「自由行動、なんだな」
青葉シゲル、17歳。
修学旅行中、酒盛りをして暴れるのにも疲れ果てた頃に翌日の日程表を見て、彼はそうつぶやいた。
『国立博物館見学』の脇に括弧書きされた『自由行動』の文字。
常識的に考えて、それは名目上のものである事に疑問の余地は無かったが、彼はあえてそれを黙殺した。
彼は、そんな物よりももっと見ておきたいものがあったのだ。
そして、彼は翌日、上野駅で降りなかった。同級生の愕然とした顔を軽く受け流してそのまま神田まで行き、そこから総武線に乗り換えて御茶ノ水に降り立ったのだ。
駅を降りた瞬間、彼は息を呑んだ。
そこにあったのは、上野のしかも上野公園の敷地内のような『観光地』の東京では無かった。さまざまな学校の、さまざまな会社の、さまざまな人間が気まま勝手に行動する事が生み出す、雑然としていて、そして力強い空気を持った……『本物の東京』があった。
少なくとも、彼はそう感じた。
ともあれ、彼は当初の目的……中学に入りたての頃に親に買ってもらった中古で五千円のレスポールの代わりの新しいギターを物色するために、緩やかな坂道を降りながら、立ち並ぶ楽器店を片っ端から回って行くことにした。
そして、その最初の店で彼は愕然としながらこう叫ぶはめになった。
「……嘘だろ!? 何だ、この値段は!? 安すぎるぜ、おい!」
彼の生まれ、そして育った街でギターといえば、マーチンの安いアコースティックがせいぜいだった、彼の欲する最新のレスポールやギブソンのものなどは、取り寄せによって定価で手にする他方法は無かったのだ。
そのため、彼は高校に入りたての頃から部活動は一切行わず、それらを買うためのアルバイトに明け暮れた。そうこうしているうちに、資金は1年弱で溜まったのだが……その直後、『楽器店のメッカ』と呼ばれるこの街の噂を耳にしたため、アルバイトのシフトも抜かず、ひたすらに金を貯め続けたのだ。
『最高級品が苦も無くすぐ入手出来、すぐ自分が使える』という事に魅力を感じて。
その期待にたがわぬ、この街の姿に彼は興奮を隠せなかった。
「凄い……凄過ぎる!」
そう彼がつぶやいたところで、店頭でのデモ演奏が始まる。
そしてその音を聞いた瞬間、彼はそうやって熱くなった自分の頭が、身体が一気に冷えるのを自覚する。その演奏は『ただのギター好き』でしか無かったシゲルの演奏をはるかに凌駕するものだったのだ。
しかも、『ただのギター好き』とはいえ、彼は自分の演奏にはそれなりの自負を持っていた。少なくとも仲間内では彼が間違い無く一番上手かったし、だから天狗になって『突き詰める』域まで演奏をしていなかったのだ。
そして、その厳然たる事実を今まざまざと見せつけられた。
己がしょせん、『井の中の蛙』でしか無かった事を。
結局シゲルは、買うはずだったギターはおろか、何一つ買わずに御茶ノ水を去った。
彼はこう思ったのだ。
『……世の中は広い。この街は、それを実感できる場所だ。クソド田舎のオレの街とは違う! オレはこの街で生きてみたい! 暮らしてみたい! 高いギターなんざ、今のオレにはいらねえ。今のオレに必要なのは、この街で生きる力と、そしてそのための金だ』
彼は修学旅行から帰った直後から、前にも増してアルバイトを詰め込んだ。
そして、昼間は何者かに取り憑かれたかのように勉強をした。
あの街……『東京』で生きるために。
「青葉……この進路希望なんだが、とうてい今の成績じゃあ無理だぞ」
高校3年になって最初の進路相談で、担任教師は苦虫を噛み潰しながらシゲルにそう告げる。
それに、シゲルは面倒くさそうな態度でこう答えた。
「その言葉を言うなら、今回の模試の結果……数学が消えた模試の結果を見てからにしてくれ」
その態度に立腹した担任教師は、シゲルの頭を一発殴り飛ばし、説教を開始する。
だが、無論シゲルはまったくそれを聞く気にはならなかった。ただただ右から左にそれを聞き流し続けた。それが担任教師の説教を更に長引かせたのだが、それを気に留めることも一切無かった。
すぐに、彼の言った『模試』の結果が出たからだ。
それを見て、誰もが目を疑った。
今まで模試結果の上位に顔を出しても下の方だったシゲルが、いきなりトップになっていたのである。
今まで『国語・数学・英語』だった模試が3年で私立文系型の『国語・英語・日本史』になった結果だった。彼は『東京』に行くために、元々苦手だった数学を完全に捨てていたから、結果としてそうなったのである。
その直後、シゲルは担任教師に会いに行った。その時に、担任教師はそれまでの態度とは打って変わって、愛想笑いすら浮かべてこう言ってみせた。
「いやあ、青葉、期待してるぞ!君は、うちのクラスのエースだからな!」
しかし、当然ながらその言葉を、青葉は絶対零度の冷ややかさで受け止めた。
教師とて、『成績と昇進』に追われるサラリーマンに過ぎないという事実を目の前に付きつけられたと思ったのである。
もっとも、これをきっかけにいい事も起きた。
教師たちが、彼の『問題行動』をことごとく黙認するようになったのである。
校内で……時には職員室の前ですらギターをかき鳴らし、髪を『校則違反』の域まで伸ばしても、気に入らない授業を聞き流しても誰も咎めない。正確には、その『気に入らない授業』をやった教師を授業中に論破し、その教師のプライドと立場を完膚無きまでたたきのめしてしまったため、だったのだが……彼はその事をひどく冷酷に受け止めた。
そして、友人関係にも激しい変化が起こった。
今まで友達だと信じていた人間の態度が、悉く掌を返すかのように冷淡になったのだ。その理由は、彼の『必然』としての急激な成績上昇を誰も必然として受け止めていなかったゆえの惨事だった。そこにあったのは、言い知れぬ暗黒でしかなかった。
そしてその事が、彼の『東京』への思いをより強く、強固なものにして行った。
勉強と、バイトと、ギター。
