その日、私は港へ来ていた。
このフランスという国に住みだしてから生活圏以外で初めて一人で来た場所だった。
「……」
特に理由なんか無かった。
いや、自分でも凄く馬鹿馬鹿しいと思える理由ならあった。
それは、ここからならかつて暮らしていた日本が見えるかも知れないと思ったからだ。
「……」
誰も言ってくれなかった。
今思うと私の両親も私に気を使っていたのだろう。
それに私自身も、ここの生活に早く馴染むため、敢えて日本からのニュースを避けていた。
でも、ふと、何気なく昨日接続した……
そこでは未だにとてもセンセーショナルな話題として扱われていて……
だから私が……私が世界と……そして誠くんに起こった”こと”を知ったのは……
「……」
「……」
「……」
……見えるはずなんか無かった。
見えたのは日本とは色彩の違う海と空、行き交う異国の人々、それから色々な種類の船。
私が目に出来たのは、そんな、ものの5分もすれば飽きてしまうような光景だけだった。
「……らさん」
聞こえるはずも無かった。
聞こえていたのは異国の言語と音楽、それから波と風の音ぐらい。
私の耳に届いたのは、そんな、ここでは当たり前過ぎる音だけだった。
「……さん、清浦……さん……ですよ……ね?」
だから……あり得る筈もなかった。
かつては綺麗な純白の、でも今は幽霊船みたいに薄汚れた船体の大型ヨットなど。
ましてや、そこからぼろぼろな、幽霊みたいにやつれた姿の……
そう、あの”彼女”が饐えた笑みを向けながら私の前に降り立つなんてことなど。
「……あなたも……そう……でしたよね……うふふ、ちゃーんと知ってますよ」
……あり得ない。アり得ナい。アリエないアリエないアリエない。
違う。こンなの違うコんなノ違ウ違う違うチガうちがウ。
ソうよ、あノ子ガこんナトこロにいルハずなんカナイ。
こンナ外こクで、ソンナ物持っテ、そレデ私に……
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Nihil difficile amanti.
(恋する者に苦難は無い)
仮説雑貨商15000HIT記念作品
暗 夜 無 拍 子 〜 数えざる夜の物語 〜
「 異 之 波 異 聞 」
( K O T O N O H A I B U N )
Written by T.Hirayama&Mr.K−U
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− 第一章:怪逅壊帰 −
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…誰ぞ、…誰ぞ、…誰ぞ。
…我が境界を越えし者よ、…我が領域を惑いし者よ。
何者とも知れぬ妖しの声が漂う昏き海原に一艘の朽ちたヨットが揺蕩う。
「ほほほ…、いまだ人の身で此の幻夢の地に踏み入る者が在ろうとは…、嗚呼、ほんに
久しきこと…さあ、客人(まろうど)よ、仮初めの客よ…、帰りの懸念はもはや不要…
我が掌(たなごころ)の中で、ゆるりと遊んでゆくがよい…」
・
・
・
晩秋の黄昏時、移ろいゆく残照の中、ひとりの少女がいまだ活気にさざめく街並みを歩いていく。
(はああ…、なんかもー、あれから火が消えたみたいにつまんなくなっちゃったなあ…)
3カ月ほど前のこと、彼女の周りから近しい幾人かの姿が消えた…
ごく親しかった友人と、自分らの周りをウロついていた何かと弄り易い単純なオトコを中心に…。
首無しの男子生徒、そして、頸部と下腹部を割られた無残な女生徒の他殺死体が相次いで発見され、
そして、近隣に在ったヨットハーバーより、ひとりの少女が失踪した。
恋愛の縺れから生じた血腥い殺人事件…と下世話で扇情的な話題好みのワイドショーがさんざん
囃立てた後、程なく、この話題は誰の口の端に上らなくなっていた。
実の所、状況はある程度想像がつく…、そう、皆も少なからず後ろめたいものを感じてるのだろう。
(けど…、やっぱ、皆とバカやってるときが一番楽しかったな、…どうしてよ、もう、こんなのヤだ!!)
ともすれば切なさに捉われ、また気が沈み込みそうになるが、苦心して歩を進め、家路に急ぐ少女。
ところが、通り慣れた小路から四辻に差し掛かった瞬間、不意に視界が黒色に閉ざされてしまった。
「ちょ…、ちょっとぉ、これ何…?」
陽が落ち切るには、今少し間があるはずだが、信じ難いことに自分が何処にいるのかもわからない。
喩えるなら、深き森の奥のような漆黒…、深き水底のような無明の闇…、こんなことは有り得ない。
真の闇なぞ、忘却の彼方に消え失せたと思われる、この邦(くに)に…、この時代(とき)に…
「ひっ!!」
ひとつの女のような影…、否、影のような女が、少女のすぐ眼前に立っていた。
「黒田…、光(めぐみ)さん…、お久しぶり…、です、ね…」
「!!」
その声には、確かに聞き覚えがあった…、それを放った口元は歪つに曲がっていた。
それは…、笑みと呼ぶには、あまりにも荒廃し、乾き、そして、病みきっていた。
(ひぃ…)
悲鳴が凍りつく…、他の耳に伝わらぬ恐怖の旋律が口中で空しく駆け抜け、やがて消失する。
最後に少女の視界に入ったもの…、それは木乃伊(ミイラ)のように罅割れた掌。
剃刀のように鋭利な爪が頭皮に食い込み、体が嘘のように…いとも簡単に地面から離れていく。
ぎしぃいいいい…
そして…、錆びついた鋸歯のような、厭な感触が首筋に触れたと思うと…
「ぎぃえぇあああああっ!!!」
ぎちり…、ぎちぎち…。
やぁ、や、やめて…、やめてええええっ!!
皮膚がギザギザに裂け、重要な神経繊維が致命的に断裂していく感触が鈍く深く伝わっていく。
「あがぁ…、がぁは、あぁぁ…」
其れは、まさに中空で行われる…、中世および近世の日本の刑罰史で最も残虐と言われた
鋸挽きと呼ばれる公開処刑の再現であった。
ぎちり…、ぎち…、がぼあぁっ!!!
もはや空洞と成り果てた口腔の端から、鮮紅色の泡が後から後から滴り、周囲を塗装していく。
…くす、くすくす、きゃははははははははははは…
いったい何が嬉しいのか…何者かの愉しげな笑い声がいつまでも、いつまでも暗闇に漂っていた。
…だが、それは此れより、この小さな街を覆う災厄のほんの序章にすぎなかった。
・
・
・
「…以上が、一連の事件の発端でありまして…」
ある昼下がりのK県警本部の一室…、机の上に並べられた、酸鼻を極め尽くしたかのような
殺人現場の検証写真の束と朱に染まった遺留品の数々。
マスコミから女子高生連続解体事件と名付けられ、恰も仏教の来世感で語られる等活地獄が
現代の日本にそのまま現出したかのような凄惨さである。
さらに奇妙なことには…、それらを目にしているのは、ひとりのまだ年端もゆかぬ少女であり、
その眼前では、遥かに年長の強面の刑事部長が、聊か困惑を交えた表情で畏まっている。
「で、…如何でしょうか?」
「…状況、了解しました。…後は、わたしたち護霊部の仕事です」
重ね続けた年の功か、少女にそれと気付かせることなく、刑事部長は胸中で安堵の念に浸った。
(ふうぅ…、情けねえがこんな出鱈目な事件、オレたちまともな人間の手にゃ余るってもんだ)
おそらく程無く「零号事例」の認可が正式に下り、この事件は警察当局の手から離れるであろう。
「零号事例」…、即ち、人智を越えた超常的な”存在”により、引き起こされる”怪異”。
新世紀になって頓(とみ)に、その発現が顕著になった特殊案件の表向きの呼称である。
そして、この邦には神代から、そのような”怪異”に立ち向かう一族が存在すると聞いている。
が、まさか…、音に聞こえた護霊部家の名代が、これほどまでに可憐で幼い少女だったとは。
如何なる遺伝の成せる業か、他者を瞠目させずに置かぬ色素の薄い髪と瞳、白磁の人形のような
見目の良い顔の造作、だが、円らで大粒の瞳や、まだ薄っすらと残る幼な顔が年齢相応の生気を
醸し出してもいる…。
(…ふむ、このまま成長したら、おそらく極上の美人になるだろうなあ)
不謹慎であるが、頭の隅でそのような想像を禁じ得ない刑事部長は、この少女=護霊部みなほが
生まれつき病弱で、一時期は、二十歳まで生きられるか否かと危惧されていたことを知らない。
(それに、さすが古から続く名家の代表を任ぜられるだけのことはある…、ウチの莫迦娘なぞより
ずっと年下なのに、ずいぶんと落ち着いたものじゃないか…)
実は、件の莫迦娘は渦中の榊野高校の在校生なのである…、正直、自分自身でこれ以上捜査の手を
下せぬもどかしさは否めない…が、ここまで来れば、もはや全てこの少女に委ねるしかなかった。
「おおい、里中、玄関まで名代様をお連れしろ」
「いえ…、お構いなく」
後方に控えた若い刑事への命を軽く遮り、少女は楚々とした足取りで、生来の喘息体質のために
苦手な煙草の脂(やに)臭さに満ちた刑事部屋より辞去した。
「…イサハヤ?」
廊下の角を曲がったところで、ふと何も無い空間に向け、少女は小さな唇を開いた。
「…ああ、そうだな、みなほ、えげつねえ闇の匂いがプンプンしやがるのは確かなんだが」
奇怪な事に応えを放った者の姿も、また、常人には見えなかった。
「え?…、他に何か?」
「…何か妙な気が混じってやがるな、そうさなあ、それこそ…、まるで人間のような…」
「…そう、人…、なの」
やがて、玄関ホールに辿り着いた少女を、黒衣の長身の男たちが出迎えた。
守部衆という名の護霊部家直属のボディガード集団である。
「名代様、お待ちしておりました…、此度随行させていただきます、わたくしめは三木…」
「同じく遊佐でございます」
「御苦労様です、…では、ちぃ姉様に連絡を取った後、このまま探索に向かいます」
互いに生真面目な気性の伺える口調で会釈を交わすと、男たちはまるで小さな女王に仕える
僕(しもべ)であるかのように恭しく控えた。
「では、護剣を運んでいただいて、あとは…、そうですね、もう少し動き易くって目立たない
ように服を代えましょう」
一旦、方策を練るため、本家に戻るべきか一通り思案したが、事態はかなり深刻な様相である。
直ちに探索に赴くと決めたものの、護霊部家の代表であるみなほの装いは、公の場では正装で
あり、このまま街中に出向くには様々な意味で目立ちすぎる。
「…畏まりました、護剣とお召し物でございますね」
三木がリムジンを回送し、遊佐が携帯で連絡を取る間、みなほはやや所在無げに周囲を見遣った。
「ばーかばか、おねーちゃんはそんなんじゃないよーだ!!」
不意に、ひとりの愛らしい顔立ちの少女が級友らしい同年輩の少女たちと何やら言い争ってい
る様が目に入ってくる。
(あれ、…喧嘩かな?)
