ざっ・・・ざっ・・・
とある山中の藪の中、荒い呼気と弱弱しい足音が重なっていく。
既に陽は落ち、周囲は漆黒の闇。
その中に仄かに浮かぶ白い人影、・・・それも若い娘のものである。
「おのれえええ・・・出せえええっ!!・・・出さぬか、この!!」
何処かしら奇怪な響きを湛えた怒号が聞こえる。
周囲には人影ひとつない・・・無論、娘が別の声音を使っているわけでもない。
・・・それもそのはず、声の主は、この娘に憑いている”あやかし”である。
名を狼眼児(ろうがんじ)・・・人に憑依し、思うがままに悪行を成そうという、
”あやかし”としては、かなり小物の部類である。
ただひとり、自分の領域(テリトリー)の周囲をふらふらと徘徊していたこの娘。
人の身なれば、気付かぬのも当然といえようが、・・・なんと愚かな。
これぞ、まさに勿怪の幸い・・・見れば、いささか線は細いが、なかなかの美形である。
これほどまで見目が良ければ、かなりの数の愚昧な男どもを誑かすことが出来よう。
引いては、それは、この”あやかし”に、より強い力を与える”糧”ともなる。
だが、半ば惹き寄せられるように、憑依したものの・・・。
あやかしは、今度は、あまりの居心地の悪さに悶え苦しむこととなる。
「な・・・なんだ、この女は!?」
半身が既に死んでいるかのように、ろくに自由にならず・・・霊的存在のはずの
己が身が、今まで感じたことのない耐え難い苦痛と脱力感に苛まれる。
さりとて慌てて体の外に出ようとすると、何か異様な力が働いて抜けられない。
「ば・・・馬鹿な!!?」
うろたえて、強引にすり抜けようと試みるが、全く功を成さない。
まるで愚かな窮鳥のごとく、いたずらに娘の体を切り切り舞いさせるばかりである。
やがて、娘のたおやかな肢体そのものが、いわゆる封魔の結界にも等しいことに、
”あやかし”は、気付いた・・・
「く、くおおお、き、貴様、いったい何者だ、・・・出せえっ、出さぬかあっ!?」
思えば、この娘が自分の領域に歩み寄ったことも偶然ではあるまい。
また、この娘に対し、何か引き寄せられるような感覚があったことも・・・。
・・・死期の迫った飛天は、腐った果実のような甘い香りがするという。
半神めいて美しいが、どこか生命力の感じられないこの娘には、まさにそういう
雰囲気がぴたりと当てはまった。
仮説雑貨商 7000HIT記念
暗 夜 無 拍 子
− 第 零 夜 −
BY 平 山 俊 哉
・・・それから、どれほどの時間が経ったろうか、
この娘の身中に在っては、外界の変化などまるで感じることが出来ない。
だが、この娘とて、何の痛痒も感じぬわけではないらしい・・・。
ましてや、あやかしが封印を解こうと、様々な抵抗を身中から試みるのである。
魂を失えば、この不可解な拘束力も失われるかも知れぬと、強制力の限りを尽くし
刃物を握らせ、己が身を幾度も幾度も傷付けさせる・・・
だが、さして生に執着せぬかのように見えぬにしては、意外なほどの抵抗に遭い、
失血死させるほどの深手を与えるには至らない。
また、邪まな劣情を掻き立てて、肉欲の元に堕落させ、なんとか自分の支配下に
置こうとも試みた・・・こちらは、意外と思えるほど効果があった。
これほど怜悧な美貌を持ちながら、どうやら、いまだ未通女(おとめ)であるらしい。
白磁のような肌を紅潮させ、懸命に身を堅くする・・・。
だが、それすらも娘は驚異的な忍耐力で抑えきり、じっと時が経つのを待っていた。
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やがて、その時が満ちたのか・・・娘はまるで、熱病に魘されるかのような足取りで、
ただ一人、ろくに本数もない、とある山岳地へ続くローカル線に身を預けた。
そして、陽光が完全に落ちるのを待ち、まるで乏しい生命力を絞り切るかのように
重い足を引きずり山中に入っていく。
果たして如何なるつもりなのか・・・夜間の山中など、人の住む領分とも思えぬ。
通常の神経の持ち主なら、まず好き好んで訪れはしまい。
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眼前に広がる切り立った岩場に歩を進める娘・・・どうやら、ここが目的の地らしい。
何時しか、何やら呪句らしいものが娘の形の整った唇から漏れ出でる。
ぐおおおおおお・・・ん!!
そのまま、娘が中空に手を翳すと、見るまに空間が歪み、ぽっかりと奇怪な孔・・・
そう・・・、幽かな光さえ通さぬほど、周囲の闇よりもなお昏き孔が開いていく。
「ぐぅおおおおおおおっ、な、なんとおおっ!!」
それは、恐るべき吸引力で、娘の身から、”あやかし”を、まるで薄皮を引き剥がす
かのように分離させ、見る見る吸い込み始める。
「おのれえええーーーーっ、こ、この小娘が、よくも、この狼眼児をっ!!」
娘の表情は苦しげだが、その身には何の異変も見受けられない・・・
おそらく霊的存在に作用する力なのであろう。
ようやく、娘のたおやかな肢体の外部に出られたものの・・・今度はじわじわと
孔に吸い寄せられていく”あやかし”は、うろたえながらもなんとか逃れようと試みる。
・・・が、なんと、孔のほうからも、無数の黒い腕が生え出るように現れ、この愚かな
”あやかし”を、逃すまいとむんずと掴み、引き寄せていく!!
「お、おおのれっ、放せ、放さぬか!!・・・ええいっ、見ておれええっ、小娘!!
