鈍色の空だった。
濁昼が染める海面が陰鬱な波紋を岸壁に寄せていた。
大小各種多数の船舶に混じって一艘の大型ヨットが停泊していた。
かつては豪奢な純白の、だが幾年の漂流を経たが如き朽ち様の船体を晒していた。
「うふふ、解ります?誰かを愛することって、とてもとてもステキなことなんですよ」
虚ろそのものだった。
亡者と見間違ごうばかりの薄汚れた様相だった。
それは15,6歳程度の、病色の表情に白痴めいた虚笑を浮かべ続ける娘だった。
その手に恐怖の品があった。
持ち手こそ安物同様、だが刃渡りにして1メートル強の邪形だった。
そして、既に幾十人分の血肉の光沢をこびり付かせた、それは正に”化け物鋸”であった。
「・・・知るかばか」
最後の一人だった。
肩口を過ぎた辺りで金髪を揃えた、10歳ぐらいの小柄な少女だった。
この寂れた波止場の倉庫街で目前の娘が繰り広げた凶行の最後の生き残りだった。
幼残の表情から凄まじい程の視線を向けていた。
異色症"heterochromia"と思わしき左右異眼の両瞳から”怒り”を向けていた。
娘の斬撃の凶続を驚異的な身のこなしで易々と回避し得たに相応しい気迫を発していた。
そして・・・あり得ざる”不毛”が始まった・・・
仮説雑貨商9周年到達(&10,000ヒット突破記念)短編
I don't forget "Wind and Moonlight"
JUDGE OF ALTERNATIVE
BY:K−U
即座!
娘がその手を振るう!
凄速の化け物鋸が少女の首を薙ぐように走る!
直後!
這わんばかりの低姿勢で回避する!
間髪入れずその体勢のまま前方へ駆け出す!
瞬発!
常人を遙かに凌ぐ俊足が一気に間合いを詰める!
全身を伸ばすその勢いのまま相手の顔面目掛け垂直近似値で拳を放つ!
反射!
少女に匹敵する身のこなしで上体を反らし迫る拳を交わす!
瞬間的に逆手に持ち替えた化け物鋸を前方正面から押し込むように振るう!
咄嗟!
外した拳を裏拳に移行し持ち手の腕を打つ!
首筋間一髪に迫った残虐の歯々が娘の身体共々弾かれるように離れる!
そして・・・
「アハハ!強いですね。でもそんなに抵抗するってことはやっぱりそうなんですね!」
笑っていた。
それは正に幽鬼の如き異形の笑みだった。
そして少女が放った裏拳の勢いを殺すために同時同速度で体勢を変えた娘の笑みだった。
「・・・あのバカメガネの同類ってわけじゃなさそうか・・・ならまだマシね」
意味不明の苦笑を漏らしていた。
それは幾ばくかの焦燥と安堵の混じったような笑みだった。
そして目前のつかみ所のない殺戮鬼に対し、愉悦さえ思わせる不敵な笑みだった。
「まだそんなに小さいのに・・・うふふ、意外とおませさんですね」
確かに意味不明だった。
一体この娘は何者なのであろうか?
いや、そもそも何処から来て何故無差別に等しい殺戮を繰り広げたのであろうか?
「・・・黙れって言ってるでしょ!お前の言ってることわけわかんないのよ!」
全くもって意味不明だった。
大体この少女も何者なのであろうか?
これ程の、常人を凌駕する驚異的な戦闘力を何故有しているのであろうか?
・・・そんなことはどうでも良かった。
これは単なる”殺し合い”それ以外に記すべき理由などこれには無いのだ。
愛憎?思想?信仰?不運?狂気?心情?過去?etc...?
成る程、理由は幾らでも付けられる。
娘は周囲の未熟な人間性に翻弄された挙げ句にこの様な有様に堕ちたのかも知れない。
少女は過酷で無惨極まりない過去により、この様な驚異の存在となったのかも知れない。
そのとおり、如何なる理由でも【殺す側】になら付けられる。
だが、【殺される側】には結局「殺されるという事実だけ」だけなのだ。
ならば、双方が殺す側であり殺される側でもある殺し合いに理由付けなど必要ない。
もう一度言う。
これは【 殺 し 合 い 】である。
だから皆無である。幾ら求めてもここにはそれ以外の意味など全く無いのである。
「・・・じゃ、死んでください」
娘は化け物鋸を再び構えた。
命を奪うにしては余りにも呆気ない一言と共に構えた。
それは形こそ片手正眼、ただ何気なく一直線に伸ばしただけ・・・いや!