明後日の方向を向いていたその少女は、振り向きもせず、そのまま唐突に後退った。
如何にも、子供特有の予測のつかない気侭で迂闊な動きだが、その先に思わぬ障害が在った。
「きゃっ!!」
余裕をもって避けようとしたみなほだが、慣れぬ履物と不安定で狭い足場の所為か、互いの肩先が
ほんの僅かぶつかってしまった。
「み、名代様、申し訳ございません、…お怪我は!?」
ごくあえかなみなほの悲鳴を聞き分けたのか、遊佐が素早く駆け寄って来る。
「きゃあぁっ、ご、ごめんなさいっ!!」
「わたしは大丈夫です、それよりもっと穏やかに…、このコがびっくりしてます…」
「はうぅー、ごめんなさぃ…ごめんなさあぁい」
みなほにぶつかった少女が異様な雰囲気に呑まれ、困りきった表情で謝罪の言を繰り返す。
くるくると表情のよく変わる…、生気に満ちた愛らしい顔立ちに、みなほの視線が自然と
吸い寄せられる。
(ほわあぁ、綺麗なコぉ、それにボディガード?…、わっ、わっ、どこかのお嬢さまかな?)
そして、先方もみなほに対し、浅からぬ感銘を覚えていることが表情で判る。
「…こちらこそ、驚かせてごめんなさい」
ぺこりと頭を垂れたみなほに、相手の少女は大慌てでかぶりを振った。
「ううん、だってぇ、…あたしが悪いんだもん」
「あの…、お詫びに、よろしければお茶など如何ですか?」
「み、名代様?」
「いいの…、護剣が届くまでは今しばらくかかりますし…、少し空気の悪い場所に居過ぎました」
遊佐の言葉を軽く制しながら、年相応の屈託の無い笑みを少女に向けたみなほが言葉を継ぐ。
「…それと、…もしお暇でしたら、お洋服選びにご一緒いただけません?」
・
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− 第二章:白禍流星 −
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凶行は続いた。
ある者は下校中、数名の友人と共に殺された。
ある者は人混みの繁華街、他の通行人共々殺された。
ある者は恐怖で閉じこもった自宅内、団欒を共にする家族共々殺された。
全員殺された。
一人の例外もなく惨たらしい躯へと変えられていた。
”当人”はおろか周囲にいた人間すらも一片の情すらかけられなかった。
かつて彼女に大なり小なり理不尽な悪意を向けた者は全員例外無く死に絶えていた。
そう、伊藤誠の”血”を残す可能性のあった【誠くんを奪う者】はもはや根絶されていた。
だが……
・
・
・
白昼だった。
「……どいて下さい。その人は私から誠くんを取ろうとしている人かも知れないんです」
静かな口調だった。
とても落ち着いた、穏やかささえ感じる声だった。
それはこの状況……10有余名の若者に囲まれながらとは思えないような声だった。
「……」
直径2メートル弱の奇妙な円陣を作っていた。
この辺りを根城とする、いわゆる不良グループの若者達が作っていた。
暴力と享楽に日々を費やす、”札付きのワル”と称されるクズ共が作っていた。
屍の如き病みやつれた表情に薄い笑みを浮かべる彼女を取り囲みながら作っていた。
「お願いです……皆さんには関係ないことなんですから……」
再び静かな口調が響いた。
それは聞くだけなら懇願の類とも取れる声だった。
しかしそれは……
「……」
奇怪な印象を得るばかりだった。
怒気より呆気の濃度を増やしつつ、それでも男達は円陣を縮めようとはしなかった。
なぜならその時の彼女は……いつの間にか長大な”得物”を手にしていたからである。
そう、その手に刃渡り4尺に到達せんばかりの錆鋸を持っていた。
胸上水平、やや左側に引かれた形をしっかりと保持したまま持っていた。
その右手の人差し指と中指のみで柄を挟みながら微動だにせず持っていた。
そして左手の人差し指と中指で同様に刃の部分を挟み込み、薄笑みと共に持っていた。
「……?」
その姿に阿呆の様な表情を向けるばかりだった。
その動作が何を意味するのかすら男達には解らなかった。
恫喝に用いる下卑た声すら発そうとしなかった。
鉄パイプや安物のサバイバルナイフといった武具もただ手に持っていただけだった。
そう、廻りを取り囲む男達はただ目前の妖女の不可解さに呆けを強めるばかりであった。
……だが。
「……なあんだあ。皆さんもあの人の仲間だったんですねぇ……じゃ、死んでください」
やはり静かな口調だった。
軽やかで穏やかとしか言いようのない口調だった。
だが、だがそれはあの奇怪な構えを遂に!遂に発動させながらの口調だった!
「……!?……!!!!!!」
瞬間!
その左指が刃を解き放つ!
瞬発!
刃身に限界まで溜め込まれていた”張力”が爆発的に開放される!
瞬転!
まるでフィギュアスケーターの如く全身を反らせた驚速回転を全身で開始する!
瞬殺!
致死半径なんと3メートル有余!
人知を凌ぐ速度と破壊力を有した殺戮の円周が男達を喰らわんと一気に描かれる!
……その間、正に流るる星の如し……
「お待たせしました……」
相変わらずの静かな口調だった。
未だ馬鹿面のまま立つ10有余名の男達に囲まれながらの声だった。
そして、その間から当然のように化け物鋸の切っ先のみを覗かせながらの声だった。
「それにしても……こんな人たちまで使うなんて……」
その切っ先から一滴の赤が地面に落ちた。
そしてそれを合図にしたかのように周囲が朱色に染まった。
それは無様に胴体を分断された男達全員の、10数名分の鮮血と臓腑で描いた色だった!
「……ひ……ひぃぃぃあああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
絶叫していた。
妖女が口にした”誠くん”なる人物には全く心当たりはなかった。
目前の妖女が誰で、何故自分達を狙うのかすら考える余裕もなかった。
かつて妖女が、学園内で視界の片隅に自分を捉えていただけとは気付くこともなかった。
「卑怯な人……そんなにも私から誠くんを奪いたいんですか……」
「誠なんてわた知らな知ら許し助けたひはお願お願ああははひぃひぁひひひゃああああ」
発狂していた。
常軌を逸した目前の現実に、その精神は修復不可能な程崩壊していた。
学業を疎かにし、屑同然の男達と怠惰な享楽に耽る日々の果てがこれだった。
ただ、それは自業自得ではなく、榊野高校に在籍しているというだけで訪れた運命だった。
……たったそれだけだった。
……もう……留まることが無くなっていた。
無尽蔵に湧く猜疑心という魔酒に酔うが如くだった。
『可能性がゼロで無ければ同様』……そんな<悪魔の証明>が具象化したかのようだった。
「……じゃ、死んでください」
薄い笑みだった。
白目を剥き、口から泡を吹きながら倒れた娘を目前にしてだった。
既に生ける屍同然の無様な様を晒す娘に手を伸ばしながらだった。
そう、あの化け物鋸を持った手を無慈悲かつ確かな仕草で……その時!
「もう……もうやめて下さい!」
凛とした表情がそこにあった。
優美な和装に身を包んだ小柄な少女がそこにいた。
華奢な体躯に似合わず、全身から気迫を感じさせながら立っていた。
「殺しまくりやがって……こんなに人を殺しやがってこの女あやかしがあ!!!」
激怒そのものの表情がその視界にあった。
古代日本神話を連想させるような様相の美丈夫の男性だった。
まるで歴史ある神社仏閣にて信仰の対象となっているような存在に感じられた。
「……どちら様……ですか?」
やはり静かな口調だった。
虚ろな笑みと粘質の視線を少女達に向けながらの口調だった。
そして同時に、何時しか元の姿に戻った安物鋸を再び構えながらの口調でもあった……
・
・
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− 第三章:正邪邂逅 −
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・
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「護霊部みなほ…、古より妖しの者を狩る一族の末裔(すえ)です…」
少女の涼やかな応えに、薄汚れた長い髪が乱れ、そこから病み痩せさらばえた顔が微かに覗く。
髑髏のような眼窩から放たれるもの…。それは既に人ならぬモノの気配…、いや!!