それが、彼の高校生活最後の一年間にあった、全てのものだった。
そして、受験の季節が来た。
彼が受けたのは、無論全て都内の大学だった。
さらに言うなら、御茶ノ水に出来るだけ近い学校だった。
文句無くどこかには合格出来るだけの学力があると、彼は自負していた。事実、入試問題も難なく解答出来た、と思っていた。
最初に受けたすべり止めの、一番出来が悪かったはずの所に自分の番号が存在していたのを確認して、シゲルはその思いが確信に変わった。
だが、世の中はそんなに甘いものではない。
肝心の第一志望校や、学校の雰囲気が気に入った第二志望の学校は、合格した学校よりも出来が良かったと思えたにもかかわらず、彼は落ちていた。結局彼が合格したのは、最初の1校だけだったのだ。
だが、その程度の『挫折』で彼から強烈な自尊心を奪い去ることは出来なかった。むしろ彼は、その状況を喜んですらいた。
「やっぱりこの街は凄い。この街は広い……オレの前には、そんな凄い奴が山ほどいるんだ!だが、きっとオレはそいつらと渡り合ってみせる!」
だが。
「シゲル……合格したはいいが、すまんがうちの今の状態では……」
父親と母親が、シゲルを前にそう言ったのは、合格を確認して帰って来たその日の事だった。それをあくまでも無表情で聞いていたシゲルの態度に、承服しかねるという感情を感じたのか、母親がさらに言う。
「お兄ちゃんの学費で、もう手いっぱいなのよ」
シゲルは、そこに向かって、黙って一冊の預金通帳を差し出した。
引越しの費用はおろか、入学金、授業料すら賄ってもなおかつ余る金額が書き込まれたそれを。
唖然とする両親に向かって、シゲルはこう言う。
「どうせそうなると思ってよ……ずっとバイトしてたんだよ。このためにな。オレは、意地でもあの街で生きる。これから先の人生は、自分の力で、自立して生きて行く。あなた達には、頼らなくても大丈夫だよ」
吐き捨てるようにそう言い残して、シゲルは両親の前を立ち去った。そして、自室に閉じこもると、壁を一発殴りつけてからこうつぶやく。
「この街はオレにケチ付けるためにあんのか? どいつもこいつも、オレの邪魔ばかり! いい加減にしやがれ!」
もうここには一瞬たりともいたくない。
彼の生涯において、それは決して変わる事のない思いとして貫かれた。
強く、激しく、そして陰惨な生まれ故郷への呪詛。
そして、4月。
学校のある、東京郊外のまだどことなくのどかさを感じさせる学生街に彼は部屋を借りた。家賃四万円、六畳一間、風呂なしの築20年のおんぼろアパート。それが、シゲルの『城』となった。
その、狭く小さく、だが何よりも自由な『城』から、着慣れないスーツを着て飛び出して行くシゲル。
その日は、大学の入学式だったのだ。
知り合いなど誰もいない入学式。それでも彼は、
「最初くらいは真面目にやっとくか」
という思いで静かに学長の話を聞いていた。
学長は、
「諸君らは希望を抱いて当校に入学し……」
と話を始める。
そこで、シゲルの隣にいた、短髪で筋肉質で大柄な……そしてエネルギッシュで殺気すらこもった肉食獣を連想させる目つきをしている、いかにも体育会系の人間がいきなりこう呟く。
「半分くらいはそうじゃねえけどな」
その言葉を聞いて、シゲルは不快なものを感じたが、とりあえず黙っていた。
さらに学長の講話は続く。
「学問の深さを見てそれに精励し……」
それを受けて、またしても隣の人間が呟く。
「真面目に勉強する奴がここに来るかよ」
その言葉を聞いて、周囲の人間が数人吹き出した。
しかもその中には、
「そりゃそうだよね……」
「当然だわな」
などと言い合っている者もいる。それを受けて、呟きの元になった人間は、
「けっ」
と吐き捨てて、居眠りをする姿勢を作ろうとする。
その状況は、東京という街に底の深さと怪物のような人間たちの存在を思っていたシゲルには我慢がならないものだった。
こんな奴らばっかりがいるんじゃあ、田舎と変わらねえ。
彼の中で、そんな怒りが明確な形になって爆発してしまう。
彼はやにわに隣の人間に向かって、殺気じみた口調と視線を持って、こう言う。
「うるせえぞ。黙ってろ」
それに対して、隣の人間も同じような調子で応じる。
「寄るなロンゲ。うざってぇんだよ」
その言葉で、シゲルの中で押さえられていた怒りが爆発してしまう。
「ンだとコラあ!」
と叫ぶと、自分の座っていた椅子を蹴り付け、隣の人間の胸倉を掴み上げようとしたのだ。しかし、隣の人間は差し出されて来たシゲルの手首をいともたやすく捻り上げると、こう凄む。
「こんなの聞いてる馬鹿いねえんだから、どうでもいいじゃねえか? ん?」
「そういう態度が……不愉快だっつってんだよ!」
シゲルはその叫びとともに、目の前の相手のみぞおちに強烈な膝蹴りを見舞う。そして、それで手首が外れたのを確認すると、そのまま殴りかかろうとした。
だが、それはひるんだ筈の相手の、丸太ん棒のような腕から打ち出されたボディブロー……しかも意趣返しとばかりにみぞおちにたたき込まれたそれによって阻止されてしまう。
「ぐだぐだ言ってンじゃねえ!」
「ざけんな!」
その言葉を合図に、両者はそれぞれの椅子を持ち上げ、それを振り回して本気のケンカに突入しようとしていた。
それを見て、慌てて大学の職員が止めに入ろうとする。
その直後だった。
「入学やったぜ!イエ〜!!!!」
という叫びとともに彼らのすぐ前方の人間たち20人以上が、クラッカーやら爆竹、果てはロケット花火まで打ち上げ椅子を蹴り上げて、さらにはそれを合図にディスコ・ミュージックすら流れて来た。
あまりの出来事に呆然としているシゲルとその隣の人間を尻目に、その集団は周囲の人間に片っ端から、
「ほらほら、立った立った!踊れ踊れ踊れ!」
と促して、混乱を助長する。