「うそっ!?」
少女の表情に緊張が走った。
その卓越した動体視力が目前の異形を捉えた。
・・・最初は刀身に残る犠牲者の血が滴っているだけと思えた。
だがその一滴一滴はまるで重力を無視するように切っ先から手まで流れていた。
そして、流れ着いた筈の一滴は何処へも溜まらず滴り落ちようともしていなかった。
そんな奇怪な流れを確かに行っていた。
もはや常人には目視することも困難な速度で流れていた。
まるで鋸の歯一本一本を形作るような一滴一滴が・・・直後!
斬進!
先程を凌ぐ速度!
数歩の前進と共に上段一直線に化け物鋸が一気に振るわれる!
回避!
薄紙一枚!
瞬発的に後方へ身を翻した少女の足下に凄まじい衝撃が走る!
破砕!
まるで削岩機!
歯が触れた瞬間、古びた石畳が信じがたい勢いで破片となって砕け散る!
異業!
如何なる仕組みかもはや人知に理解不能!
その手で振るわれたのは正に血流一滴が全て歯と化した超高速硬度の”電動鋸”!
「・・・あっ!?」
唐突!
少女の表情が一瞬凍り付く!
それまでの動きが嘘のように少女が地面に転倒する!
そう、先程の一撃で靴紐を寸断され、足から脱げた靴を転がしながら!
「うふふ、よく避けましたねえ。すごいすごい・・・でも死んでください」
無慈悲な笑みが響いた。
先程刻まれた一筋の破砕跡側に倒れた少女の目前で響いた。
何の躊躇もなく二筋目を少女自身の肉体に刻み付けんが如く響いた。
そして当然のように少女目掛けて再び化け物鋸を振るいながら響かせ・・・だが!
「ふざけんなあああ!!!」
瞬!
咄嗟に伸ばした手がその破砕跡を保持する!
文字どおりの手がかりとして驚異的な筋力により迫る刃下から滑るように脱出!
即!
体勢を整えた瞬間、刃に向かって掌底を放つ!
化け物鋸を握る手に一瞬の緩みを生じさせる!
衝!
あらざる方向への衝撃に思わず手放した化け物鋸が宙に舞う!
だが、だがなんと!少女の手が宙に舞った直後の化け物鋸を掴み、そして!
「なら喰らえええ!!!」
斬!
空に緋色の軌跡が一直線に走る!
それは説明するまでもない、化け物鋸を手にした少女が振るった軌跡!
そう、一欠片の躊躇も無く娘の身体向かって袈裟懸けに振るった瞬発の軌跡!
やがて・・・
・
・
・
「なに・・・これ・・・」
絶句していた。
少女は呆然とするしか無かった。
その”異形”に先程手にしたばかりの化け物鋸を取り落とす程だった。
「なんで俺が・・・こんな目に遭わなきゃならないんだよ・・・」
喋っていた。
「俺が何したってんだ・・・なんで誰もそっとしてくれなかったんだよ・・・」
それは15,6歳程度、娘と同人種同年代程度の男性・・・のようだった。
「面倒くさいんだよ・・・大体あいつらが俺のこと構うからだよ・・・」
だが、解ったのはその程度だった。
何を言っているのか全く理解できない、いや決して理解などしたくない。
少女にとってその”顔”は思考停止させかねない程の、正しく【狂った】現実であった。
「うふふ、そうです。愛は人を強くさせるんですよ」
立っていた。
虚ろな笑みを放ちながら傷一つなく立っていた。
少女が手にした瞬間、あの化け物鋸の大半が血肉に戻ったが故に立っていた。
「でもそんなに強いなんて・・・そんなに私達を引き裂こうなんて・・・」
結果として着衣のみを切り裂いただけで立っていた。
流化した鮮緋が中空に緋色を一筋描いた程度で終わった故に立っていた。
そして、切り裂かれた衣服下、腹部に癒着した謎の”顔”を覗かせな・・・故に!
「あ、ぁ、ぁ・・・ぅぁぁぁああああああ!!!」
絶叫!
もはや思考無し!
沸点に達した衝動のままに少女が一気に駆け詰める!
そして娘の顔面目掛け、文字どおり”ぶちかます”ために固めた拳を放・・・!?
「!?」
にやついた笑みがそこにあった。
まるで合気の如く片手で少女の拳を腕毎流しながらの笑みだった。
少女が動く寸前、地面に転がる安物片手鋸を蹴り上げながらの笑みだった。
そして残る片手で掴んだそれを少女の首筋直前まで迫らせながらの笑みだった。
「くっ!」
掴む!
残る片手で迫る娘の片腕を掴み寸前で刃の進撃を静止させる!
放つ!
至近距離から少女が瞬発の蹴りを下段回しで娘の脚部に放つ!