「何だ、この咽返るような妖気は…、まるで齢を重ねたあやかしそのものじゃねえか!?」
「違う、この女(ひと)は人間よ…、あまりにも…、哀しいまでに純粋…、だった…」
「貴女も…、世界さんのように誠くんを奪りに来たんですか?…、なら、死んでください」
ざしゅうううううっ!!
妖女が自らの首筋に刃を当て一気に引くと、元はホームセンターで買える何の変哲もない
レザーソーだったものが濁った血に染まり、またも1mを優に超える化け物じみた長大な
得物に変貌する。
「セカイ、マコト?…こいつ、何を言って…、みなほ、仕方がねえっ、斬れっ!!」
「だめ…、あたしの無拍子の技も、魂伏も、骨噛も…、この女(ひと)は斬れない…」
女が僅かに身を撓めると、信じ難いほどの跳躍で一気にみなほとの距離が詰まる。
魂の底まで濁らせるような瘴気と、恐るべき殺意を纏った汚れきった刃と共に!!
「なんだと!そんな馬鹿……あ、危ねぇみなほ!」
斬!
まるで腐辱の閃光!
凄速の一閃が空に袈裟懸けの弧を描く!
「!」
直後!
正に紙一重!
反射的に後方へと身を反らしたみなほの目前を殺意が掠め過ぎる!
「やっぱり……生きたいってことは誠くんを私から奪うつもりなんですね?」
薄汚れた笑みを向けながらの声だった。
事も無げな、まるで今の一撃が挨拶程度と言わんばかりの声だった。
そしてそれは再び間合いを得るためその身を一気に後方へ移動させながらの声だった!
「大丈夫か!?」
「ええ、イサハヤ……でも……」
「だったら抜け!確かにアイツは並以上の手練れだが今のお前程じゃねえぞ!」
その言葉が響いた瞬間、みなほの表情に陰りが生じた。
そして……文字どおり絞り出すような口調でそのことを語りだした。
「だめなの……だって、あの人(ひと)にはもう……【想い】しか残ってない……」
「なんだそりゃ!?俺にゃ全然わからねえぞ!」
「胸が痛くなる程なの……祓うべき穢れも鎮めるべき負も無いぐらい純粋なの……」
「莫迦か!アイツはセカイとかいうヤツを憎んでるぞ!それこそ【負】じゃねえかよ!」
「違うの、あの人(ひと)はただ、ただささやかに自分の【想い】を護りたいだけ……」
「ふざけんな!そんな勝手な思い込みで片っ端にされた奴らが納得するってのか!」
「……解るの……私も女の子だから……だから……」
その声にみなほは苦渋で答えるしかなかった。
そして間合い数メートル先の”現実”を現実として認識するしか無かった。
「うふふ、渡しませんよ。あなたみたいなずるい人に絶対誠くんは渡しませんから……」
愉悦にも似た口調を響かせていた。
そして胸上、やや左側に引かれた形で化け物鋸を水平に構え始めた。
続いて虚ろな笑みと共にその右手の人差し指と中指のみで柄を挟み始めていた。
胡乱な瞳を向けながら左手の人差し指と中指で同様に刃の部分を挟み込んでいた。
そう、あの驚愕にして奇怪な構えと共に殺意を全身から醸し出す一人の……
いや、もはや一匹の悪鬼と呼ばざるを得ない、哀しいばかりの”現実”を……
(ちっ、こうなったら仕方がねえ!!)
如何に、明神流闘剣術の継承者であっても、無拍子の技を封印したまま、斯様な
殺人剣を振るうためだけに生まれたような妖女と、純粋な体力勝負になったら…、
喘息を患うひ弱なみなほに、まず勝ち目はない!!
この現世では、今もなお、新たに甦りし数多のあやかしが、闇から溢れ出ようとしている。
まだ、この少女を喪うわけにはいかない…。誰よりも懸命に精一杯生きて…、
そのか細い肩に圧し掛かった重たすぎる使命に打ち克ち、全うさせるまでは!!
「其処のあやかし女ぁっ!!…、この莫迦娘が出るまでもねえっ、オレが相手をしてやる!!」
そのとき…、少女が静かに一歩だけ歩を進め、猛る無形の神霊を制した。
「もし…、よろしければ、お名前を…」
無論返事はない…妖しの者が真名(まな)を知られることは敵に弱みを握られるに等しい。
妖女が示したのは、異貌ながらはっきりとそれとわかる嘲弄の笑みのみ。
「…そうですか」
哀しげに目を伏せるみなほ、あくまで眼前の妖女とは人間同士として接したかったが…。
だが、次の瞬間…、その眼差しに新たな決意の焔(ほむら)が灯った!!
「では、お相手します、すべての力と技を尽して…、今だけは護霊部の名も捨てます!」
「なっ!?…、みなほ、お前!?」
「イサハヤ、これしかないの…、この女(ひと)と、闇に捉われた哀れな魂たちを
慰める方法は…」
最大の拠り所であるはずの護霊部家の名も、無拍子の技すらも自ら捨てて妖女と
向き合うみなほ…。
取りも直さず、それは…、眼前の敵手をあやかしとしてではなく、一個の人間と
認めてのことに他ならない。
「…ひとりの人間として、ひとりの女の子として…、”想い”の総てを込めて!!」
「あはははははははっ、あーっはははははははははっ!!!」
それは…、大気をも軋ませる異形の波動にして猛毒に満ちた悪夢、返答の代りに爛れ
歪み切った業の篭った哄笑を上げ続ける妖女。
「今は寄る辺無き、清らな誠の心(こころ)…、ただ、言葉(ことのは)の欠片に乗せて…」
古の唄とも呪句ともつかぬ、あえかな呟きが、恐るべき敵手の前に全てを晒した
可憐な少女の唇から漏れる。
ビクンッ、ビクッ!!
「その…先…を、…ぃ、ぅな…」
妖女の初めてのように見せる激しい感情…、そして爆発的な思惟が魂切る悲鳴の如く
地に満ちる!!
「言うなっ、言うな、言うな…、言うなあああああーーーっ!!!!!」
(……むっ?どうしたコイツ?)
「……どうして?」
嘔吐のような声をゆっくりと響かせ始めた。
狂乱したかの如き叫びをあげたつい今程とは雲泥の口調でだった。
「どうして?こんな筈じゃないのにどうして?」
腐汁の如き涙を流しながらの声だった。
窪んだ眼窩から薄荒れた頬を伝わせての声だった。
まるで臓腑にこびり溜まった汚物を吐き出すような口調でだった。
「私は誠くんの彼女。誠くんは私の彼氏。なのにどうして……
どうしてみんなは私たちの邪魔をするの?どうして”世界”は私たちに冷たいの?」
確かに……内包していたものだった。
人一倍穏やかでたおやかであったが故の、現実との摩擦が生んだものだった。
人一倍【想い】に強く純粋であった故に、心が壊れることすら拒絶した故のものだった。
「……なんだこりゃ?……おいみなほ、お前何をした?今の術はなんだ?」
その妖女の変貌ぶりにイサハヤは思わずそう口にした。
(……)
だが、その問いに返答は無かった。
ただ、澄み響くような声を発し続けていただけだった。
それだけで前言に偽り無く、無策にして無術のままであることを示しているようだった。
「お前……い、いや気を散らして済まねえ……」
その声にも返答は無かった。
正に自然体。在るがままに声を発していただけだった。
そよぐ凪音の如く、己自身も森羅万象の一片として目前の憐憫に発していただった。
「間違ってるわ……間違ってるわ……何もかもみんな間違っているわあああ!!!!!」
再び、野獣の如き叫びを妖女が響かせてもそれは変わらなかった。
そして再び、いや、先程以上の射らんばかりの視線を向けても変わらなかった。
一層禍々しさを表情に満たし、あの構えすらかなぐり捨て斬りかかっても変わらなかった。
(やれやれ、莫迦ってのは解っちゃいたが、まさかここまでたぁ……ははは、参ったぜ)
その様相にイサハヤが苦笑混じりの声を内心で呟いた。
剣の技量は未だ修行途上、病弱で筋力も体力も常人より劣っている身……
なれど迫る殺意に振るうみなほの剣、いや様相全てが”それ”に酷似していたからである。
そう、剣という人殺しの武器を使って人を生かそうという奥義中の奥義【活人剣】に……
・
・
・
妖女が深々と身を沈め、大きく歪み、野獣のように変貌した強靭な筋肉を撓めていく。
「はぁああああああああーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
発条(ばね)のような膂力と、そこから生み出される絶大な加速…、そして必殺の剣刃!!