しかもそれを見て、あちこちから自発的に椅子を蹴って立ち上がり、踊り出す連中まで出てくる始末となって、入学式はたちまちのうちに収拾不能のサバト状態になってしまった。
その混乱に乗じてシゲルはその場から首尾よく逃走し、入学初日にいきなり停学という事態は辛うじて回避する事が出来たのであった。
「ったく……初日から何てえこったい」
アパートに帰り着いての彼の第一声は、それだった。
その、『収拾の付かない混沌』もまた、東京という街のひとつの顔であるという分析を下すには、まだ彼は若過ぎた。
その時の彼の頭にあったのは、東京という街に対する疑念だったのだ。
その翌日。
オリエンテーションのために学校に行き、書類を受け取った一年生を待っているのは、サークル勧誘の大津波である。たいがいの男の場合、女の娘と知り合う機会の多いスポーツ系の『ちゃらい』サークルに入るのが常なのだが、シゲルは入学式の一件を体験して、そういう所の空気は自分になじまないと思い始めていた。
サークルに入って女の事を考えるよりは、自分の時間が欲しい。
彼はそう思ったので、それに全く興味など示さないまま校門に向かって歩を進める。
その途中で、彼をまたしても不愉快にさせるものがあった。
ドラムのテンポはめちゃくちゃに狂い、ベースはミスを繰り返し、リードはただひたすらに単調なコードをかき鳴らして、ガマガエルの大合唱のようなだみ声で中身のまるで無い歌詞をうめくバンドの演奏。
しかも……サークル看板に書かれているのは、深夜にアマチュアバンドのオーディションをやっている、当時ブームだったTV番組の事が書いてある。ロックをやっていた人間なら、誰でも彼でもがそこを通っての『早く確実な』プロへの夢を抱いていた……当時はそんな時代だった。実際には、長く音楽を演り続けるテクニックや人間的深さよりも瞬時のインパクトがその番組にはより重要だったのだが……それにしても、そのバンドの演奏はひど過ぎた。
シゲルは、昨日の一件以来ずっと続いている内心の苛立ちを隠そうともせずにそこに歩み寄り、間奏の間にボーカルの人間から無言でギターを取り返すと、滅茶苦茶なドラムとベースを一切無視して、勝手にアドリブでソロを演り始める。正確なリズムで、絶妙の音階で、遊び心一杯の音を出しながら。
その音を聞いて、何人かの人間が足を止め、そして次第にその人の輪が大きくなって行く。
それを見てますます調子に乗ったシゲルは、2分ばかり勝手にギターを奏で続け、そして万雷の拍手を受けた。
シゲルは、あの御茶ノ水での一日以来、必死に弾いて来た事が無駄では無かった事を悟り、心地良い充足感を感じつつ、その場を立ち去ろうとする。
呆然として言葉が無い、『ガマガエルバンド』を一瞥してから。
その直後、観客から何やら声が上がった。
「おい!今度はあっち……ジャズ研の方からサックスが聞こえるぞ!」
「あっちも上手い! "GIANT STEPS"だっけ?」
「コルトレーンか!」
「だ、誰だ!?」
それを合図に、観客の何割かが音の元に向かって駆け出す。シゲルもその中の一人となって、その音を奏でている主を見に行った。
ジャンルこそ違え、いい音を出す人間の面であれば見てみたい。彼はそんな好奇心につき動かされていたのだ。
そして、そこに辿り着いた瞬間、その希望に満ちた表情が瞬時に愕然としたものに変わる。
「あの野郎!」
その音を出していたのは、入学式の時に彼が殴りかかった、大柄の筋肉質な男だったのである。そうして見てみると、確かにその演奏は彼らしいものだとシゲルは感じていた。
コルトレーンさながらの畳み掛けるようなハイテンポの音の大津波に乗せて、どこかやり場のない怒りを、まったく覆い隠さずにストレートに吐き出している。途中からドラムもベースもそれについて行けなくなり、呆然と彼の『ラッシュ』を眺めている他無かった。
さらに言うなら、彼も演奏中にシゲルの存在に気付いたらしく、彼の顔を一瞥すると、小馬鹿にしたような視線を向けた。
それを見て、シゲルは再び内心に怒りの感情が湧き上がるのを覚える。
そして、演奏が終わった瞬間拍手を受けた筋肉質の男は、それを当然とばかりに受け止めてから、ジャズ研のメンバーにこう告げる。
「と、まあ……こんなのがおれの音ですが」
「い、いいよ!すごくいいよ!」
呆然としていた所から、喜色満面にその表情を作り変えてなされたその返答を受けて、筋肉質の男は冷徹な声で吐き捨てる。
「はっ! これが『いい』!? 冗談じゃねえ! 1年半も吹いてねえ奴の音が良いはずねえだろ。……わかったよ。あんたらとおれは絶対に合わねえ」
そして、彼はジャズ研の連中を睨みつけると、全身から触れれば切れるような殺気を発散しながらその場を立ち去ろうとする。
その一見傲慢な態度が、シゲルの神経をいたく逆撫でした。
「待てよ、てめえ」
「あ?なんでえ、昨日のロンゲかよ」
「気にいらねえんだよ、てめえのその他人を見下したような態度がよ!」
「ふん、まだ殴られ足りねえのか?」
そう言い合いながら、まさしく一触即発の危険な状態を作り出す彼ら。
もはや再戦は不可避かと思われたその時だった。
「ひょう! お前らどっちも超サイコ〜だよ! 気に入った!」
と、なれなれしい声を上げてそこに割って入って来た人物がいた。
少々平均より小柄で細身、短めの髪に黒ブチのメガネをかけて……流行りものの服を『着こなした』風情があり……それを遊び慣れた雰囲気と育ちの良さを自然と感じさせる人なつっこい笑みが包み込んでいた。
そして……その顔は、シゲルも筋肉質の男も見覚えのある顔だった。
彼らは驚きを隠そうともせずに、メガネの人物に向かってこう叫ぶ。
「ああああ!!!」
「き、昨日のクラッカー野郎!」
「おうよ! だから、ボクはお前らの命の恩人って奴なワケ! だったら断れないよな?決まり! さあ! 飲み行こう!」
その言葉を受けて、クラッカーを最初に炸裂させた20人ばかりの集団に囲まれつつ、まさしく呉越同舟の状態で彼らは居酒屋に向かって歩き出して行った。