だが同時!
なんと娘も古流柔術の”払い”に酷似した足技を仕掛ける!
僅かに早く到達した少女の蹴りが娘の技を不十分なものにさせる!
だが不十分ながらも仕掛けられた娘の足技に重心を崩され威力も半減以下となる!
そして・・・
「そっか・・・そういうことか・・・」
呟くような声だった。
再び間合いを取りながらの声だった。
目前の異形ではない、まるで”この場に存在しない相手”に詫びるような声だった。
そして同時に滑りを防ぐ為に残る片靴と両靴下を脱ぎ、”攻撃”を構えながらの声だった。
「・・・さっきの私・・・こいつらと同じじゃないの・・・」
鋭い視線のまま語っていた。
浅傷まみれの姿を気にする様子も無く語っていた。
破れた衣服に裸足という姿で、それでも何かを反省するように語っていた。
しかし確かな手つきで上着の下に背負っていた”それ”を取り出しながらの姿だった。
「・・・私、ばかだ・・・あんなに私のために・・・なのに・・・ちくしょう・・・」
その体躯には不釣り合いな一振りだった。
まるで少女の闘志を結晶化したような分厚く鋭利な光沢だった。
刃渡り40pに届く独特の文様を有す、極限まで洗練された刃物がそこにあった。
それは高炭素鍛造鋼ダマスカス製の真新しい”Tactical Knife (戦術用ナイフ)”だった。
「ち、ちょっと待てよ!お前!俺が何したってんだよ!?俺は・・・」
「でもそんなものまでなんて・・・やっぱりそうだったんですね・・・」
「な、なあ落ち着けよ。そんなことしてなんになるってんだよ!」
「嘘つき・・・小さいからって私を騙そうなんて・・・なんてずるい・・・」
「ほら、話せば解るっていうじゃないか。なあ・・・」
空虚な台詞が続いていた。
娘の白昼夢の如く現実を認識していないのは明白の台詞が続いていた。
”顔”の自尊心の欠片もなく未練がましく己の保身のみに走る台詞が続いていた。
「・・・」
もはや殺意すら無かった。
甚だしき異形の自己中心主義者共・・・少女は嫌悪の表情を向けるだけだった。
他者を塵芥程も意に介さない言動に対し、もはや湧くのは”破壊衝動”のみであった。
「・・・」
それでも笑みを浮かべていた。
凛とした少女とは対照的な、退廃の笑みを娘は浮かべていた。
”あれ”に両手でだらしなくもたれかかるような姿勢のまま浮かべていた。
そう、尽きぬ滅意を示すかの如く、あの凶具”化け物鋸”を再びその手に有していた。
・・・つい先程まで安物の片手鋸だった。
娘は何の躊躇もなく己の腹部の”顔”にそれを直接突き刺しただけだった。
その行為の結果、抜けた刃が背中から一直線に鮮血を吹き出しただけだった。
そして吹き出した形で硬化した鮮血毎抜刀のように引き抜き再び発現させただけだった。
「・・・ごめんなさい・・・それと・・・これ、作ってくれてありがとう!」
闘志に些かの欠けは無かった。
それでも怯む様子は一欠片も無かった。
この悪夢の如き現実を目前にしても尚、少女は勇敢さを失っていなかった。
囁くような謎のその一言と共に、己の武具たるナイフを強く握り構えるだけだった。
「・・・」
やはり娘の笑みは続いていた。
慈悲の欠片もない饐えた笑みだった。
そう、もはや人間には不可能な程の、邪悪に歪んだ笑みを浮かべていた!
直後!
「・・・消えろ!」
即座に少女が駆け出す!
理屈では無い!正に人としての直感による行動!
その一瞬「これ以上存在することを許さない」との判断を下した故の疾走!
「では、死んでくださヒィャァハハハハハハァァァアアア!!!」
破顔!
正に破裂したがの如き凶笑が響き渡る!
堅い石畳を支点とし、全体重と全身の力を己の得物に乗せながら!
およそ人体を用いる方法では限界であろう”張力”を化け物鋸に注ぎながら!
そう、正に殲滅の一刀、その間合いに無防備に飛び込んできた少女を目前にしながら!