其は人の間合いではない…、されど獣が斯様な化け物じみた得物なぞ使えるはずもない。
…まさしく、妖人(あやかしびと)の成せる業だった。
赤錆の浮いた鋸歯と、魔性の物理攻撃に反応する骨噛の刃がぶつかり、文字通り噛み合う。
余勢を駆っての更なる一撃…、これも充分に速度と重量の産むエネルギーを利してのもの
だが、これもまた飛燕のように舞う少女には届かない。
少女の小さな肢体が自ら跳ね、鞠のように身を弾ませながらも、絶妙な歩捌きで間合いを
確実に詰める…、次の瞬間、魂伏が清冽な銀燐の光を放ち、妖女を圧倒しながら艶やかな
弧を描く。
「があああああああっ!!」
何時しか身に憑いた殺人剣技も、もはや功を奏さず、ただ、無様に身を泳がせる妖女。
少女の双剣が今や人ならざるモノと戦うための無拍子の技と同様、眼前の敵手を圧倒する。
(うおっ、マジかよ…、みなほのやつ、あれだけの連撃を凌ぎ切りやがった!!)
一年近くにもわたる人外のモノ相手の修羅場の中で磨かれたみなほの技量は、いつしか
神霊イサハヤをも驚嘆させるほどに、長足の進歩を遂げていたのである。
…だが、この恐るべき妖人は、そのまま捻じ伏せられて終わるほど脆弱ではなかった。
先刻鋸歯を使って、自ら作った首筋の刃創を空いた指を突き立て、そして、驚くべきことに
そのまま、思いっきり掻き毟った!!
濁った血飛沫が、黒い毒霧のように、見る見るみなほと妖女の間に拡がっていく!!
ひゅうううう…!!
強烈すぎる毒気は、ほんの僅かな空隙から少女の免疫機能を冒し、内に潜むアレルギー体質をも
呼び覚ましてしまった。
「けほっ、くぅ…、けほっ!!」
激しく咳き込むみなほ…、晩秋の夜気が容赦無く少女の呼気を掻き乱した。
「くっ、やりやがったなっ…、なんてこった…、こんなときに!!」
不意に訪れた好機、だが、妖女は追討ちの手を止めた…。否、止めざるを得なかった!!
「ひぃっ!!?」
その濁った瞳に映るもの…、其れは、身を穢れに委ねたモノですら魂を震わせる戦慄!!
己が対峙する幼き少女、みなほが生まれながらに背負い、今もなお内から噴き出すもの。
其は、万物を呑み込むような深遠の闇、…誰もが諦念を抱かずにおれぬ絶望の黒!!
闇に呪縛されたが如く、呼吸すらろくに適わぬ…、あまりに脆く華奢な身体。
否応無く魔と向き合い、力尽きるまで戦うことを定められた呪わしき運命(さだめ)!!
(…つらい…、つらいよぉ…、…もういやぁ、…だれか、…だれか、たすけて!!)
妖女がカッと目を見開き、凄惨な絶叫を続ける!!
その幻視はかってのみなほの残像であり、荒み濁りきった己が姿の鏡像だった…、だが!!
「…ああ、あ…、何て…、何て、いう…」
輝きが在った…、汚泥の如き濁りに沈もうとなお、其処には清き光明が暁星のように瞬いていた。
凍てついたはずの心が震える…、とうに枯れ果てた筈の熱い血脈が蘇ってくる…、あれは!!?
「みなほっ、もうガマンできねえっ!!…、このあやかし女ぁっ、地獄に堕ちやがれ!!!」
遂に怒髪天を衝き、半身を神砕きの鎚に変形させたイサハヤの怒号が肺腑を穿つように一際響く!!
…違う、ちがうっ…、自分は、この形無しの神霊が呼ばわるようなあやかしなどではない!!
…確かに人として、…新たな生命を産み、育む、…女として生を受けたのだ。
…美しく在りたかった…、暖かく在りたかった…、優しく在りたかった、…強く在りたかった。
…誰よりも、…誰よりも
…なのに、…なのに、…なのに!!!!
「わああああぁああぁ、あああああああああーーーーーーーっ!!!!」
然したる理由も無く疎まれ、嫉まれ、融和や理解さえ拒まれ、そして、最も近しい者にも
裏切られ、闇に堕ちるしかなかった少女の…、其は、血を吐くような悲痛な叫びだった!!
「くたばりやがれえええぇーーーっ!!!」
「いたい…、いたいっ、何もかもっ、痛い…、痛いのおおおぉ!!!」
互いに声高に叫び、身を切るような殺気を放ちイサハヤと妖女が激突する…、その刹那!!
凄まじいばかりの鋼同士の噛み合う大音響が周囲に木霊した。
「!!?」
「みなほ、お、お前…!?」
両者の間に、いつの間にかみなほが割り込んでいた…手にした骨噛丸が妖女の化け物鋸を、
そして、魂伏丸がイヤハヤの圧倒的な凶器と化した肉体を、各々圧し留めていた。
瞬時に放った無拍子の技で、両者の間に融け込むように割って入ったのである!!
イサハヤは、ただ驚愕するしかなかった…。喘息体質というアキレス腱を抱えたみなほは
未だかって発作が発生してから、この技を成功させることは出来なかったはずである。
「くっ、ふぅっ…、けほっ…、けほっ!!」
(毒気に当てられて、呼吸もままならねえ状態でかよぉ…、…お、お前、そこまでして…)
前以上に激しい呼吸困難に陥り、涙を流しながら蹲るみなほ、もはや一言も放つ余裕もない。
「……あ、ああ…」
「なっ!?」
いつしか妖女の手が、化け物鋸を離れ、苦しげに喘ぐ少女の背に添えられていた。
そして、そのまま優しく、緩やかに小さな背を摩り始める。
「………な、なんてこった」
妖女の顔に、今までに無い憂いと優しさの入り混じった表情が浮かんでいた。
…かってのままの…、美しかった桂言葉のままの顔に…。
やがて……
「やれやれ、一時はどうなるかと思ったが……なんとか無事みてぇだな」
「うん……はあっ、はあっ……ごめん……なさい……」
そう言うとみなほはしゃがみ込んだ姿勢を再び立ち上がらせようとした。
だが、足に力を入れようとしたその直前、その一言に動きを止めることとなった。
「……もう少し、もう少し呼吸を整えてからの方が……よろしいですよ」
幾分離れた所からの声だった。
苦しく咳き込む自分の背を労るように摩り続けていた当人の声だった。
そして症状が安定を見せた途端、安心させるように距離を取ったあの妖女当人の声だった。
「……手前……どういうつもりだ?」
その声にイサハヤが声を発した。
先程と同種の怒気、そして欠片の隙も感じさせない瞬発の気迫が混じったような声だった。
……当然であろう。
如何にしおらしい態度を取ろうがそれが本心であるかどうか解ったものではない。
いや、それ以前にみなほが今苦しんでいるそもそもの原因を考えれば考えるまでもない。
故に僅かの敵意、或いは媚びへつらいの態度を見せれば今度こそ滅ぼすつもりであった。
……だが、幾ばくかの沈黙を経て帰ってきた返答はそれらに類するものではなかった。
「私は【悪】です。そのひとの命に触れてやっとそのことに気付きました」
はっきりとした口調でその一言が響いた。
あのおぞましい【化け物鋸】にて数多の命を奪い続けた当人の声だった。
正に【伐殺剣女(ばっさつけんにょ)】と呼ぶに足る所行を繰り広げた妖女の声だった。
「……今の私は……自身の善全てが悪に討ち滅ぼされた<成れの果て>です」
「ほう?」
「……自分の夢想だけを見るだけで、現実はおろか自分自身さえ見なくなった愚か者です」
「……」
「確かにあの人達の仕打ちは客観的に見ても理不尽であったと今も言えます……
ですが、あそこまで無惨な最後が相応しいかと問われたら……それを私は……私は……」
もう嗚咽だけだった。
覆った両手から涙と共に嗚咽を響かせるだけだった。
まるでその手に感じ続けていた、消え逝く命の感触を思い出すように。
まるで先ほど触れた、遙かに深い闇の中にてもなお煌めいていた輝きを忘れないように。
(善人だった己を感情毎思い出したってか……にしてもそれしかもう善が無ぇたぁ……)
その様相にイサハヤは内心で舌打ちをするようにそう漏らした。
そして小さなすすり泣きを聞くに任せていた幾ばくかの後、その一言に目を向けた。
「お待たせしました」
再び立ち上がっての一言だった。
先程と同様、静かな、だが確実に気迫を感じさせる一言だった。
それは決意を込めた表情と、迷い無き抜刀の体制を取るみなほ本人が発した一言だった。
「よろしくお願いします」
その気迫に答えるように軽く一礼が返された。
そして意を決したように傍らに転がった己の得物であるあの化け物鋸……
いや、触れた直後より錆を零し、程なく秀美な光沢を放つ一振りの大刀の姿……瞬間!