乾杯の直後から、全員が一杯ずつ一気飲みをかまして開始30分も経たないうちに早くも阿鼻叫喚のありさまとなる飲み会。その中で、なんの因果か向かい合わせの席に座らされたシゲルと筋肉質の男は睨み合いながら無言で飲み続けていた。
その殺伐とした雰囲気を悟って、彼らの所にビールを持ってメガネの男が歩み寄る。
「どうだ?飲んでるか〜?」
「うるせえよ」
「まあ、そう言うなって!飲め飲め!」
そう言いながら、無理矢理シゲルと筋肉質の男にビールを飲ませるメガネの男。それに半ばうんざりしたような態度を作ってから、筋肉質の男はこう口を開く。
「あのな」
「?」
「なんでオレらが、お前らと一緒に飲まなきゃいけねえんだ?」
「ほら、ボクら、店たくさん知ってるから」
「そうじゃねえよ!」
激烈な声でのその言葉に、メガネの男は何事も無かったかのようにこう続ける。
「それに、お前ら面白そうだったし……ボクらみたく、エスカレーターで来たのとは違う迫力があってさ」
それを聞いて、シゲルと筋肉質の男はそれぞれにこう口走る。
「お前ら、付属上がりか」
「どうりでノリが良いと思ったら、そういうことかよ」
「そ。せっかく遊べる環境があるんだから、遊び方くらいは覚えておかないと後々損するぜ?」
「あのなあ……」
「お前ら一体何考えて大学来てンだよ!」
その強烈な言葉を受けて、メガネの男は自嘲じみた笑みを浮かべてこう言う。
「……時間が、ないんだよ。ボクらにはね」
「?」
「ボクはそうじゃないけれど……こいつらのほとんどは会社の社長の息子や娘なんだ。学校が終わってしまったら、もう遊んでる時間なんて無い。自由もない。だから遊ぶんだよ、思いきり」
その言葉を受けて、シゲルも筋肉質の男も黙り込んだ。
人にはそれぞれ、それなりに背負っているものが存在し、それは他人には簡単に計れるものではないと、気が付いたのである。
そこに向かって、メガネの男はさらに言う。
「で、お前らは、何のために学校行くんだ?」
それに対して最初に返答したのは、筋肉質の男だった。
「オレは……マスメディアに関わりたい。自分がおかしいと思った事を、他人に伝えて行きたい」
「なるほどね……なんで?」
「親によ、受験があるからって無理矢理サックスを取り上げられたんだよ。そうやって無理矢理人をカタにはめちまうようなやり口は、おれは大嫌いなんだよ。それを理屈で封じ込める力が欲しいんだ。だからおれは、『自分のやりたい事』をするために、新聞学科のあるここに来た」
その言葉を聞いて、シゲルは筋肉質の男の考えている事を少しわかったような気がした。そういう考えの持ち主だから、通りいっぺんの事を疑ってかかる。自分の意見を押し出す。押し出したが最後、意地でも引かない。
そう思うと、彼は筋肉質の男に少し親近感を覚え始めた。
そして、メガネの男は関心した風な態度を作った後、こう言う。
「なるほどねえ……で、お前は?」
そう問いかけられたシゲルは、静かにこう答えた。
「……田舎にいたくなかった」
「?」
「クソみたいに狭くて、あるべきものは何も無くて、周りを見ながらおどおどして……そして見る物も見られずにいる街。そんな街でただただ年を取るのが嫌だったんだ。とにかく、何でもあるここに暮らしたかった。この街を見極めて、そしてこの街で生きたかったんだ」
その言葉を聞いて、メガネの男は一つ大きく笑い、そしてこう言う。
「はははははっ!よくわかったよ!お前ら、似た者同士だ!」
「?」
「何かに挑戦してケンカ売ってないと気が済まないんだよ、2人ともね。だからああやって大事になったんじゃねえの?」
その言葉は、まさしく正解だ。
シゲルも、筋肉質の男もそう思ったので、そのまま黙り込んでしまった。
それを見て、メガネの男は言う。
「だったらさ、これからはつるめばいいんだよ! 結局は似てるんだからさ、腹ン中が理解ってりゃあいいダチになれるってもんさ!」
「そういうもんか?」
「多分」
「あのなあ……」
シゲルも筋肉質の男も、呆れ半分でそう返答はしたのだが、なぜか怒る気がまるで起きなかった。冗談のオブラートに包まれた純粋な厚意が、眼鏡の男の言動から静かに染み渡るように、そして確実に伝わって来たからだ。
「ま、ともかく、これで仲直り。いいかな?」
その言葉に、シゲルも筋肉質の男も頷いた。
それを見て、メガネの男が言う。
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったね。ボクは日向マコト。お前らは?」
「……青葉シゲル」
「……エイジ。衣笠エイジだ」
「そっか。ほんじゃ、これからよろしくな! シゲル、エイジ!」
人なつっこい笑みとともに、マコトはそう言ってシゲルとエイジの手を握り締め、激しく上下に揺さぶった。
それを見た、シゲルとエイジの顔は最初は苦笑じみていたが……次第に笑顔の成分が増えて行き、最後には正面にいる『おかしな奴』の顔を見て大笑いしていた。
似たもの同士プラスおかしな奴。
偶然か必然か……これを境にこの3人は、その後長々とつるむはめになるのだった。
「ふう〜! いい風だな〜! シゲル!」
「……物は言い様だよな、日向」
「ほら、日向、じゃなくて『マコト』! そう言えって言ったろ? シゲル!」
「じゃあマコト」
「うん?」
「何でオレら、こんなとこで飲んでるんだ?」
そう言いながらシゲルは、足元を指差した。
ここは、駅から歩いて五分のところにある噴水公園。この街の人間なら、誰でも一度は行った事のある有名なスポットだ。そこで、シゲルとエイジを含めたハイテンションの暴走集団は缶ビールを片手に地べたに座り込んで、しかもテンションをまったく下げずに飲み続けていたのである。
「そりゃあ、金が無いからね!」
「ったく……だったら帰ればいいじゃねえか」