そして、瞬間的に両逆手で持ち直した直後、愉悦の極みと共にその力を・・・
やがて・・・
・
・
・
一条の鮮血が流れていた。
石畳の上を伝うように流れる一条だった。
・
・
・
一条の先に幼い素足があった。
それは確かに少女の足、そこから流れる鮮血だった。
・
・
・
・・・信じがたい光景だった。
装填された”張力”による速度と破壊力が炸裂する筈だった。
それは間違いなく少女の身体を下部から分断するに足る剣力の筈だった。
そして如何に少女が素早かろうが間合いから逃走する余裕すら与えない筈だった。
・・・だが。
間合いの外になど逃げなかったのである。
それどころかその一瞬、更に娘に接近する速度を上げたのである。
そう、理屈ではなかった。それは文字どおり直感による動作だった。
「・・・」
立っていた。
娘の目前に立っていた。
身体闘志に僅かの欠落さえ見せぬ姿で少女が立っていた。
その身体に内包する、常人を凌駕する筋力を改めて示すように立っていた。
そう、身体を弾き飛ばされないように足指にて石畳の縁を掴むように立っていた。
そして残る片足の足にて、なんとあの化け物鋸の切っ先を挟み押さえながら立っていた!
「終わりだあああ!!!」
無間髪!
弾けるような一言と共に娘の左胸に鋭利な光沢がぶち込まれる!
足指切断のため再び電動鋸たらんとした化け物鋸が一瞬にして流化し拡散する!
更に背まで突き抜けた刃を更に渾身の力を込めて少女が一気に両手で押し下げる!
肉が斬られる!骨が砕かれる!
血管が裂かれる!神経が切断される!
心臓を初めとする各臓器が次々に破壊されてゆく!
あのおぞましき”顔”共々、娘の存在全てを粉砕するが如き渾身の一刀が振るわれる!
そして・・・
「・・・」
その瞬間、娘の表情が陰鬱な憂いを帯びていた。
それはまるでこれから呪いにも似た恨み辛みを口にするかのようだった。
・・・だが、それは当然の如く、娘の口から語られることは無かった。
「・・・」
その瞬間、”顔”が呆気にとられた表情をしていた。
それでもまた下らない自己弁護のために口が動こうとしていたようだった。
・・・だが、それもやはりその口から語られることはなかった。
「・・・」
その瞬間、少女は無言でその姿を視界に入れていた。
結局一欠片の肉片も散らすことなく、一滴の血も流さなかった姿を。
一片の相互理解も生み出そうとせず、ただ歪んだ愛欲の権化だけであった姿を。
そう、戦闘終了直後、屍を残すことなく【全身が粒子化して消え去った】奇怪な娘の姿を。
まるで・・・そう、最初から【この世に存在してなかったモノ】だったが如く・・・
・・・この間、正に1.4秒・・・
・
・
・
同時刻のことだった。
岸壁に停泊していたままだったあの大型ヨットが海中に没した。
正確に言えば朽ち様の船体に相応しく一瞬にして粉々に砕け散ったのである。
・・・ただ、それを目撃した者は誰もいない。
それまで娘に対峙した人間は、戦闘後早々と立ち去った少女を除き全員殺されていた。
その少女も、程なく駅で合流した20代半ばの黒髪の女性と何処かへと旅立っていた。
だから誰も知らない。
そんな船が存在していたことなど。
そんな船が存在している筈がないことなど。
船内を調べればたった数年前に建造されたと解る船のことなど。
だが同時に、判明した筈の製造会社も所有者も既に存在する筈が無いことなど。
そう、この星を一変させた【大異変】により、それらは既に地上から消えていたことなど。
・・・船である限り海から来たのは間違いない。
だが一体何処の海から来たのか、そしてそこで一体何があったのかは誰にも解らない。
まるで・・・そう、最初から【この世に存在してなかったモノ】だったが如く・・・
まるで・・・そう、最初から【この世に存在・・・
まるで・・・そう、最初・・・
まるで・・・
・
・・・数刻後の光景だった。
夜色の下をあの惨劇の波止場を有する町を発した列車が走っていた。
・
そこに2人の人間がいた。
1人は、肩口で揃えられた金髪と異なる瞳が印象的な、先程の勇敢な少女だった。
もう1人は、腰まで伸びた黒髪と柔和な瞳が印象的な、先程の20代半ばの女性だった。
・
奇妙な2人連れだった。
親子でも姉妹でも主従関係でもない、ただの”旅連れ”としか言えない2人だった。
出会ってから長くて1年程だろうに、まるで10年近くの知己の親密を示す2人だった。
・
静かな時を過ごしていた。
流石に疲れたのか、何時しか寝入った少女の表情を夜月が柔らかく照らしていた。
開けた窓からの夜風が、慈愛の視線を少女に向ける女性の黒髪を軽やかに揺らしていた。
・
そう、2人はずっと旅を続けていた。
今までも、そして多分これからも・・・
END?
no no ”See you again”
”娘”の設定につき、平山俊哉氏の著述から着想を得ましたことを感謝と共にここに記しておきます。