「!?」
正に瞬動。
肩に担ぐように大刀を構え、今にも飛びかからんばかりの中腰……
まるで自身の決意を示すが如く一瞬で教本の如き見事な構えを見せた。
「必ず本気でお願いします……でないと私は多分……いえ、あなたを確実に殺します!」
清々たる口調が響いた。
あの妖女……いや、そこにはもう一人の娘がいるだけだった。
そう、清楚な胴着に身を包んだ……かつて桂言葉という名前だった娘の姿そのままの……
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− 第四章:怨名禍辻 −
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数日前から、榊野高校の女生徒達が惨殺死体で発見され、近年稀に見る猟奇殺人事件と
世間を賑わせていた…。護霊部家に調査依頼が来たのは、それが化外のモノの仕業と
知れたからだが…
その凶行を成した女妖の正体…、かって桂言葉と呼ばれた少女が、みなほと静かに正対していた。
両者の間には、なお張り詰めた気が漂っていたが、先刻の様に禍々しい妖気の入り混った
ものではなかった…。
双方とも一度抜いた刃を収め、古の野試合のような様で姿勢を正しながら再度向かい合う。
(おいおい、なんだ?…、今更、いったい何のつもりだよ?…)
人ならざるイサハヤの眼には、ふたりの少女の有様は、ただただ不可解なものに映る。
「はああああああぁぁーーーっ!!!」
「はいぃいいいぃぃっ!!!」
僅か一呼吸の間の抜刀!!…、一合、また一合、白刃同士が中空で火花を散らし噛み合う。
互いに刃が届けば、それで死命は決する…、退路無し、文字通りの死合いである筈だが…。
言葉は身に付いた邪剣の手管をもはや一切使わず、みなほも、明神流闘剣術の飛閃居合を
初めとする、所謂、奇手と呼ばれる数々の戦技を自ら封印していた。
ふたりの少女は生命を賭した戦いに勝つ…と言うより、内に秘めし総ての力を曝け出し、
互いにぶつけ合う…、まず、それ自体を求めているようにイサハヤには思えてならない。
(それにしても…、何なんだ、こいつは…、自ら妖化を解いただけじゃねえ…。
この強さは、いったい?)
この邦(くに)に於いて、戦乱の世はとうに終わりを告げ、人間は利便性を追求した挙句
精神も肉体もすっかり脆弱になり果てた…はずであるが、この少女は明神流闘剣術という
神代から続く実戦剣法を真っ向から相手取り、一歩も退くことはなかった。
(これが…、これが、こいつの”想い”の強さだというのか?)
人が強さを語る時、其処には様々な形がある…、肉体の堅牢さ、敵手を凌ぐ迅さ、
技量の高さ…、みなほの師の九文字かほるや、護霊部の上の四兄妹は、何れも其れを
体現する者たちであろう。
…が、それは、同時に決して人としての領分を越えることはない。
この少女=桂言葉のような者は極めて稀な…、特異な才を持つ者と言えよう…。
例えば対峙しているみなほや、護霊部の開祖、朱珠媛(あけたまのひめみこ)のような…
(…なんてこった。こいつのような者こそ、みなほの傍に必要だというのに…)
美しかったかっての姿に戻ったと言えど…、血流の絶えた蒼白な顔や、何よりも先刻
自ら着けた刀傷や深い爪痕が、もはや、尋常な存在では無くなってしまったことを、
如実に物語っている…。
あまりの宿命の皮肉さに、この不敵な無形の神霊も、もはや身を震わせるしかない。
「ほほほ、私が見初めたモノらしくもない…、そぉんなつまらぬ貧弱な小娘なぞ放っておくがよいですわぁ」
「「!!」」
イサハヤと言葉が同時に振り向いた先、そこにひとりの奇妙な粧いの女が立っていた。
古めかしい装束を婀娜(あだ)に着崩し、両の肩を顕わに晒した真白い肌と妖艶な肢体。
紅く長い髪が風に吹かれたように乱れ、その顔は見えないが、口元だけは窺える。
艶かしい紅の…、それ自体が、まるで忌まわしい生き物を連想させる唇。
歩を進め、少しずつ距離が縮まると、何か奇妙なモノを引き摺っているのが観て取れる。
「ほぉら、これを授けましょう…、貴女のもぉっとも愛しく、もぉっとも大切なモノを…」
女が引き摺っていたもの…。それはカラカラに乾涸び、まるで干物のように縮まった女の死体だった。
薄汚れた革細工の様な体表の中、首筋と下腹部に付いた刃傷だけは、奇妙に生々しい緋色だった。
「ひっ!!」
女が、さらに木乃伊のような死体の腹の疵を、愉しげに裂き拡げ、中から何かを取り出す…。
それは恰も南米の蛮族が拵えたような…、目と口元を無残に縫われた少年の干し首そのものだった!!
「いやああああああぁぁぁーーーーーーーっ!!!!」
理性を取り戻したはずの言葉の顔が、音律の狂った絶叫とともにまたも見る見る変貌していく!!
「そんなっ、どうして!?…世界さんに誠くん?…誠くん、誠くん、誠くんっ、まことくんっ!!!」
前にも増し、凶猛さと禍々しさを湛えた容貌で、言葉が血反吐を吐き、悶え苦しむ!
「な、何だと!?…」
化身の神霊イサハヤですら、そのあまりの変わり様に、しばし呆然とするしかなかった。
(なんてザマだ、あの女、一瞬で…、そんなにも、背負った業が強すぎるというのかよ!!?)
折角、みなほが決死の”想い”で少女の魂を呼び覚ましたというのに…、これで
総ての努力は潰えてしまうというのか…!?
「ほほほほほ、それでこそ言葉(ことのは)…、私の貴女ですよぉ」
イサハヤの思いを嘲弄するかのように、新たなる怪異の気配と陰惨な笑い声が地に満ち満ちていく。
「その薄気味悪りぃ喋り方には覚えがあるぜっ、そうか、てめえかっ、”禍辻(まがつじ)”!!」
「御美事ぉ…、御久しうございまする…、イサハヤの君ぃ…」
…享楽と怠惰の腐臭を湛えた気怠い声、…其は、覚醒も能たわぬ夢幻の媚毒。
…数多の経絡や気の流れが交わり必然として生まれ出ずる境界、…其は”魔ヶ辻”にして幻と現の狭間。
…禍辻媛(まがつじのひめみこ)、其は、冥府と現世の狭間に潜みし、恐るべき疫災の闇主(かみ)!!
(くそっ、なんてヤツが来やがった、コイツには今のみなほの力も、オレのサトリの
力も通じやねえ!!)
ましてや護霊部の名代たる少女は、ひとりの魔に堕ちた少女を救わんがため、力を
使い果たしている。
みなほとイサハヤが邂逅し、退魔行を続けて以来、最悪の窮地であった。
やがて……
「……ふぅっ」
舌打ちにも似た呼吸音が一つ、小さくその場に響いた。
それは普段のみなほから想像し難いような、苛立ちを紛らわすような強めの呼吸だった。
そしてこの危機的状況……なのに、あろう事か刀を再び鞘に収めながらの一息でもあった。
「お、おい。みなほ、お前……」
返事は無かった。
やや早めの足取りでイサハヤの目前を通り過ぎただけだった。
やはり普段と違う、苛立ちを含めた表情で無言のまま通り過ぎただけだった。
「ん?なにかのぉ小娘?私に何ぞ申したきことでもあるのかのぉ?」
幾ばくかの後、尊大な、そしてやや興味深げな口調が響いた。
歩き始めたその足取りのまま、平然と目前にまでやって来たみなほに向けた一言だった。
説明するまでもない、イサハヤが【禍辻(まがつじ】と呼んだあの謎の怪女の声である。
「始めまして。私の名は護霊部みなほです」
しっかりとした一言が返された。
怯みも敵意もない、ごく自然に発せられたような一言だった。
そしてそれは目前の怪女に対し、なんと【一礼】と共に返した一言だった。
「やはり護霊部の血統であったかぁ……先祖共に風貌が似とるは思うたがやはりのう」
相変わらずの尊大さではあった。
だがみなほの素直な態度に僅かではあるが邪気が下がったように感じられる声だった。
「やはり私の先祖をご存じですか……とすると随分とご迷惑をお掛けした様ですね」
「……そうじゃあ、御主の先祖共には随分と不愉快な気持ちにさせられたわいなぁ」
「そうでしたか……では我が先祖に成り代わり、この場でお詫び申し上げましょう」
ごく自然な流れに思えた。
ありふれた、世間話程度の流れで始まったかと思われた。
だが、みなほの発した一言、その意味故に一瞬の沈黙を呼ぶに足る流れとなっていた。
「ば、馬鹿かみなほ!お前本気か!本気で言ってるのか!」
イサハヤの叫びにも似た響きがその場に流れた。
当然と言えば当然である。みなほが言ったのは正に降参の意思表示に他ならない。
しかもみなほは正当なる血統にして幼いながら護霊部家名代である。
つまりみなほが言っているのは「護霊部家が全面降伏を行う」ということなのである。
「……本気って?私は確かさっきそう言った筈だけど?」
「手前……く、くそっ……」
余りにも呆気ない返答だった。
普段のみなほから信じられない程の邪険ささえあった。
だが、そのみなほの返答はイサハヤの二の声を失せさせるに充分であった。
(……確かにそれしかねえよな……ああちくしょう!確かにそれしかねえよ!)