「だって、終電落ちた奴がいるもん」
「まあ、それは良しとしよう。だがな」
「?」
「あれだきゃあ、何とかならんか?」
その先にいたのは。
「だははははは!!!!おれを見てくれえええええ!!!!!」
と絶叫しながら上半身裸になり、ほとんど無意味なまでに見事なカットの入った筋肉を活かしてポージングをむやみやたらに決めまくっているエイジと、
「兄貴〜ッ!」
「もう我慢できない〜ッ!」
と絶叫しながらそれを煽る一同。
それをしっかりと確認してなお、マコトは平然と言い放つ。
「いいじゃん、面白くて」
「……恥だ!」
そう言って頭を抱えたシゲルの表情を見て、マコトは口元にちょっと嫌な笑みを浮かべると、こう言いながらシゲルにウイスキーのビンを手渡す。
「シゲル? 飲みが足りないんじゃねえの? ほら、飲め飲め!」
「あのな……」
「おや? シゲルくん? おちゃけ、嫌いなんでちゅか?」
そのマコトの単純なおちょくりに、シゲルは見事にひっかかってしまう。
「うっせえ!このくらいなあ!」
そう叫ぶと、彼はウイスキーのハーフサイズボトルに無造作に口を付け、思い切り飲み下し始める。
それを見て、マコトが周囲を煽る。
「シゲル! シゲル! シゲル!」
やがてその叫びは全員に伝染し、その中でシゲルは一気にそれを飲み干した。
それを確認した周囲から、
「イエ〜!!!」
という大絶叫が上がり、それを受けてシゲルは空になったビンを空高く掲げて見せた。
の、だが……それで彼の記憶は、しばらくの間完璧に途切れてしまう事になる。
「!」
ようやく意識を取り戻したシゲルが、慌てて起き上がったその直後。
「おおおお!!! シゲル〜! イエ〜!!」
という大絶叫が周囲から上がる。テンションはまるで落ちていない。いや、それどころかますます上がっている。
「冗談だろ?」
と呟いて、呆れ半分で彼が手元の時計を見ると、時計は既に午前5時を指していた。
そして、途中でアパートに帰って調達して来たのか、ギターを持ってカラオケの伴奏をしている者がいる。
歌っている人間に、歌詞を知っている人間が無理矢理乱入し、しかもそれをちっとも嫌がらずにお互い肩を組んだりしている。
おまけに、よく見るとなぜか最初の居酒屋より人数が増えている。
その光景と、頭に刺し込んで来る痛烈な宿酔いの頭痛で思わずこめかみを押さえるシゲルに、いつの間にか服を着たエイジが歩み寄る。
「よう」
まだ彼に対してどこか警戒を解いていないシゲルは、少々ためらいながらもこう返す。
「お、おう」
「……スゲエよな、こいつら」
「?」
「オレらみたいなのを綺麗に取り込むだけじゃなくて、通りすがりの人も取り込んで、自分のペースに気分良く巻き込んじまう」
そのエイジの呟きを受けて、シゲルは頭の中で漠然と考えていたことを取りまとめ、こう答える。
「これが、この都市のやり方なのかも、な」
「?」
「いや、こういう人間の生き方を見てるとよ。きっとこの東京って言う都市もそういう風にしてでかくなったんだろうな、って気がすんだよ」
「なるほど、な……」
エイジはそう呟くと、シゲルの目を正面から見据え、そして苦笑交じりにこう言う。
「やっぱり、お前もスゲエ奴の一人だ。おれは、そこまで考えてなかった。ただ、酒が飲めて暴れられて嬉しかっただけでな」
シゲルはそれに、苦笑交じりでエイジの頭を平手で軽くこづく事で応じる。
エイジもそれを当然の事のように受け入れ、そして苦笑いを作る。
そして、彼は静かに言った。
「……おれには、仲間がいた」
「?」
「高校ン時の吹奏楽部の奴らと……田舎のジャズバンドの奴ら。受験を理由にそれを取り上げられて……おれには受験しか与えられなくなった」
「そう、か……」
まるで自分の事のようにその話を聞くシゲル。そこにエイジはさらに言う。
「親がやった事とは言え……結果としちゃあおれからケツまくったんだ。あいつらのとこには顔出しが出来ねえ。もう、田舎には何も残ってねえんだよ」
「…………」
「それが……ここに来たらこれだ。それに、お前みたいなスゲエ奴とも会えた。……利子がついて帰って来たよ。あのふざけたクソ親のおかげでな」
シゲルは、その言葉を聞いて静かにこう言い返す。
「スゲエよ、お前もさ」
そこに、エイジは妙に真剣な調子で言う。
「何言ってんだよ、お前の方がスゲエよ……あのギターの音。あれが普通の練習で出る音かよ」
「ま、まあ……な、とりあえず練習だけはやったからよ」
照れ笑いを浮かべてそう言うシゲルに向けて、エイジは言う。
「いやな、実はおれが今日サックス吹いたのは、お前の演奏を聞いたからなんだよ。凄い音出す奴がいるもんだ、って思ってな。で、今の自分にどこまで出来るかを試したんだが、全然駄目でな」
「あれで全然!?」
素直な驚きを示したシゲルに苦笑を向けて、エイジは淡々と自分が感じたものを説明し始める。
「おう。30、40のオッサン相手に吹いてたからな、身の程はわきまえてらあな。はっきりわかったよ。おれには、プロで演る力はねえ。だがよ」
「?」
「お前は少なくとも、あの深夜番組に出て来る奴らよりは上だよ」
その言葉は、シゲルにとってあるいは一番欲しかった言葉だったのかもしれない。しかしシゲルは表情を引き締め、こう言う。
「いや、まだまだ」
「?」
「まだ……オレより上手い奴は山ほどいるさ」
そうシゲルが呟いた直後、不意に背後からギターを持ったマコトが現れる。
「そう思うんだったら、ほれ、練習だ! 演れ! 選手こ〜た〜い!」
「マコト」
「もう電車も動いてる。締めの時間だ。一曲ばしっと演ってくれよ! 何だったら、オリジナルでもいいぜ」
「そう、か……」
シゲルはそう呟くと……昨日と今日で感じた事を頭の中で紡ぎ出す。
怒り、苛立ち、そしてそこを乗り越えた先に見えた『希望』。
何となく、曲になりそうだと思っていたその感情が……頭の中で明確に『曲』として完成したのを確認すると、シゲルは静かに言う。
