 それを見ながら、エイジがアドリブで和音を取ってサポートに回る。
 やがて彼らはアイコンタクトで主客を逆転させ、シゲルがコードを奏で、エイジがブルーズハープを『叫ぶ』。
 さらにその後、シゲルは弦から手を放し、ギターを叩きつつ足も同時に動かしてリズムのみを奏で、それを立てながらエイジが時々音を入れて行く。
「ね、ち〜ちゃん」
「?」
「2人とも、すごく楽しそうよね」
 マヤが『本当に良かった』と顔に書いてしみじみとそう呟いたのを受けて、チトセはこう答える。
「本当……私たち全員の気持ちがそのまま乗ったような演奏よ」
 後年、この時のでたらめアドリブRAGは『溶岩道路RAG』と名付けられて世に出る事になるのだが……それにはあと12年の歳月を要する事になる。


「それじゃあレナちゃん、お休み〜」
「はい」
 事務所の車で自宅のマンション前まで送られて来た赤い瞳の少女は、無機質な声でそう呟く。
 その直後、車は軽快なエンジン音を立てて走り去って行った。
 それを無言で見送った少女は、肉体的なそれ以上に精神的な疲労を激しく感じ、その場にへたり込んでしまった。
 その直後。
 どこからともなく、フォークギターとブルーズハープの音が彼女の耳に飛び込んで来た。
「……楽しい音……」
 彼女は今日始めて心からの笑みを浮かべてそう呟くと、それにしばし聞き入っていた。
 この演奏が永遠に聞こえていればいい、と思いながら。
 この演奏が自分に暖かい癒しを与えてくれているのがわかったから。
 しかし……その演奏はほんの数分で終わりを告げる。
 その直後、彼女は散歩に連れて行ってもらえない犬の顔をして、
「あ……」
 と呟いた。
 そして、その瞬間、彼女は『現実』に引き戻される。
「歌いたくない……楽しくない歌なんて、自分の声が出せない歌なんて、歌いたくない……」
 彼女はそのままうずくまって、しばらく立ち上がろうとしなかった。
 年齢にすればまだ中学生の彼女には、今の自分を取り巻く過酷な現実を抱え切る事などとうてい不可能だったのだ。


 昭和63年、夏。
 まだ彼らにとっては、出会いの季節だった。
 自分の周りに、自分を支え、押し上げてくれる人間がどんどん増えていた。
 それは幸運そのもので、あらゆる人々にとってあるべき季節だった。


 それがあるから、人は歯を食いしばって厳しい現実に耐えて行くのだ。