イサハヤ自身もそれを理解できないほど愚鈍ではない。
正しく今は絶体絶命。如何に知恵を絞ろうと打つ手なぞ思いつかない。
都合良く援軍が現れるわけでも、奇跡の武具が今すぐ手に入ることもありえない。
この腹立たしい現状を愚痴ったとしても、そんな夢想に逃げる程己を失ってもいない。
……誉めるしかないのだ。
敢えて屈辱を受け入れようとする目前の少女を。
冷静な状況判断を下し、最も的確と思える手を打とうとする【主】を。
そう、少なくとも自分より先にあの怪女に対し、勇を奮って行動を起こしたことを。
(なんだよ……ヘタレはオレの方ってか……へっ、なら、しゃあねえか……)
何処か自嘲めいた呟きを内心で漏らした。
そしてそれは同時に、自分自身に対し一つの覚悟を決めさせる合図でもあった。
それは……
「ほう!?これはなんとなんとぉ!?仮にも護霊部の末裔が私に頭を下げると申すか?」
(相変わらず嫌な声だぜ……)
愉悦めいた狂喜がイサハヤの視界にあった。
正に上機嫌さながらの怪女【禍辻(まがつじ】が発した声だった。
古来より『妖(あやかし)』を始めとする異界の存在から最も恐れられた護霊部家……
その名代から初めて謝罪を得るという事実が如何に貴重かを如実に示す様相であった。
「はい。ですがその代わり……えっと、少々お願いがあるのですが……」
(……来やがったか……)
もはや目下同然としか見えない口調で話すみなほが視界に続いた。
その一見情けない限りの態度のみなほを罵る気持ちはイサハヤには欠片も無かった。
それは誇りを失ったどころか、高潔だからこそ出来ることだと痛感していたからである。
「おほほ、取引まで申すとは中々!愉快愉快!私が出来ることならなんでも聞いてやるぞ。」
そして、上機嫌そのもの光景が発現した。
それはある意味当然といえば当然過ぎる光景だった。
考えてみれば【ほんの些細な戯れ】こそ行ったものの、一切の戦闘は行っていないのだ。
……にも係わらず、あろう事かあの護霊部の末裔までもが自分にこの様な態度を取る……
今日までこれ程愉悦を感じたことは無かったと感じる程の上機嫌を見せるも当然だった。
「ありがとうございます……では、お言葉に甘えまして……」
至福だった。
親しげに自身に近づき言葉を続けるみなほを視界に入れながら至福の表情を見せていた。
それは変わらなかった。
敵意をあからさまにし始めたイサハヤを、もはや取るに足らないものとするかのように。
そして、やはり変わらなかった。
そう、それが余りにも唐突なことであった故に変えることすら忘れていたようだった。
何時しか自分の懐深く来ていたみなほが……一気に無拍子を打ったことが!!!
「!!!???げえええっ!げはあああああ!!!!!」
直後!
正に渾身の一刀!
零距離よりほぼ垂直に放たれた骨噛丸の刀身が怪女を一気に薙ぐ!
その至福の表情をかき消すように腹部から胸部にかけてどす黒い一直線が描かれる!
「御主いいい!謀ったなあ謀っ!!!???ぎゃああああああああ!!!!!!!!」
憤怒そのままの叫びが響く!
もはや返答すら期待しない、正に自身の激情を示すための叫びが響く!
そう、間髪入れずみなほが放った魂伏丸の刀身を己の心臓に感じながらの叫びが響く!
「なんだこりゃ……なにがどうなっちまってんだ?」
呆然となるだけだった。
その余りの急展開にイサハヤ自身何をどう口にして良いか解らなくなった程だった。
そして、みなほが言葉を終えた瞬間、叶わぬまでも一矢と構えていた矢先故……
そう、何をどうして良いか一瞬解らなくなった故だった。
「……なんでも……叶えて頂けるんじゃなかったんですか?」
間近での声だった。
それは静かな、だが同時に強い怒りを感じさせる声だった。
一人の小さな、そして純粋な願いを弄び大勢の命を奪わせた者に対してそれは当然の……
そう、まごうことない普段のままのみなほ自身が確かに発した一言だった!
「抜かったあ!御主が殊勝故抜かったわ!無拍子使いの心は読めぬことを抜かったわ!」
大いなる嘆きを響せた。
苦渋と後悔と憎悪を交えた醜悪極まりない嘆きを響かせていた。
「まさかの敗北」……未だその現実を受け入れぬ頑迷ささながらに響かせ続けていた。
「……では代わりに……さっきのお詫びの話は無かったことにして下さい……ねっ!」
「ひ、ひ弱な小娘風情が何たる無礼!未だ我に止めすらさせぬ未熟者の分ざ……!?」
怪女の視界に何時しか距離を取っていたみなほの姿が映っていた。
技を発動するにするに充分な構えと気迫を込めた姿が確かに映っていた。
皮肉にもあれ程の攻撃を食らっても瀕死には至らぬ身故、それを現実とするしかなかった。
……故に。
「く、くくくく口惜しや口押しやああああああああ!!!!!!」
凶暴極まりない叫びを残しただけだった。
その一言は周囲にいた羽虫を殺し、幾つかの植物を瞬時に枯れさせた程に強かった。
しかし、虚空へと徐々に姿を消して行くに連れそれも徐々に静寂へと変わっていった。
そう、去っていった。
現世から撤退したと同時にみなほがその場に倒れたことも知らないままに去っていった。
あの時、もはや己を倒す力など欠片も残ってなかったことを知らないままに去っていった。
そして自分が何故、いや何に敗北したのか……その肝心なことすら知らないままに……
・
・
・
「……凄ぇぜみなほ!無拍子連発どころかあの女をあそこまでたぁ……全く大金星だぜ!」
幾ばくかの後の声だった。
怪女【禍辻(まがつじ】が撤退し訪れた短い沈黙の後の一言だった。
それはいつものぶっきらぼうで戯けたような、そして労りを込めたイサハヤの声だった。
「……大金星って……なんか私……ふふ、おすもうさんみたいね……」
その声に小さな響きが答えた。
やや呼吸が整ったことを示す微かな笑みと共に発した一言だった。
それは小柄な体躯を片膝と片手を地面に付かせながら発したみなほの一言だった。
「……にしてもさっきのアレ……ははは、流石のオレ様もちっとばし焦っちまったぜ」
「……ごめんなさい」
「気にすんなって。ま、済んじまったから言うが、こっちも手前が……どうしたみなほ?」
沈んだ表情があった。
いつもの、持病からくるそれとは別の陰りがあった。
まるで何かを後悔しているような、そんなみなほの表情をイサハヤは視界に入れていた。
「……ねえイサハヤ……さっきの私……卑怯だったよね……狡かったよね……」
「はあ?」
「……もう他に方法は思いつかなかった……でも……でもやっぱりあんなの!」
覚悟は出来ていた筈だった。
自分の役目は生半可なものでは続けられないという自覚は確かにあった。
そして勝ち続けなければそれだけ不幸な人々が増えることも重々承知していた。
だが、勝てば良いというものではないとも思っていた。
どんな非道卑劣な手段を用いようとも敵を倒しさえすればそれで良し……
ならば自分が戦ってきた『妖(あやかし)』共と本質的には何も違わないとも考えていた。
幼く、青臭い理想だと嗤う者も多かろう。
そのような考えはただの綺麗事にしか過ぎないと一笑に付す御仁も多かろう。
……それでもよい。
何故なら綺麗事とは、「本当はそっちが正しいことだ」ということだからである。
つまり……
「……聞かせてください。あなたは先程何のため、誰のために剣を振るったのですか?」
項垂れるみなほに別の声が届いた。
再び自我を取り戻したような優しさを含んだような声だった。
それは説明するまでもない、つい先程まで死闘を繰り広げていた一人の娘の声だった。
「もし役目とかの為ということだけでしたら……あなたはいずれ私と同じようになります」
「……」
「ですが、あなた自身が誰かのためにということでしたら……今の戦いも誇ってください」
「……えっ?」
「あなたは自分の善の力で自らの悪を抗し、その力を善に用いただけじゃないですか」
柔和そのもので地面に正座しながらだった。
はっとした表情のまま顔を上げたみなほの視界にそんな姿があった。
あの怪女の撤退と共に灰燼と架した二人の亡骸を膝に置いたままそう語っていた。
「人には善悪があり、そしてその善悪は常に戦い続けているのだと思います」
「……はい……私もそう思います」
「でも、ひょっとしたら……例え善でも完全に勝っちゃいけないのかも知れませんよ」
「えっ?」
「戦わなくなった善と、戦い続け鍛え続ける善……ふふ、どっちが強いと思います?」
笑顔だった。
本来の年齢差らしい、年長者としての慈しみを感じさせる声だった。
そして何処か謎めいたそれは同時に……ある一言に続けられた一言でもあった。
「この勝負、私の負けです……それから……ありがとうございました……」
満足げな笑みがそこにあった。
完全なる悪として、不完全な善に敗北した者の笑顔だった。
それは一つの終わりを満足と共に迎え入れた、ある種の高潔な表情でもあった。
無言で佇むみなほとイサハヤの前に……確かな現実の光景として……
・
・
・
− 最終章:憂終流天 −
・
・
・
「ぁ………」
ついに、みなほは力尽きて膝を折った。
「みな…、は…、無理もねえか、あれだけお前と打ち合い、最後にはあの禍辻まで
退けたんだ…」
存在自体が瘴気そのものの如き禍しき路の女王に相手取り、ギリギリの力を奮い起こし
ついに抗い遂せたのである…、いったい他の誰が、この幼き少女のような業を成しえた
であろうか?