「……じゃあ、本当にオリジナル演るぜ。引いたら悪いけどな」
そうして、彼は中学時代以来久々に触るマーチンのアコースティックを手にして噴水に腰掛ける。
それを見て、一人がこう声をかけた。
「お〜い!何演るんだ〜?」
「オリジナルだよ! 題名は……そうだな、『翼なき野郎ども』!」
「おおおおおお!!!!」
もはや極限まで上がったテンションの中、シゲルは激しくギターをかき鳴らし、そして思うがままに思った事を叫ぶ。それを見て、その歌詞を聞いて一同はさらにテンションを上げた。それは……彼らのほぼ全員が漠然と感じていた苛立ちをテーマにした曲だったからだ。
何度かくり返したサビのフレーズが3度目に出て来た、ラストの時には……全員が思わずそれを叫んでいた。
そんな事があってから、2週間が過ぎた。
「さて、履修登録も済ませたし」
「今日は授業もないし」
「とっとと飲み行きますか!」
妙に嬉しそうな顔でそう言い合うシゲルたち3人。
一般教養クラスが同じである事も幸いし、彼らはもはや完璧な『ツレ』同士になりつつあった。
「もう昨日みてぇに」
「昼間起きられるように飲みを調整する必要もないしね!」
「朝までGO! だな!」
などと言い合っている時だった。
「す、すいませえええええんん!!!!」
という、必要以上に慌てた女の声がステレオで彼らにかけられた。
「は、はい!?」
「ま、間違いないわ! メガネにロンゲにマッチョ! うちのクラスの人よね!」
「ちょっと待て。メガネに」
「ロンゲに」
「マッチョってえのはどういう了見だ、おい」
少々不機嫌な声で吐き捨てた3人の態度を無視して、というよりはそれに気付く余裕もないままに、彼女たちのうちの片方……ショートカットで、大学生どころか下手をすると中学生でも通りそうな、童顔で小柄なショートカットの、フレアミニを履いた女の娘がこうまくしたてる。
「あ、あの!履修登録の提出場所ってどこですか?」
「は、はい!?」
「まさか……まだ出してねえの?」
呆れ顔とともに発せられたエイジのその言葉を受けて、もう一人の女……まるで社会人のような高価なスーツを完璧に着こなしている、セミロングの妙に落ち着いた雰囲気のある女が言う。
「ええ。この子が寝坊した上履修登録を忘れてて、それで慌てて登録用紙を書き込んだら今度は電車の中に用紙を置き忘れてそれを探して……って大騒ぎだったのよ」
「う、ううう……そんなあしざまに言わなくてもいいじゃないの、チトセちゃん……」
「全部本当の事でしょう! 反省しなさい! マヤ!」
「だ、だってえ〜!」
「あ、あの〜? もしもし?」
呆れ顔で発せられたそのマコトの言葉に、チトセと呼ばれた女は不機嫌そのものの声でこう答える。
「何よ! メガネ君!」
「お取り込み中誠にすいませんが、その、提出期限時間まであと5分切ってるんですけど」
「え?」
5秒経過。
「あああああ! ほ、本当だあああ! ち、チトセちゃ〜ん! 早く早く!」
そう言いながら、めくらめっぽうに全力疾走を始めるマヤと呼ばれた女の娘。
その背中に向かって、チトセと呼ばれた女はさらに叫ぶ。
「って、待ちなさいマヤ! あんた場所わかってないでしょうが!」
「そ、そうだったわあ!」
その珍妙で間抜けな会話に頭を抱えつつも、シゲルはこう言う。
「……こっちだよ」
「あ、ありがと!」
そう言い残して、マヤと呼ばれた女の娘は再び駆け出す。
が。
その直後、彼女はわずか数ミリの段差でけつまずいて転び、手に持っていた2人分の履修登録用紙を盛大にばら撒いてしまった。
しかも、それが風に煽られて激しく舞い上がる。
一枚は、たまたまエイジの足元近くに着地したため、苦も無く回収できたが。
もう一枚は激しく舞い上がると、学校のグラウンドめがけて鮮やかに飛行する。このままでは敷地の外に飛び出して、回収が著しく困難に成る事うけあいである。それを悟って、シゲルは必死にそれを追いかけた。
「だあああ! 待て待て待て! 待てっつうのコンチクショー!」
などと叫びつつ。
そして、グラウンドの隅までたどりついたところで、シゲルはようやく履修用紙に追いつき、そして大ジャンプをかましてそれを無事キャッチした。
は、いいのだが。
その姿を呆然と見つめていた4人の前から、出し抜けにその姿が消えた。
そして、その数秒後。
「えええええええ!!!!!」
大混乱して、そこに向かって駆け出す一同。
そして、彼らが現場に辿り着いた時、全てが理解出来た。
「こ、こりゃまた……」
「まさかグラウンドの隅が」
「用水路になってるなんて」
「お釈迦様でも気が付かないわよね! てへっ!」
そう。
シゲルが履修用紙をキャッチしたのは、既に用水路の真上だったのだ。
そして、彼はそのまま一直線に用水路へダイブをぶちかましたのである。
まさしく『呼吸する不機嫌』と化したシゲルは、一同に向かってこうつぶやく。
「……言いたい事は、それだけか?」
それを受けて、マコトは冷や汗交じりながらも言う。
「ま、まあそう言うなよシゲル! これでこの娘の履修も無事に……」
「済んでねえよ!」
その言葉を受けて、エイジは時計を見て、そして絶叫する。
「どげえええ! あと2分!」
「だあああああ!!!!!」
5人はそう絶叫すると、そのまま全速力で登録場所まで駆け出して行った。
「ま、間に合ったあ……ありがと! ロンゲくん!」
マヤと呼ばれた女の娘が、ようやく落ち着いたと言う風にそう言った。
だが、状況が状況なだけに相当苛立っているシゲルは、ぶっきらぼうにこう返答する。
「ロンゲくんじゃねえよ。オレには青葉シゲルって名前があんだよ」
「あ、ああっ! ごめんなさい! その……マサルくん!」
「シゲルだっつってんだろ!」
「あ、ああっ!」
そう叫んで、完全に対処に困って涙目になっている女の娘の様子を見かねたエイジは、シゲルの頭にツッコミのチョップを叩き付けた後、彼を押し下げながらこう言う。