か、かならずや、現世に舞い戻り・・・貴様の血脈を継ぐもの全て・・・・悉く祟りを
成してくれるうううーーっ!!」
あやかしの恫喝も呪詛も、すべて呑み込まれるかのようにくぐもり虚空に消えていく。
力付き、その場に倒れ付した娘の前で、いまや、完全に”あやかし”を呑み込んだ
異様な空間の開口部がまた閉じていく。
神代より、幽界(かくりょ)と現世を繋ぐ路(みち)・・・そこに至る奇怪な空間の陥穽。
かって、人はこれを、”黄泉路比良坂(よもつひらさか)”と呼んだ。
”あやかし”の狼眼児を引き寄せたものは、おそらくは、そこに群れなす化外のモノたち・・・
黄泉軍(よもついくさ)と黄泉醜女(よもつしこめ)のものであろうか・・・
娘がじっと、”あやかし”の抵抗を堪え、時を待っていたところを見ると、おそらく
この世に現出する時間は、ごく限られているのであろう。
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(ああ、いつまで、こんなことが続くの?・・・・もう、死んでしまいたい)
いったい、どれだけの刻が経ったろうか・・・ようやく気がついた娘の瞳の端に涙が滲む。
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娘の母は、ある特異な資質を見出され、とある平安中期から連なる旧き家系に
半ば金で買われるように嫁がされてきた。
政(まつりごと)に呪術が用いられた時代には、国家(くに)の歴史の裏舞台で、
重用されていた一族で、時の権力者との婚姻関係を保つことで、影の閨閥として
現在に至るまでその命脈を保ち、国家の暗部に君臨し続けてきたのである。
・・・が、その寄る辺となるはずの呪力を湛えた血脈は、代々衰えていく一方だった。
いかなる勿体を付けた仰々しい呪的儀礼をでっち上げて取り仕切ろうと、実効が
なければ自ずと凋落は免れなくなる・・・
・・・そんな中・・・、娘は、彼らの期待通りの能力を持って世に産まれて来た。
・・・何百年かに一人と言われる、並外れて優れた霊媒体質。
惨いことに、幼い肢体に封魔の印呪を彫り込まれ、更に現代では喪われかけた、
我が身を削る諸刃の剣にも等しき、忌まわしい外法の数々を叩き込まれ・・・
学校すらろくに通わせてはもらえず、文字通りその生命を削りながら”家”の為に、
暗夜の中、戦い続けるしか、娘には生きる術は無かったのである。
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辛い、・・・辛い、・・・苦しい。
この様なことを、あと幾度重ねれば良いのか・・・。
自分は、こんなことのために生命を受けたというのか・・・。
あの闇の孔、・・・黄泉路比良坂に、あやかしたちを陥れる都度、自分の中からも
何かが少しずつ欠落し、吸い込まれていくのが判る・・・。
まるで美しい娘の心の断片を、せめてもの黄泉路の慰みにするかのように・・・。
そのうち、苦痛を感じる部分すら完全に消えていくかもしれない・・・。
そうなれば・・・自分は本当に、家のための道具に・・・。
・・・封魔のための生き人形となってしまうだろう・・・。
辛さを感じる部分が無くなれば・・・もうこんな想いはしなくてすむ・・・。
いっそ、その時が早く訪れれば良いと、幾度も思ってしまう・・・。
・・・だが、そんな我が身が哀れと思えてしまう・・・・・・・まだ。
瞑目する端から流れていく涙は・・・・あとどれだけ自分に残されているのだろうか?
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「おおい、そこに誰かいるのかあああーーっ!?」
不意に聞こえてきた声に、娘は、驚いて歩み寄ってくるひとりの人影を視線に捉える。
自分の他にも、このような荒れた山野に夜を明かすものがいたとは・・・
果たして、どのような目的があってのことであろうか。
「これは、これは・・・この様な所で、斯様な天女の如き麗人を見出そうとは・・・」
ひとりの作務衣(さむえ)を纏った、堂々たる体躯の壮年の男である。
厳つい体付きではあるが、その瞳は、草を食む野の獣のように温和で優しい。
卑しい目的で、山野に隠れ潜んでいる胡乱な輩なぞとは到底思えない。
(天女?・・・麗人?・・・・あたしのこと?・・・・)
「狐狸あやかしの類にしては、なかなか気が利いて・・・おっと、これはいかん!!」
相手の応えも待たず、自分の拙劣(へた)な冗談に、またも破顔一笑する大男。
「ところで、随分難儀をしておるご様子だが・・・こんなところでいかがされたかな?
ああ、いやいや、・・・言いたくなければそれでも良いがな・・・」
邪まな下心なぞ欠片も感じさせない・・・胸に染み入るような温かみを感じさせる声。
・・・思わず頬を赤らめた娘は、まだそんな感情が自分に残されていたのかと驚く。
男の名は、護霊部竜禅・・・娘の生家とは比較にならぬほどに旧い、
神代の昔より、この邦(くに)の霊的守護を司ってきた護霊部一族の現当主である。
この地で修めるべき行を終え・・・亡き妻を偲び、近くの山小屋で共通の趣味であった
陶芸に想いを馳せていたところ、只ならぬ気配を感じ、ここまで歩を進めて来たと言う。
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「・・・・もし、よろしければ、名を聞かせてもらえぬかな?」
「石動(いするぎ)・・・、石動かすみ・・・と申します・・・」
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のちに、封魔の絶技”無拍子”の技を継承することになる少女、護霊部みなほ。
その両の親となる者たちの・・・これが最初の邂逅であった。
(了)
そして、管理人より平山さんへ当然たる・・・image B.G.M."KASUMI"