「ええ…、強い子です、本当に…」
無論、肉体がという意味ではない…、あれほど激しく刃を重ねた相手でありながら
ここまでみなほのことを理解し得た斬人剣士=桂言葉を、しばしイサハヤは複雑な
表情で見遣った…が、不意にあまりに場に不似合いな人気アニメのOPのイントロを
基にしたメール着信音が鳴り響いた。
「ちっ、どうにもこのケータイって道具は、便利だが、いちいち無粋でいけねえ…」
しかし、かってない有効で重要な情報伝達手段であることは認めないわけにはいかない。
彼らのバックアップを担う姉のみづきや守部衆からの重要な連絡かもしれず…イサハヤは
ひとりごちたまま、礼を失するのを承知で、喪心したみなほの袂を弄った。
「あ、なんだ、こりゃ?…、みなほの連れにしても、こんな名前知らねえが…」
…差出人欄の名は、桂心、…件名は[みなほちゃんへ、おねーちゃん見つかった?]
「そ、…そんな!!」
「おい…、どうしたんだ?」
「………妹です、わたしの」
「なんだとぉ!?…、そうか、あの時の生意気なガキがか…、は…ははは、なんてぇ
奇縁だよ」
連続惨殺事件の探索行のため、K県警察本部を訪れたみなほは、その最中、何やら同級生と
諍いを起こしたらしい同年代の少女と道でぶつかった…。不思議と互いに心惹かれるものを
感じたのか、それが縁になり、みなほは、その少女=桂心と親しくなった。
みなほは新しい友人に、この街に来た目的を至極曖昧に”人を探すお仕事”と説明した。
生来、嘘が苦手な性格の少女のものといえ、出まかせにしては、些か出来が悪すぎる…だが。
黒服のガードマンである守部衆が同行していたことが、その言繕いに妙な説得力やこの年齢に
ありがちな突飛な想像力を働かせたのか…
次の心の言葉に当代の護霊部の名代ともあろうものが、不覚にもひどく驚かされることになる。
…3ヶ月前に行方不明になった姉を探して欲しい…というのが、心の願いだった。
しばし無言で視線を交わすイサハヤと言葉…、其処にもはや敵意は存在しないかに見える。
「…で、どうするよ?…、…会わねえのか?」
「わたしは、もう無明の…、常世の住人です…、妹の住む陽の当たる場所へはもう…、
いつかこのように感じ入る心も失って…、きっと最後には、この娘に狩られてしまう…」
本当に明るくって優しい子だった…、こんなに穢れてしまった自分を、まだ案じてくれていた。
残虐な殺人事件を起こした娘の妹として…、肩身の狭い思いをしてきたことは想像に難くない。
悲歎の想いに沈む言葉…、それに引き換え自分は…、妹が誠に感心を持ったとき、心のどこかで
疎ましくさえ感じていたというのに…。
「…本当に度し難い…、ここまで堕ちて当然の女です…、でも…、でも!!」
でも…、この幼い少女のように…、心の何もかも曝け出し、ありのままで自分にぶつかってくれる
友がたったひとりでもいてくれたなら、あるいは…、ここまで哀れな身に堕ちず、幸福に暮らせた
かもしれないのに…
「…どうして…、どうして!?」
もう取り返しがつかない、何もかも…、哀れむは、もはや僅かな自らの魂の残り火のみ…。
「…ほ、…んとに、そう…、思い、ます、か?」
「み、みなほ!?…、この莫迦、これ以上無理するんじゃねえっ、今度こそ息の根が止まるぞ!!」
…が、みなほは、今回もまたイサハヤを制し一言ずつ…、咽喉を振り絞るように言葉を繋いだ。
いまこそ、そうしなければならないと…、この繊弱な少女は絶息に身悶えながらも堪え続ける。
「…あなた、は…、苦しん、でる、あたしの…、背、を、やさしく撫でて…、くれ、ました…
…ほん…とに、…こ、ころを喪ったわけじゃ、ない……」
例え、女夜叉(ヤクシニー)のごとき無情の斬刃を振うとも…、心の何処かには持って生まれた
性情が確かに息衝いている…、一片の鏡の表裏の如く断ち難い矛盾でありながら、現在も尚…。
「あた、し…、まだ、こども、だし…、ばか、だから…、なに、が、ほんとの…正義か、なんて
…わから、ない……、でも、…信じられる、ものは…、たしかに、ある…、ここ、に、ある…の」
生まれ落ちたその時から…、他人の手に縋らねば、この少女は、生き永らえることができない。
母にかけられた無数のあやかしの呪詛を、その幼き身に受け継ぎ、尽きぬ病に身を苛まれ続け…
…その生命は、斯くも儚く脆いのである。
…だから、例え、相手が悪人でも…、ほんのささやかな仏心か、気紛れが元であろうと…。
自分の命を支えるため、差し伸べてくれた手を、みなほは決して裏切らなかったのである。
「…あ、…ああ…」
言葉の表情が哭く形に崩れる…、たとえ涙が乾き切り流れなくとも…、斬人の魔少女が確かに
今、哭いている。
それを認めたみなほが、今、有らん限りの命を凝らし、魂を研ぎ澄まして小さな唇を開く。
「…いざ事祝ぎよ、言葉(ことのは)の紡ぎ手よ…、其は無量の闇の彼方より、心に
還りし御光…也」
言葉と心…、奇しくも象徴的な少女達の名を呪句に織り込み、みなほの紡ぎ続けた言霊が
ようやく完成する。
…じっと聞いてきた言葉の胸には、暖かいものが確かに宿っていた。
「…ああ…、あたたかい…」
心絆され瞳を閉じる言葉…、その前に差し伸べた手に、舞い散る灰芥が纏わりつき
何か形になっていく。
「あ、…ああ、やっと、…わたしの元に還って来てくれましたね、…誠くん…」
それは数々の事件の発端となった惨劇の犠牲者、…今は亡き伊藤誠の頭骨であった。
「…ありがとう…、…人だった頃の記憶と温もりを、…私達、…これで、慰められた
ような気がします…」
灰塗れの髑髏を愛おしそうに胸に抱き、踵を返して、幼き御霊の守護者の前より辞去
しようとする言葉。
「…おね、が…い、…、いつか、…こころちゃんに…、あって……ね」
そのひたむきな表情のみなほの願いに…、言葉は幽かに哀しみや戸惑いを交えながらも
確かに微笑んだ。
…かってのままの、優しい少女の頃のように…。
やがて、救急車をはじめとする、慌しい緊急自動車の一群が醸し出す喧騒の中、不吉な
魔影達は一片も残さずK県榊野町の小さな街並みより消え失せた。
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時は移り、ある朔の夜、漆黒の闇に潜み、無明の宙空を仰ぐひとりの少女の姿が在った。
長い美髪に、雪花石膏(アラバスター)のような透き通る肌…。
胸には薄汚れた少年のものらしい髑髏を大切そうに抱いている。
そして、その胸の内には自分より更に幼く、清しげな蒼白き頬の少女の姿が在った。
「心せよ、魔と戦う者…、自ら魔と成らぬよう…。汝、久しく深淵を見入るとき、
深淵もまた汝を見入るであろう…、か」
かって目にした哲学書、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの「善悪の彼岸」の
一節を口ずさむ闇の少女。
あの、まだ幼い少女=御霊部みなほの内より滲み出す無限の闇を垣間見たとき、只、
名状し難い戦慄に震えるしかなかった…。
その秘めし”強さ”故に、其処に潜む”危うさ”をも避け得ずにいるのである。
(ありがとう…、苦しみながら懸命に尽くしてくれた、貴女の誠の意(こころ)…、
わたし、決して忘れません…)
弱さゆえ流され続け、追い詰められ、いつしか歪んだ形で激発してしまった己の心。
もはや、自分は人間ではない…、おそらくは、いつかまた血の衝動や破壊の悦楽に
飢えた末に、再び、あの忌まわしい魔人と化す日がやって来るのだろう。
だが、闇の少女は、今こそ、それに打ち克つほどの魂の強さを得たい…と願わずには
いられない…。それは、生まれて初めて勝ち得たかのような高潔な克己の意思…。
(もう、遅すぎるかもしれません…。でも、わたし、そのことを心やみなほちゃんに
示したい…、そして、いつしか、それを誇りたいと願って止みません…、しばらく
待っていてくれますか…、誠くん?)
闇の少女の唇が煤けた髑髏の額の部位から、そっと離れ…、そして”想い”を込めて
新たなる、”言葉(ことのは)”を紡いでいく。
「…斯くも幼き護霊(ごりょう)の戦部(いくさべ)よ…、願わくば、路を失わぬよう…」
路を失わず、正しき導きが在れば…、あの少女は輝きを失わず、どこまでも歩いていける
…そのはずである。
…が、それは、あの禍しき悪路の女王と、再び経路(みち)を交える宿命(さだめ)でもあった!!!