「ま、ともあれこれで無事終了、めでたしめでたし、って奴だな」
「は、はいっ!」
「という訳で、君らも飲みに行こう」
「え、ええっ!?」
「いや、ほれ、労働には対価が付きものだろ?」
「で、でも……」
そう言って口篭もるマヤと呼ばれた女の娘に代わって、チトセちゃんと呼ばれた女が返答する。きわめて冷静な、ある意味事務的にも思われるような口調で。。
「そうね。じゃあ、行こうかしら。ただし、ワリカンね」
「OK!まーかせて!」
そう言って安請け合いしたマコトに向かって、シゲルは言う。
「おい、マコト!」
それを鋭くヘッドロックに取って、マコトは彼の耳元に囁く。
「おねえちゃんと飲むんだったら、ワリカンなだけでもお得ってもんだよ! ぐだぐだ言わない!」
「そ、そうなのか?」
「そうなの!」
その言葉でマコトが無理矢理シゲルを説得したのを確認して、エイジは言う。
「さ、ほんじゃ決まりだな。行こうか」
それを受けて、女の娘は妙に生真面目な口調でこう言う。
「は、はいっ!」
生真面目なくせに思い切り抜けてる。
面白い人材だ。
女としての評価はともかく、こういう人材がいれば当分退屈とは無縁でいられそうだ。それだけで十分親しくしておく価値がある。エイジはそう考えた。
そしてその直後、彼はある事に思い至り、こう言う。
「そう言えば……名前を正式に聞いてなかったよな、2人とも」
その言葉を受けて、女の娘の方は冷や汗を流して、激しく頭を下げながら言う。
「あ、ああっ! ご、ごめんなさい! わたし、伊吹マヤっていいますっ!」
そして女は静かにこう言う。
「私は、千代田チトセ」
「OK! じゃあ行こうか! マヤちゃん! チトセちゃん!」
マコトが満面の笑みとともにそう言ったのを合図として、5人は校門を抜け、駅前の居酒屋へと向かって足を進める。
「ほんじゃ、とりあえずビール五本ね」
「は〜い、喜んで!」
「あと、食べ物は……」
後から、とマコトが言おうとした直後、マヤがいきなり口を開く。
「串焼き盛り合わせ8人前とポテトフライ3人前と川エビ3人前と唐揚げ5人前と焼きそば5人前と、あとギョーザ3人前! よろしく〜!」
唖然とするマコト・シゲル・エイジをよそに、その言葉を平然と受け止めたチトセはさらにこう言う。
「それから塩辛と奴を一人前、後はチーズの盛り合わせとウイスキーのボトルを一本ちょうだい」
「は〜い、喜んで!」
あまりにも予想外の展開に愕然として、3人があっちの世界に旅立っているうちに、彼ら5人の前のテーブルは明らかに多過ぎる量の食い物が並べられてしまう。さらにウイスキーが来た瞬間、チトセは嬉々として氷すら入れずにストレートでしかも乾杯前に飲み始める。
それに対して、マコトは気力を振り絞って何とかこう絞り出す。
「あ、あの? もしもし? マヤちゃん? チトセちゃん?」
それに対して、マヤは満面の無邪気な笑顔とともにこう言う。
「大丈夫! どうせ食べるの私だからぁ!」
そしてチトセも淡々とこう応じる。
「ボトルなら責任持って飲み切るから、心配しなくてもいいわよ」
「い、いや……そうじゃなくてねえ……」
ちょっとつついたら泣き出しそうな声でそう言うマコトを見て、シゲルとエイジは死ぬほど捨て鉢な声でこう叫び、状況を力ずくで動かそうと決断する。
「ほら、マコト! 飲むぞ!」
「乾杯!」
それを受けて、マコト以外の4人はグラスを合わせて叫んだ。
「かんぱーい!」
その直後から、マヤは猛烈な勢いでテーブルの上の食べ物を胃に詰め込み始める。唐揚げを焼きそばの上にぶちまけ、一気に食べ切るとその直後にギョーザを3個ずつ口に放り込み、さらにご飯の代わりとばかりにポテトフライを合間に挟んで。
さらにチトセはウイスキーのみならずビールも同時に飲みつつも、自分の頼んだつまみは完璧にガードして他人、というかマヤに取られないようにして、次々にコップを空け続ける。
この間、シゲルたち3人は焼き鳥を一本ずつ手に持ってただただ呆然としているだけであった。
……20分経過。
「ああ、おいしかった〜!」
まだ焼き鳥を持って呆然としているシゲルたち3人をよそに、笑顔とともにそう言うマヤ。なおかつ、目の前の皿の上にあった食べ物はきれいに無くなっている。
もうそれだけで腹がいっぱいになってしまったような気分を覚えているシゲルたちをよそに、マヤは店員を呼び止めてさらに言う。
「すいませ〜ん! 牛タン焼き3人前とチャーハン3人前と……」
「あら、マヤ。そんなものでいいの? すいぶん今日は少ないんじゃない?」
「うん、今日はお昼が遅かったからぁ! チトセちゃんこそ、今日はピッチ遅いじゃな〜い」
その言葉を受けて、チトセは残量が早くも半分近くまで減ったボトルを振りながらこう答える。
「ま、ね……今日はゆっくり飲もうかと思って」
その様子を見ながら、シゲルたちは三者三様にこんな事を思っていた。
『お、恐るべし東京人……』
『……駄目過ぎる……こいつら、世界ランカークラスの駄目さだ……』
『違うんだよ〜……女の子ってえのはさ、女の子ってえのはさ……ううっ』
その様子を見て、マヤがこう声をかける。
「あ、あれ? シズオくんたち、どうしたの?」
「……『シゲル』」
「あ、ああっ! ご、ゴメンね!」
それに対して、シゲルは仏頂面をして、こう言う。
「あのさ……」
「え、ええっ!? あ、あの、わたしたち、今日会ったばっかりだだから、その、ええっと、お付き合いなんて、その!」
顔を酒以外の精神的作用によって真っ赤に染め、激しくうろたえているマヤに対して、もう完全に諦め切ったような口調で、シゲルはこう答える。
「誰も言ってねえよ……」
「あ、ああっ! ご、ゴメン!」
そこに、チトセがフォローになっていないフォローを送る。
「気にしないで、シゲルくん。この娘、早とちりとドジが仕事みたいなもんだから」