さらに昏く深い墨染の如き闇…、この世のもの成らぬ魔霊の版図に、穢れた土の饐えた
匂いが漂う…。
自ら闇を容取るかのように、居並ぶ凄まじい数のあやかしたち…、その中心には、あの
艶やかな紅の…有史以来存り続けたと言われる、”不死の女王”の姿が…。
「おお…、闇主さま…、大事なく重畳の極み」
「…ですが…、些か、御戯れがすぎまするぞ」
「あははは、案ずるでない…、さぁて…と、かの護霊部の者、なかなか愉しませて
くれるではないかぇ」
胸に刻まれたまま、容易に塞がらぬ骨噛の刃傷を、禍辻がしばし愛しげに撫で回す。
路、そして其処に吹き渡る風は、変転の相の象徴である…、然るに、この凄まじき
悪路の女王の身には、この数百年近くの間、瑕ひとつ付く事は無かった。
「くくく、気に入ったわ…、斯くも頼り無げな幼な身で、よくぞ、この禍辻を謀り
遂せたもの…しかし、それが現在のあれの限界であろうなぁ…、さぁて更に見える
刻にはぁ…」
それは、居並ぶ冥界の士たちすらも底冷えを禁じ得ぬ、あまりに忌まわしい笑みだった。
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…数日後、護霊部家本邸
「なんと、件の”禍辻(まがつじ)”なるあやかし…、そこまでに恐るべき相手とは…」
「ああ…、このまま、みなほが目を付けられたとなりゃあ、ちとマズいことになるわな」
広大な庭園の隅に在る茶室で語らっているのはイサハヤと護霊部家の長女みなぎである。
実の所、この稀代の大妖については、イサハヤといえど知り得ることはさして多くはない。
洋の東西にかかわらず、四つ辻には、”魔”が潜んでいると言われる。
異界に通じる路の交わる場として、古代エジプトの世から魔の領域と呼ばれ、
平安京の都の辻を使って安部清明は、冥府と現世を行き来したと言う。
禍辻は、強力な負のパワースポットから生まれた怪異の化身である、…おそらくは、
人類が”経路(パス)”の概念を知り得た…、その瞬間から存在していたかもしれない。
…まさに人類の歴史とほぼ起源を同じくする、旧き暗黒神と言えよう。
また、禍辻は別名「微睡(まどろみ)の神」と言い、その殆どが休眠状態にあり、現世に
顕現する容姿は、その夢の中に現れる姿と言われ、それ自体が別々の神格、性格を有した
”分身”、もしくは、”媛(ひめ)”と呼ばれる場合もあると言う。
イサハヤ同様の形無の神であり、その真の覚醒を迎えた時には、邦(くに)が滅ぶとも…
”禍辻媛”とは、イサハヤ同様、日本に渡来してから付けられた綽名(あざな)である。
現在、その”真名”を知る者は、地上に一人として存在していないはずであるが…。
「ま、当たり前の人間なんぞとは時間の観念が違う…、何と言っても、アレは神だからな。
今生で関わった人間への執着なんざ、忘れたまま眠りっ放しでいる可能性も高いんだが…」
「ぜひ、そう願いたいものです…、この上、斯様な重荷を、幼いみなほに背負わせるなぞ
あまりにも忍びないというもので…」
「…ところで、みなほのヤツは?」
「未だ臥せっておりますが、幸いにも大事ありません…、今も、みづきが付いております」
「はぁ…、よくもまあ、その程度で済んだもんだ…。…ったく毎度毎度冷や汗が出やがる。
ま、みづきにとっちゃあ、しばらくの間は、妹を目の届く処に置いておけるワケだからな。
さぞ嬉かろうよ…」
「イサハヤ殿、それはわたしにとっても同じこと…、最近のみづきときたら己の立場を良い
ことに、みなほを独占しすぎる…、何たる度し難い姉馬鹿ぶりであることか、嘆かわしい…」
「……おいおいおい」
「…おかげで、わたしに甘えてくれる順番がなかなか回って来ぬではないか、まったく…」
(あのな、てめぇだって真正の姉バカだと思うがな…、ったく此処の兄弟共は揃いも揃って)
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・
「いやあああああぁーーーーーーーっ!!」
魘されたまま、床から半身を起こしかけた妹の姿を見た護霊部みづきは、大急ぎで駆け寄った。
「み、みなほ…、どうしたの?…もう起きていいの?」
「(い、今の…夢?…)は、はい、ちぃ姉さま…、心配かけてごめんなさ…、ああぅっ!!」
あまりに激しい剣撃の応酬の結果、筋組織の広範囲に渡って断裂や炎症が生じていた。
予期せぬ激痛に苛まれ、そのまま布団の上に蹲り、涙を流しながら苦しむみなほ。
(本当にもう…、イサハヤ様も、生命があっただけ、まだ幸運だったと仰っていたけど…
どうして、このコばかり、いつもいつもこんな辛い目に…)
みづきの心配も無理はなかった…、あやかしに対し、唯一有効な無拍子の極意を会得した
その瞬間から、…このまだ幼い異母妹は、己が生命を的にしながら、ただひたぶるに闘い
続けて来た。
焔羅焔羅や黒曜翁事件など、幾度も生命の危機に陥り、先の姑獲鳥事件では、あろう事か
狂える母性にまんまと捉われ、危うくあやかしの娘にされかけたのである。
現代に蘇ったあやかしたちは、斯様なまでに恐ろしく強く…みづきたち上の四兄妹や
師の九文字かほるは、その都度、胸が張り裂けそうな心痛を味わったものであるが…
みなほの寝間着の帯を解き、新雪のような真白い肌を覆う湿布や包帯を丹念に検めるみづき。
あまりに華奢な肢体が、一層痛々しく見えてしまい、また胸を詰まらせてしまう。
「…あ、おともだちからメール来てる」
みづきより携帯を手渡され、痛みに堪え、嬉しそうに時間をかけてメールを確認するみなほ。
しおりとさゆきのものは、相変わらず、みなほを気遣い励ます暖かい言葉で満ちていた。
顔を綻ばすみなほだったが、心のメールが目に入ったときには、思わず表情が曇った。
「…ごめんね、ごめんね、心ちゃん、いまはまだ逢えないの…、でも、いつかきっと」
如何に心を尽くそうとも、やはり幼いみなほひとりの力では限界というものがあった。
「あー、そのコが例の…、新しいおともだちね?」
イサハヤからある程度の経緯を聞いていたみづきが、すばやく察し、直接精神の生傷に
触れぬように、みなほに問う。
「はい、とっても可愛くって、お姉さん思いの善い子です。…また逢いたいな…、でも」
言葉は自らの凶行を羞じ、悔いていた…、妹の心と合い見えるには、まだ幾許かの時間と
更なる切掛けが必要になるであろう。
「…ごめんなさい、まだお約束守れなくって…、わたしに、もうすこし力があれば…」
「…あのね、みなほは、ほんとに出来得る限りのことを一生懸命やったと思うの…、
いったい他の誰に、みなほと同じことが出来ると思うの?」
「…でも、…でも」
(ほんと…、莫迦がつく程御人好しなんだから…、でも、ま、そこが可愛いんだけど、ね)
互いに御役目から離れ、今だけは、ごく普通の…仲の良い姉妹でいられる。
ふたりの姉妹…特にみづきにとって、それは何より暖かく、代え難い貴重な時間だった。
「さてと…、九文字の、あの気障でいかがわしくって助平な女装オトコの家から、お見舞いに
美味しい栗羊羹いただいたの…、たくさん食べて早く元気になってね…」
殊更に戯けながら、手づから愛妹に好物を振る舞うべく台所に向かって立ち上がるみづき。
その背に不意にみなほが負い縋った。
「あらあら、どうしたの?…、護霊部の名代さまともあろう御方が…」
「…ちぃねえさま…、ちぃねえさまぁ…」
そのまま、姉の細腰に手を回し、背に顔を埋めたまま、弱弱しく呟くみなほ。
「おねがい…、おねがい…です、どうか…、あたしの前から、いなくならないで…」
「み、みなほ…?」
「夢を見たの…、とってもこわい夢…、ねえさまたちが、あたしを捨ててどこかに行って
しまうの…、もし、そんなことになったら…、あたし、さみしくて…、こわくって…もう
どうすればいいのか…、わから…ない…」
あれほどまでに聡明で、喘息発作に苦しむ自分の背を優しく撫でてくれた桂言葉が…
人の道を踏み外し、学校も家庭も、自分の居場所の何もかもかなぐり捨て、悪鬼羅刹
同然の姿に成り果てたことを…
あれほどまでに強い情欲が…、深い愛憎がこの世に存在することを…
この少女は、幼き故にまだ理解することができず、…ただ、戦慄くばかりだった…
冥府の闇に捉われた言葉を救い、さらには、有史以来存在したといわれる大凶妖
”禍辻(まがつじ)”すら退けたこの少女が…
(ああ、そうだった…。護霊部の名代として、どんな目覚しい働きをしようと…どんな
大人びた起ち居振舞いをするようになっても…、このコはまだまだ子供で…、あたしの
大切な妹…その距離は今でも変わってはいないんだ…)
護霊部家と、闇に潜みし妖しの者たちとの激しい戦いは、これからも続くであろう。
…だが、虎狼の如き暴力のみが、全てを制するのではない。
人は…、人である故の…、力の在り方を示さなければならないのである。
「だいじょうぶ、あたしは何処にも行かないし、何も変わらない…、こんなにもちいさくて
頑張り屋さんで、愛しくってたまらない大切な妹を置いて、いったい何処へ行くというの?」
「えっ、うっ、…うっ、…ねえさまあっ!!」
優しく響くみづきの言葉が、確かな温もりが、みなほの盲目的な不安を涙と共に洗い流していく。
(みなほ、貴女が、いつか誰かを愛するようになっても…、どうか今のままの、優しい心根を
忘れないでいて…、それは、いつか確かな力となって…、きっと貴女を正しく導いてくれる…)
幾重にも重なっていくひとの”想い”…、それは、何時しか磐石の絆となって少女を護るであろう。
…晩秋の陽溜りの中、ふたりの姉妹は静かに空を仰ぎ、彼方に想いを馳せた。
(完)
キャラクター原案:Mr.K−U
仮説雑貨商 15,000HIT おめでとうごございます。