その言葉を聞いて、こめかみを押さえつつ、シゲルは言う。
「……ま、それはそれとしてさ、伊吹さん」
「は、はいっ!」
「口の周りに……焼き鳥のたれが思い切り付いてるんだけど」
「あ、ああっ! ゴメンね!」
そう言ったマヤは、いきなりブラウスの裾で口元を拭う。
それを見て、シゲルはグラスを取り落とし、マコトはテーブルに顔面を打ち付け、エイジは口から煙草をミサイルのように打ち出す。
『こ、こいつは……小学生か!?』
そう思いつつ、心の中で滝のような涙を流して、彼らは深くため息をついた。
そんな彼らの心境をまったく読めないまま、マヤは目を見開いて、珍しいものを見つけた仔猫のような表情を作って言う。
「あ、あれ? どうしたのみんな。元気ないじゃない!」
そこに、チトセはこうアドバイスを送る。
「ほら、ビールが無くなってるからつまみが食べられないんじゃない? 追加しないと」
「あ、そっかあ! すいませ〜ん! ビールをあと5本!」
その言葉を聞いた店員が、ビールを持って来たのを受け取って、マヤは隣に座っていたシゲルのグラスに向かってビールを継ごうとする。
「ほら! ビールよ!……って、あれ?」
まったくグラスにビールが行かなかったのを見て、マヤは怪訝な顔をして瓶を激しく上下にシェイクする。それを見て、シゲルは言う。
「伊吹さん……栓」
「あ、ああっ! ごめんね! 今空けるからっ!」
そう言って、マヤは栓抜きを手に取り……そしてずっと手に持っていたビールの栓を空ける。
直後。
「あああああ!」
「どわあああ!」
シゲルの顔面にビール大噴射。
いや、それだけならまだ良かったのだが……。
「わわわわわ!」
「だあああ! 伊吹ーっ! 振りまわすなーっ!」
「きゃあああ! マヤーっ!」
「どわあああ!」
……マヤ以外の4人、全員びしょ濡れ。
数時間後。
「……で、結局こうなるのな……」
「しょうがねえだろ! 金がねえんだしよ!」
カラオケボックスに行く金すら尽きた5人は、噴水公園で缶ビールを片手にまだ飲み続けていた。
「って言うかさ、どうして居酒屋のワリカンが5千円オールになるんだよ」
幹事役のマコトがそう愚痴ったのを受けて、ボトルを苦も無く轟沈したチトセは、まったく酔いを感じさせない確かな口調で言う。
「そうよね、不思議よね」
さらに、完全に出来上がって顔が真っ赤のマヤも、
「きゃはははは! どうしてかしらね〜!」
と、無責任な事を言い放っている。
そこに向かって、シゲルはこう毒づいた。
「……元凶のくせに呑気なもんだな」
その言葉を聞いて、チトセの顔に青筋が浮かぶ。
そして彼女はすかさずシゲルの胸倉をねじり上げて、顔は笑っているが目が怒っている顔を作ってこう言う。
「シゲルくん? 思いやりのないオトコはモテないわよ?」
「は、はい……」
その光景を見て、エイジは顔面に冷や汗を吹き出しながらこうつぶやいた。
「うちのアネキよりひでえな……」
「え? お前、アネキいたの?」
「ああ、3つ上のが一匹」
その言葉を聞いて、チトセは言う。
「あら。エイジくん、現役だっけ?」
「ああ」
「じゃあ私より1コ上かあ、エイジくんのお姉さんって」
「え!?」
「2、2浪なの? チトセちゃん!」
愕然とした声でエイジとマコトがそう言ったのを受けて、チトセは苦笑とともにこう言う。
「違うのよ……小さいとき、私身体が弱くて……それで一年学校休んでね、あと、高校の時一年間留学してたから」
「なるほど……」
「どうりで、落ち着いてると思ったよ」
「ま、ね……おかげで、多少ひねくれちゃったけどね、育ち方が」
そこに、シゲルが一言余計な茶々を入れる。
「多少?」
その直後、チトセの表情が再び元に戻り、さらにシゲルの胸倉を激しくねじり上げる。
「シゲルくん? あなた、自分の置かれた立場がまだ理解っていないようね? ん〜?」
やばい。目がマジだ。
それを鋭敏に察したシゲルは、殊勝な声でこう呟く。
「……ごめんなさい。オレが悪うございました」
その言葉を受けて、チトセはシゲルから手を放し、柔らかさと落ち着きを感じさせる笑顔とともにこう告げる。
「よろしい。お姉さん、素直な子は好きよ」
その直後。
「い、いやあああ! チトセちゃん不潔よーっ!」
と叫んで、マヤが突進して来る。
慣れたもので、チトセはそれをあっさりと紙一重で回避したが。
その向こうには、シゲルがいた。
「どわあああ!」
かくして、噴水で本日2度目の水柱を立てる青葉。
その様子を見て、エイジは投げやりな声でこう呟く。
「噴水や 青葉飛び込む 水の音」
それを、マコトとチトセはこう評した。
「……30点」
「……『もっとがんばりましょう』」
その会話の直後、噴水からシゲルが上がって来る。
仏頂面をしているはずのシゲルに向かって、マヤは大慌てでこう叫ぶ。
「あ、ああっ! ご、ゴメンねえ〜っ! 青葉くん!」
ところが、シゲルの表情は彼女が想像していたものとは違った。シゲルは妙に顔がにやついて行くのを押さえ切れずにいたのだ。
彼は、こう思っていたのだ。
『田舎にいた頃は、ダチなんかいなかったのに……こっちに来て2週間とちょっとで、もうこれだ……オレがここに来たのは、間違っていなかったんだな』
「シゲル! そのままじゃあ風邪ひいちまうぜ? 今日は解散するか?」
マコトがそう叫ぶのを聞いて、シゲルは満面の笑みとともに言う。
「オレなら大丈夫! オレよ、今すごく気分がいいんだよ!」
そして、びしょ濡れのスニーカーで池の地面を蹴って、噴水のへりに立ち、両手でバランスを取りながら、その上を歩き始めた。
「……おかしな奴」
チトセのそのつぶやきを受けて、4人はシゲルの背中に苦笑半分の……だが好意に満ちた笑みを浴びせ掛けた。
時に、昭和63年。
青葉シゲルの『青春』は、この4人が彼の周囲に集まったこの日を持って、本当の意味で始まったのだった。